<東京怪談ノベル(シングル)>
スイート・デストロイヤー
ふわりとした髪を揺らしながら、軽やかな足取りで夕暮れのアルマ通りを去ってゆく背中。
それを何故か物凄く遠い眼差しで見送りながら、ルディアの口をついて出たのは、何故か物凄く引きつった呟きであった。
「知〜らない……っと」
■□■
その少女・紅姫が白山羊亭のドアを開けたのは、ゴキゲンそうなお天道様が頭の真上に届こうかという頃だった。
「ねぇルディアちゃん、キッチン貸してもらえないかしら?」
大きな紙袋を腕に抱えた紅姫はうきうきと、外のお天道様にも負けぬ程のゴキゲン笑顔を浮かべている。
そして、ルディアが理由を尋ねるより先に、その表情のままで突然の申し入れの理由を語り始めた。
「お友達がお世話になってるお家があってね、そこの人達、みんな凄く親切なの。だからお礼に何か作って持ってこうと思って――だから貸してね?」
末尾に「?」を付して依頼形にはしているものの、説明の間にキッチンへの移動を完了させているあたり、ルディアに拒否権というものは無いらしい。
(まぁ、いいんだけどね)
砂糖菓子のように甘く瀟洒な雰囲気を漂わせた紅姫は、本当に幸せそうな笑みを浮かべていて、その表情の前にはそもそも断る気など起きはしない。
「でも、お友達が世話になってるからお礼だなんて――そのお友達って、本当に大事な人なのね」
「うん……まぁね」
抱えていた紙袋をシンクの脇へと置きながら、刹那、紅姫の笑みがわずかに変化した。
何と説明しようか迷うような、曖昧な困惑が深紅の瞳をよぎる。
「そう、凄く大事なお友達なの――今は」
軽く首を傾けながらのいらえの後、紅姫は心の中だけで、更に一言付け加えた。
(本当は、お兄ちゃんなんだけどね……)
しかしそんな事まで詳しく語る必要はなかろうし、話せば色々長くなる。なのでとりあえずこの場は「お友達」でいいだろう。
そんな裏側には気付く事無く、ルディアが紙袋を覗き込んだ。
「それで――お礼って何を作るの?」
「甘い物♪ ケーキでも作ろうかなって」
砂糖、
玉子、
バター、
小麦粉、
それから季節のフルーツとか生乳とか。
袋の中には、確かにそれっぽい材料がぎっしりとひしめいている。
「この材料ならショートケーキとか良さそうね。作った事、ある?」
「ううん、ケーキは初めてなの。でも、作り方の本も買ってきたし、頑張れば多分大丈夫だと思うわ」
「手伝ってあげようか?」
この時――
「ううん。お礼なんだから、私が自力で作らなくちゃ意味が無いと思うし」
――ルディアは、気付くべきだったのだ。
「そっか。じゃあ、邪魔しないから頑張ってね」
こと料理という分野において、紅姫をひとりで「放牧」するという事が、果たしてどんな結果を生むのかを……。
「ええ、ありがとう」
しかし、過去の紅姫の戦果を知らぬルディアに、まだ見ぬ未来を予測し未然に防ぐ事を求めるのは酷と云うもので――
「あたしはお店のお掃除してくるから、後はどうぞごゆっくり♪」
――そのため、そこであっさりとルディアは退場し、キッチンには紅姫ひとりが残されるという展開になった。
■□■
さて。
それからどれほどの時間が経過した頃であっただろうか――
「ねぇ…ルディアちゃん……」
ひょっこりと、紅姫がキッチンから顔をのぞかせた。
ほんの数時間前まで満面を彩っていた筈の幸せそうな笑顔はそこに無く、戸惑いとも困惑ともつかぬ表情が、今はありありと浮かんでいる。
「なぁに? どっか難しいところでもあった?」
手こずっている箇所があるのなら、せめてそこだけでも手伝ってやった方がいいだろうか。
そう思いながら、ルディアは紅姫の方へと歩み寄るが……
「完成はね、したの」
どうやらそういう事ではないらしい。
「したんだけど……何か、変なの」
さては失敗か!?
「ちょっと、見てくれる?」
焦げたのか。
それとも飾り付けの最中に崩れたのか。
考えられる限りの失敗例を頭の中で想定しながら、促されるまま、ルディアはキッチンへと足を踏み入れた。
果たしてそこにあったモノは――
「……これ…は?」
「ショートケーキ……の、つもりだったんだけど」
紅姫のいらえが自信無さげになるのも無理は無い。
テーブルの上にでんと鎮座しているのは、とてもショートケーキには見えない不可解な物体であったのだから……
「ちゃんと本を読んで作った筈なんだけど……何か、違うわよね」
(「違う」っていうのは、もう少し似てる状態の事を指すと思うんだけど……)
ルディアの脳裏を、半ば呆然としたツッコミの言葉がよぎる。
手厳しい見解かもしれないが、そんな風に思わずにはいられないほど、目の前のショートケーキと名乗る物体は「似ず非なるもの」だったのだ。
まず、自分がショートケーキであると主張するならば、柔らかなクリームに覆われた、真っ白な物体で無ければならない筈だ。
ところが。
紅姫の作ったそれは、確かにクリームらしきものに全体を覆われているのだが、何故かうっすらと黄ばんでいた。しかもそのクリームは、妙にぼってりと重たげなのである。
生クリームと云うよりは、むしろ、バター。
(あ……なるほどね)
原因を、ルディアは瞬時に理解した。
「生クリームはね、泡立てすぎると分離して、モロモロのバター状になっちゃうのよ」
「じゃあ私、混ぜすぎたのかしら?」
そんな自覚は全く無かったらしく、紅姫はキョトンと目を丸くする。
――実のところ、「混ぜすぎた」どころではない。
てかてかと、どれだけ油っこいかが想像できてしまうほどの照り具合や、デコレーションの表面がガタガタと硬そうなところを見るに、相当どころじゃなく混ぜまくられているのだろう。
とは云っても。
それだけの事であったなら、「バタークリームケーキだと思えば」と、善意の解釈も(かなり強引にではあるが)可能だ。
しかし、そんな前向きな発想すらも許さぬ致命的な特徴が、このケーキには存在していた。
「……薄くない?」
「ルディアちゃんも、そう思う?」
――いや、誰だってそう思う筈だ。
土台となるスポンジ部分が厚さ1センチそこそこというのだから、誰がどう見たところで「薄い」としか評価できない。
厚ぼったいクリームの上に大粒のフルーツがてんこ盛りで飾られているだけに、その薄さが痛々しい。「多分、メレンゲの泡立てが足りなかったのね……」
クリームについてはむしろやり過ぎなまでに泡立てられているのに、どうしてこちらは力尽きたのか――原因を指摘するルディアの声は、もはや九割以上溜息に支配されていた。
「やっぱり、ちょっと変よね」
小さくそう呟きながらも、作者である紅姫自身は、この期に及んで前向き思考のままだった。
「見た目が不恰好でも、大事なのは味と、それから努力した姿勢よね」
元通りの晴れやかな笑顔を取り戻し、そう云って自身の言葉に大きく頷いてみせる。
「今日はちょっと失敗しちゃったけど、また練習して今度はもっと上手に作ってみせるし、それにあのお家の人はみんな親切だから、きっとこれでも食べてくれると思うわ♪」
待て!
まさかコレを持って行くつもりか!?
こってり濃厚なバターをどっぷりと塗りたくった、薄っぺらいショートケーキ(の、よーなモノ)という段階で、本人の努力がどうであれ、味や食感の方は嫌でも想像がつく筈だ。膨らみきっていないスポンジは、恐らくスポンジにあるまじき硬度を誇る筈。
それなのに。
持って行くのか!?
「……」
止めなければと思いつつも、ルディアには何も云えなかった。
「………」
あまりと云えばあまりの展開を前に、どうやら言語中枢がその機能を放棄してしまったらしい。
「…………」
故に何も云えぬまま、紅姫の顔を見つめるだけである。
「せめてラッピングだけは可愛くしなくちゃね♪ お料理はまだまだ勉強中だけど、こういうのは自信あるのよ」
ルディアの沈黙を何と受け取ったか、弾んだ声で云いながら、これまた大量に買い込んできていたラッピング素材を使って、紅姫は自作のショートケーキ(と、おぼしきモノ)を包み始めた。
確かに、ラッピングの腕は悪くないようだ。
本来生クリームはこの色であるべきだろうと、余計な感想まで浮かんでしまう程の真っ白なボックスに、十字に結ばれたラベンダー色のリボン。そしてそこに、白いレースと淡いピンクの花のコサージュも飾りつけられており、外側だけを見るなら「名作」の完成である。
(中身は「迷作」だけどね……)
しかしそれを云いたくとも、ルディアの言語中枢はまだ回復の兆しを見せようとしない。
その間に、苦心の作のショートケーキ(なのかも知れないモノ)の入った箱を抱えた紅姫の姿は、キッチンを後にしようとしていた。
「生ものだから早く食べてもらわなくちゃいけないし――早速届けに行って来るわね。ルディアちゃん、今日は本当にありがとう♪」
とびっきりの笑顔。
肝心の届け物の出来が……(以下、自主規制)……である事は、もはや意識の外に飛んでしまっているらしい。
その笑顔につられるように手を振ろうとして――
(――え!?)
見てはならないものを、ルディアは見てしまった。
片隅に置かれた屑物入れの中。
そこに。
紅姫が使ったのであろう砂糖の空き袋が捨てられていた。
これだけの事であれば、別に何らおかしな事ではないのかも知れないが……実は、その空き袋に表示されていた内容量が、何と3キロだったのである。
あの大きさのケーキを作るには十分どころか、余りまくって然るべき量だ。
それが空になっているという事はつまり……
(まさか……全部入れちゃったの!?)
濃厚なバターをこれでもかとばかりに塗りたくられた、膨らみという行為を一切放棄したケーキ。
しかも、砂糖入れすぎ。
――もはや、味は想像したくない。
破壊的である事のみが確実だからだ。
それが今、無邪気な紅姫の腕に抱かれて、何も知らぬ善意の第三者集団の所へ届けられようとしている……
「知〜らない……っと」
ルディアの言語中枢がようやく回復したのは、軽やかな足取りの紅姫の後姿が、夕暮れのアルマ通りの雑踏の中に紛れようとしている頃だった。
■□■
あれから結局どうなったのか。
ある意味テロリズムなショートケーキ(と、呼んでいいのか自信のないモノ)と、それを食べさせられたであろう人々の反応など、知りたいような知るのが怖いような事がルディアには多数あったのだが……
「? ルディアちゃん、どうかした?」
「なっ…何でも無いのよ……何でも」
……その後紅姫が何度白山羊亭を訪れようとも、やはりどうしても訊ねる勇気が出ては来なかった。
そして。
自分の作った物がどれだけのインパクトをルディアの心理に与えたのか、やはり今になっても全く気付いていないらしい紅姫は、無邪気な熱意と向上心をこめて、こう云ってみせるのだった。
「また近いうちに、ケーキを作ってみようと思ってるの」
にっこりと、花のような笑顔での、世にも恐ろしい依頼の言葉――
「その時は、またキッチン貸してね?」
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