<東京怪談ノベル(シングル)>





 その日が来るまで、臣にとっての青色とは、
 空の色であり、
 それを映す海の色であり、
 何よりまず懐郷の念が真ッ先にあった。

 だから、という明確な理由付けは相応しくないが、波の音に耳を澄ます時間を持つことは、自分の一部のように、自分を確かめる行為のように、今でも欠かしてはいない。
 生まれた時から親しんだその音は、たとい海を離れていたとしても、容易に思い出すことができる。けれどその色彩を感じるにはやはり直接赴いてそこに身を置くに限る。
 幸い、聖都エルザードは海に近い。寝床にしている街外れのテントから抜け出した臣は、早朝の聖都を抜けて、海を目指す。東雲の空も過ぎて、街には住人の姿がちらほら見え始めていた。常の気怠げな動作からは想像できぬほど足取り軽く、しなやかな体躯を伸びやかに遣って石畳を駆ける。
 駆く。
 まさにその言葉通り、臣の動きは無駄のない獣性のそれ。
 意識せずとも躰はよく撓い、何ものにも縛られぬ自由な風格を匂わせている。
 それを嫉んだか、向かい風が銀髪を嬲り、羽織ったシャツをはためかす。臣は口角を引き上げた。潮の香りが鼻をくすぐる。海が近い。眼前に道の途切れ、その先は小さな崖になっている。
 臣は、軽やかに跳躍した。

 ***

 砂浜を進んで、崖から続く岩場を目指す。既に定位置となっている気に入りの岩を見つけて坐り、臣は履いていたジーンズのポケット辺りに手を遣った。
 ここ数日、このように“それ”に触れるのが癖になっている。指先によく磨かれた珠の感触。ふと思い立ち、ベルトループから取り外して、改めて眺めてみた。
 青と白の小さな石を交互に通して作られた環。ストラップ状のアクセサリー。
 青い石が一際目を惹くのは、人の手で作られたのかと疑うほどの、見事な青色のせいだけでは決してない。
 膝に腕を乗せ、眼の前にその青をぶら下げる。環はゆらゆらと、海風に頼りなく身を任せて揺れていた。
 先日の依頼にて手に入れたそれは、依頼人の少女が広場の露天商から買い求め、臣に手渡したものだった。
(……ただの、石っころじゃん、なあ)
 じっと眺めてみるが、特別珍しいものではない。高価なものでもない。万一紛失したところで、同じものを手に入れるのはきっと容易いだろう品だ。
 けれど。
(失くすなんて、もう、考えられなくなっちまってる)
 これと「同じもの」なんて、ないのだ。
 いくら色が似ていたとしても、形状がそっくりであったとしても、臣にとっての宝物は、今手にしているこれだけだ。
 随分と自然にそう思ってから、
「マジかよ、オイ。……タカラモノ、だってさ」
 誰にともなく呟く。
「それとも、お守りってヤツ?」
 どちらの言葉も、数日前の自分の口からは聞くことのできないものだった。不似合いすぎる、と我ながら思う。今でも性質からいえば、決して合うものではない。
 臣の本性は、獣だ。
 衣服など勿論のこと身に着けはしない。人間の姿である時は、仕方なく纏いはするものの、釦やベルトといった拘束されているような気になるものは外している。唯一の例外は首輪だが、これは自分への戒めだ、少なくとも現在は他者から強要されて嵌めているのではない。
 それなのに。

 ――これで、お揃い。

 涼しげな少女の声が、耳朶に甘く。
 数日前の出来事が自然思い起こされて、臣はゆっくりと瞬いた。環の向こうでは絶えずさざめく海。岩近くに寄せた波が、白き泡沫を押し上げてはしぼむ。
 少女と、自分と、もうひとり“弟”と、その夜に偶然集い、一日だけの兄妹の証ともいえる品。
 宝物。
 お守り。
 常に傍に置いておきたいと思う唯一の。
 そんなものを持ったのは、ソーンに来てからは初めてのことだった。
 島から突然この世界へ飛ばされて、流れのままに何となくの日々を暮らす。ここでは死の足音は遠きもの、自分を捕えようとする存在はなく、知り合いすらもまったく居らぬ、新天地。何かを求められることもなく、ただそこに居るだけで退屈に時間は過ぎてゆく。
 それでも、島と、島に残してきたたくさんのものたちを忘れることはできなかった。
 それはうつくしい思い出ではない。
 今訪れているのかもしれぬ脅威だ。
 己がのんびりと道を往くこの時に、ひとと陽気な会話を交わしているこの時に、もしかしたら島ではまた命を賭した戦の火が上がっているのではないか。友は戦い、傷ついているのではないか。
 気づけばそんな思考が過ぎって、臣の足許を僅かにぐらつかせる。
 ――そんな、毎日だったのだ。
 あの日までは。
 このアクセサリーを臣に与えた少女と、出逢ったその日までは。

 海を見たという。
 空も見たという。
 ひたすら青く青いなかのその島を、少女はたしかに見たのだと。
 そうして、銀の獣と逢った、と。

 ――はっきりと姿を見たのは一頭だけでしたが、他にもたくさん、いらっしゃったみたいです。
 そいつは、元気だったか? 怪我とか、してなかったか?
 ――はい。きれいで、きっとつよい方だと思います。

 名前だけでも聞くように頼んでおけば良かった。
 その獣は誰だったのだろう。自分を知っているのかもしれぬなら、アイツか……いや、ひとの姿も取らずに去ったなら、無口な奴かもしれない。
 次々に浮かぶ仲間たちの顔のほとんどは笑んでいる。
 臣は不意に、天を仰ぐ。風がつよく吹きつけて銀の髪を払った。
 翠眸が空色を映して澄む。
(生きている。……居るんだ、今も島には仲間が)
 そう思うと、何かがふっと軽くなったような心地がした。
 振り上げた剣が空を切ったあの瞬間から、ずっと引きずってきたもの、ずっと蟠っていたもの。影のように、臣の足許に寄り添っていたものたちの重みが、消えていた。
 影は、今でも臣の傍にある。けれどもう、それを意識することも、煩わしく思うことも、時に目を背けたくなることも、なくなるだろう。
 島のことは、諦めたわけではない。戻れるものなら今すぐにでも駆けていって、自分の目で島の姿を確かめたい。仲間たちの顔が見たい。
 しかしそれが、すぐに叶わぬというのなら。
 鮮やかな青の連なる環を握りしめる。触れ合った石が、じゃらと小さく鳴り響く。

 これは約束の証。
 再会を願う証。
 そしてあの娘の証でもある。

 ソーンでの、新たな目的のための生活も、良いのではないだろうか。
 あの少女との再会、という目的。
 それは、これからの生き甲斐でもある。
 どれほどの時を待ち続けることになるのかは分からない。
 明日かもしれない。明後日かもしれない。数年後、数十年後、あるいはそれより永い時を経ての邂逅となるのやも。
「せめて目印ぐれぇには、なるかもなァ」
 ここには居ない誰かへ語りかけるように呟いて、臣は立ち上がった。
 旅人を守護する石なのだと聞いた。
 それならば、臣も、今どこかをさ迷っているのかもしれぬ少女をも、石は見守っているのだろう。
 そうして、いつの日にか、臣と少女との道を交わらせるのか。
 臣は手にした青石に、願う名を籠めるよう呼んでから、ベルトループにしっかりと掛けなおした。
 砂に足を取られることなく、来た道を引き返す。そろそろ朝食の時間だった。自分が居ないと知ったら騒ぎだす奴も居る、早めに戻っておかねばならない。
 その腰に。
 空の青と、海の青とともに、臣にとっての青がもうひとつ、陽光を眩しく弾いて揺れている。

 いつか、
 どこかで、
 巡り逢うその日までの道を、示すための。

 想う、青。


 <了>