<東京怪談ノベル(シングル)>
++ キャプテン・ユーリ航海日誌 〜聖者の魂〜 ++
ページをめくる音が 寄せては返す波音に紛れて微かに聴こえる。
ぱらり ぱらり
ぱら……
それまで一定の間隔を保っていたその音が、不意にとあるページで止められた。
「あぁ、懐かしいねぇ……」
青年は静かにそう呟くと、燭台の揺らめく炎を見詰めるドラゴンが、くくっと首を傾げたのにくすりと微笑む。
「たまきち、今夜は昔話でもしようか」
緩やかなウェーブのかかった翠の髪の毛がちりちりと紅色に揺れる。
燻る焔の向こうで、その青年――――C・ユーリは紙の上をとんとんと叩いて指した。
「皆には秘密だよ」
かん かん かん……
警戒音が鳴り響き、ユーリはふと揺れる波間から視線を上げた。
騒がしいな…と、そう思った。
警戒音を鳴らすようなことが起こる程の空気のざわめきは感じない。
一体何があったというのか―――
ひゅっと強い風が彼の頬を撫で――背後で揺れていた灯りを掻き消した。
「たまきち」
幼いドラゴンがユーリの声にふわりと羽ばたく。
ぱすっと小さな音を響かせながら、赤いちびドラゴンが彼の肩へと着地した。
「離れるんじゃないよ。どうも…妙だ」
たまきちは小さく鳴き声を上げると、ふるふると首を振っては片翼で頬の辺りを擦っている。
「どうしたんだい? 何かついたのかな?」
ユーリの言葉にたまきちは目を瞬くが、今度は前足で頬の辺りをしきりに擦っている。
首を傾げたユーリは、「どれ、ちょっと僕に見せてごらん」といってたまきちの咽喉を指先でくっと引き上げる。
「妙だねぇ…特に、何もついてはいないんだけど」
そう言う端から、たまきちは頬を前足で擦る。
「キャプテン、よかった、無事みたいっすね」
「あぁ、どうしたんだい? さっきの……何かあったのかい?」
「それが解らないんすよね…点呼とっても居ない仲間はいなくて…それで、もしかしたらと思ってキャプテンを探してたんすよ」
「そうなのかい? …でも、あれを鳴らしたのは僕でもないねぇ」
「そうみたいっすねぇ…誰が……あんな所に」
「お客さんじゃないのかい?」
ユーリの瞳に俄かに楽しそうな色が浮かび上がる。新しい玩具を見つけた、そんな子供のような無邪気な笑顔を浮かべて―――
「キャプテン……」
「ま、そういう訳だからさ、僕はちょっと向こうを見てくるよ」
ユーリはそう言って手をひらひらと振う。
まったく、うちのキャプテンは……軽く溜息をつきながらも、その青年は微笑した。
何の気配も無く船に侵入した輩が居る。
総勢二十名程のクルー、しかもどれも腕の立つ「海賊」だ。その海賊達に気付かれる事無く、船に侵入して警笛を鳴らす―――とてもではないが、まっとうな精神の持ち主とは思えない。
彼は少し首を捻ると、そのまま踵を返して走り出した。
「よっ………と」
ユーリは投げつけられた木の枝を手に取ると、それをくるりと一回転させて相手へと向ける。
「乱暴なお客さんだねぇ」
彼は口の端を引き上げて相手に挑むような視線を向けた。
ぼんやりと歪む輪郭に、白い靄のかかったかのような――表情の無い相手に向けて。
「君は一体どこから迷い込んできたのカナ? 少なくとも此処へ招待されてきたって訳でも、船に興味を惹かれてきたって訳でも無さそうだケド」
相手からの返答は無い。
「僕はユーリ、この船のキャプテンさ。キミは?」
相手は無言のままじっとしている。
ユーリは少々思案顔で相手を見遣ると、持っていた小枝を勢いよく振り抜き、相手の脳天目掛けて投げ放つ。
ぱすっ
妙な音を立てて、白い靄は消えていった。
予想外にすんなりと消えていった相手に対して、ユーリは裾をほろいながらも首を傾げる。
「話もしてくれないとは……もう少し粘りそうな相手だったんだけどねぇ」
小さく呟くと、たまきちが足下でばさりと翼を羽ばたかせた。
ユーリは再度首をかしげると、たまきちの頬に指先で触れる。
「これ……どうしたんだい?」
たまきちは首を傾げて瞳を瞬かせると、ユーリの触れた頬に違和感を覚えたのか、首をふるふると振った。
ユーリは目を細め、たまきちの頬に付いた白い靄をじっと見据えると、はっとして自身の指先に視線を落とした。
「……少しばかり…迂闊だったカナ?」
ユーリは白い靄に浸食された自身の指先をじっと見詰めると、その手でたまきちの頬を拭ってやった。
ついでに先ほど頬を拭っていた翼と前足の確認もしてやる。
「これで…たまきちが無事だといいんだけどねぇ」
拭う端から白い靄はユーリの手に乗り移り、手の平と闇との境界線をあやふやな物へと変えてゆく。
きゅう、とたまきちが鳴き声を上げた。
赤いちびドラゴンの頬にこびり付いていた白い靄は消えてなくなっており、ユーリは微かに微笑んだ。
「ほら、もう大丈夫だよ」
そうは言うものの、ユーリの手の平から白い靄は消えはしない。
それどころかその白い靄は、ゆっくりとではあるが―――C・ユーリ。彼の肉体を徐々に蝕んでいった。
――栄華と、繁栄。
「………何だって?」
――憎しみと、因果。
「………あぁ、キミ…もしかして」
どこからか、声が響いてくる。
ユーリが、誰かに向かってそう呟いた時、船が大きく傾いた。
とっ とんっ……
「……くっ」
大きな水飛沫をあげ、ユーリは海の中へと沈んでいったのであった。
たまきちは鳴き声をあげて彼の沈んだ水面をパタパタと飛び回る。
「たまきち!! 今の音って……」
その音を聞いて漸く駆けつけたクルーは、海上を飛び回り、幾度も鳴き声を上げ続けるちびドラゴンの姿を見詰め、呆然として呟いた。
「………ユーリの奴、飛び込んだのか?」
波は揺らめき、ちゃぷ…と微かな音を響かせた。
まるで何事もなかったかのように、いつものようにゆったりと船を揺すっている。
大きな、揺り篭のように―――
大きな 揺れだねぇ
いつもの 穏やかな海だ
この頃は派手に荒れることも無い
航海にでる時には その揺れが面白くて
一波、一波…スリルがあって なかなか楽しいんだけどねぇ……
ぴちゃ…
ぴちゃん……
水の漏る音が脳内に響く。
ぴたり、と冷たい水滴が頬に張り付いて、ユーリは少し眉を寄せて、目を覚ました。
「………どこだろう」
――海の、うろ
「………キミは、さっきの?」
――遊ぼう、お兄さん
「………手荒いご招待、だねぇ。感心しないな」
――何言ってるの? 君達人間と、同じだよ? 僕は…
「遊ぶって、一体何をして? 僕は海賊だからねぇ、それ相応の報酬がないと…動かないよ?」
――海賊は、人間よりも欲深いの?
「欲深い? あぁ、僕達は欲深い、でも、キミの言う人間とは少しばかり毛色が違うと思うよ」
――解らない。報酬…は、「それ」を消してあげる
白い靄は人間で言えば指先にあたるであろう部位で、ユーリの手を指す。
ユーリは忘れていた、とでも言わんばかりに靄によって既に腕の半ばまで侵食されている自身の手を持ち上げる。
「賭ける物は、僕自身の腕……か」
白い靄は、くすりと微笑んだ。
――貴方の腕を賭けて。勝ったら、直してあげる。
「負けたら?」
――此処に残って?
ぴちゃん……
水滴の音が鳴り響き、薄暗いうろの中に反響してゆく。
「参考までに訊いておくけど……この腕、放っておいたらどうなるのカナ?」
――貴方が、僕の代わりに聖者となる。
「……聖者?」
――僕は、聖者の魂。
「とても……そうは見えないけれどね」
ユーリは微かに眉を顰めると、先ほどから至極正直な本心を言ってくる相手が、そこだけ妄言を吐いているようには思えないことから、くすりと微笑んだ。
――どうして笑うの。
「聖者っていうのはもっと高貴な存在だと思っていたからだよ。崇高な魂を持ち、他を貶める事など、しないものだと……ね」
――僕は聖者の魂。無垢の、象徴。貴方も……なってみれば、わかるよ?
「我儘な子だねぇ……仕方が無いな。コインゲームでもしようか?」
――コイン、ゲーム?
「コインゲームも知らないのかい? ほら、これをご覧」
ユーリはポケットから一枚のコインを取り出すと、そのコインに表と裏があることを確かめさせた。
「これを放り投げ……キャッチする。僕達はそのコインが表なのか、裏なのかを言い当てる。簡単なゲームさ」
――わかった。
聖者の魂の返答と共に、ユーリはコインを指先で弾いた。
きん…と、甲高い音がうろの中を木霊する。
コインを手で受け止めたユーリは、たんっと心地良い音を響かせながら、屈み込んでそれを自身の膝に叩きつけた。そうしてにっと笑って相手の返答を促す。
――裏。
「じゃあ僕は表だ」
そう言いながら彼は手を開いてみせる。
結果は――表。
――………僕の、負け?
「そうだよ。じゃあ約束通りにこの腕を治してもらおうかな?」
ユーリは既に肩ほどまでを侵食されていた。
聖者の魂はこくりと頷く様子を見せると、手、と思われる部位でユーリの腕を撫でつける。
まるで水が引くかのように、ユーリの腕を侵食していた白い靄は消え去った。
「キミの一部だったんだね?」
――そう、君を聖者にする為の、僕の一部。もう少しで、楽になれたのにね
「そうだねぇ…痛いだとか、苦しい、だとかは無かったカナ?」
――君はもう、聖者にはなれない。
「それは本望だね。僕には聖者なんて似合わないさ。さぁ、もう一勝負といこうか?」
――……もう、賭ける物はないよ
「あるよ。とても高く売れそうな物がねぇ」
ユーリはくすりと笑って聖者の魂をじっと見据える。
――僕の事
「そう、でも聖者の魂がそんなに穢れ切っていちゃあ売り物にはならないねぇ」
そう言う間にもユーリはコインを指先で弾く。
「さぁ、どっちだい?」
――………裏。
「残念、表だ」
――ねぇ、どうして僕、勝てないんだろう?
「さぁねぇ……人間だから、じゃないの?」
――僕は、聖者の魂……だよ?
「ふぅん、聖者が人間の心に影響を受けていちゃあ世話ないね」
――じゃあ、次は…表。
聖者の魂が自ら賭けを申し出てくる。
ユーリは微かに笑いながらもその賭けに乗り、コインを弾く。
「残念だったね。今の君じゃあ僕には勝てないよ」
ユーリはコインが裏になっていることを聖者の魂に確認させる。
――どうして?
「さぁ、半端な聖者だから、じゃないのかい?」
――半端? 僕は……
「さて、僕はもう二回も君に勝ったね」
ユーリはにっこりと微笑むと、思案した様子で聖者の魂の上から下までを眺め見る。
「君の中の穢れを僕に貰えるかい? そうだなぁ……このコインの中に、封じ込めてくれるかな?」
ユーリはウィンクをしながら聖者の魂にコインを渡す。
そうすればそのコインですらも高く売れる、と付け足しながら。
――あ、これ……
「そう、明らかな詐欺だねぇ」
――君、イカサマをしたの
「この程度のイカサマも見分けられないで、海賊に賭けを言いでるもんじゃあないよ」
――……………。
魂は言葉を失って沈黙する。
ユーリは受け取ったコインを指先で弾くと、指先に挟んで裏表が同一のコインを返し見た。
そしてそれを指先でずらしてやると、コインが二枚になる。
普段はやらない、ちゃちなイカサマ。
「うーん、これは残念」
ユーリは大きく息を吸って吐き出すと、首を傾けてにっと口の端を引き上げた。
「此処には一介の海賊が持って帰れるような財宝はないみたいだねぇ」
ユーリはまるで独り言のようにそう言うと、くるりと「彼」に背を向けて歩き出した。
――ねぇ、ユーリ?
「……僕らは此処でお別れ…だよ」
背中越しに手を振う。
まるで、人間染みた聖者の魂には興味の欠片も無い、という風に。
「彼」は、暫しの沈黙の後、握り締めた拳を解いて、ユーリに倣って手をひらひらと振った。
――元気で、ね
「………あぁ、もちろんサ」
栄華と、繁栄。
憎しみと、因果。
あの時、聖者の魂は確かにそう言った。
でもそれは、人間の持つもの。
聖なる魂、白く靄のかかった存在。
本当は不透明で、この海の水と同じような物。
魂は人の心を嘆いた。
聖者の魂は、無垢で 敏感だった。
魂は、人の心に反応した。
そして、穢れをも受け止めた。
それ故に、嫌った。
それ故に、奪いたがった。
それ故に、―――消えたがった。
彼が水面に浮上すると、それを発見したクルー達は口々にこういった。
「も〜っキャプテン、探したんですよ〜?」
「もうすぐ秋だってのに泳ぎに行ってんじゃねぇよ」
「俺達をこれだけ心配させておいて、土産の一つもないんすか〜? キャプテーン」
「あららお頭ったら冷たいのねーっと。あたしらをないがしろにしてもらっちゃあ困りやすぜ?」
どうやら彼らの中では、ユーリは泳ぎに出た事になっているらしい。
――確かに、あんな消え方じゃ、緊迫感なんて無いだろうケドね。
彼はくすりと微笑むと、足下にへばりつくたまきちにウィンクをしてみせる。
「やれやれ、人が険しい旅を終えて帰ってきたばっかりだっていうのに、困ったモンだね」
その日も船上には笑い声が絶える事は無かった。
――――FIN.
|
|