<東京怪談ノベル(シングル)>


小さなトラブル

 ――追われていた。
 その屋敷を出た時から、尾行が付いている事には気付いていた。けれど、相手もこうした行動に慣れているのか、何度か人ごみで撒こうとしたものの、気付けば店へ戻る路地に入ってもまだ、背中へと向けられたちりちりとした視線は感じていた。
 ちょっと、困ったなと如月一彰は思う。
 自分はともかく、店主はそれなりに齢を重ねている。それに、店の中には貴重な本がたくさん置いてあり、その近くにせよ中にせよ、暴れられると困った事になりそうだった。
 この世界に来てから、本の貴重さは身に染みて分かっている。印刷技術にしろ、製紙方法にしろ、まだ大量生産の方法など確立していない世界。その中で生まれた本は、どれもこれもがほとんどふたつとないものだったからだ。
 そう。
 今、一彰が手に持つ品もそのひとつ。
 店主から頼まれて御使いに行った先で買い取った古い本もまた、丁寧に綺麗にしてもらってから新しい主人を待つように定められたものだった。
 奇妙な尾行さえ、付いて来なければ。
 一彰の懐を狙うにしては、人ごみの中で手を出そうとしなかったのはおかしい。と言って、一彰個人が恨みを買う程には、この世界に馴染んでいない。
 となると――腕の中にあるこの本か。
 買い取った時の金額からしてもそれほど価値があるとは思えないが――。

 そんな事を考えながら歩き。ふと気付けば、路地裏の狭い一本道で、攻撃的な気を浮かべた4人に前後から囲まれていた。

*****

「その本を渡してもらおうか」
 一彰とそう変わらない年頃の、チンピラ然とした男が肩をいからせながら言う。そうは言っても一彰の後を撒かれずに付け回していた事を考えれば、少しは出来るのかもしれない。
「……何の事だ?」
 静かに問い掛ける一彰。小脇に抱えたものは確かに本だが、雨や汚れ避けのため皮袋に包んでおり、一見それと分からない見た目になっている筈だが、
「ふざけんな。あのジジイの所から持って来ただろうが」
 その後ろの、もっと年若い…20前くらいの青年が睨み付けたことで、中身を知っての事と分かった。
「……それで」
「それで、じゃねえよ。お高く止まってないでさっさと渡せ。それは元々俺のモンだ」
 突然所有権を主張された一彰が、流石に僅かに戸惑って青年を見た。こちらは代価を支払って譲り渡されたのだが、それが本当だとすればどうしたら良いのか分からなくなってしまう。
 とはいえ。
 こんな場所に来てからようやく顔を出し、脅かして取り上げようと言う雰囲気からすれば、たとえ青年の言う事が本当だとしてもすんなり渡すつもりにはなれないのだが。
「……キミは」
 一彰が、背後の2人に気をつけつつ目の前の青年へ言葉をかける。
「…あの老人の、身内なのか」
「っ、か、カンケーねえだろ!お前はさっさとそれを渡せばいいんだ!」
 図星を指されたのか、急に激昂した様子の青年が、一歩下がってばっと横殴りに腕を振る。
 それが、合図だったらしい。
 青年よりもずっとこうした行為に慣れていそうな3人が、一彰をじろじろと眺めまわして与し易しと見たか、にやりと余裕のある笑みを浮かべた。
「ほ、本は壊すなよ!」
「分かってるって。下がってな、怪我するぜ」
 ぐるりと囲んだ男たちを見る限りでは、青年の隣にいた1番体格の良い男がリーダー格らしい。ちらちらと目線で背後の2人へ合図を送っている様子に、一彰がふうと息を吐く。
 その直後、後ろから2人が一彰を羽交い絞めにしようと腕を伸ばしてきた。
「――おお?」
 2人には、一彰が急に消えたとしか見えなかったかもしれない。
 ばっと腕を出して掴もうとした途端、目の前の青年が消え、リーダーの驚いたような顔がアップになったのだろうから。
 そして次の瞬間、2人が足を取られてバランスを崩す。
 一彰が体を落として足払いをかけた、その一連の動きに付いていけなかったらしい。
 1人がなんとかよろめいただけで態勢を立て直したものの、もう1人は隣にいた男のよろめきをまともに受けて、ずでんと無様にひっくり返ってしまった。
「てめぇ…!」
 それを見たリーダーが顔を怒らせて、拳を振りかぶってくる。
 だが、それは片手のみ。それなら、と一彰は足を小刻みに動かしながらも、上体を逸らすだけで避けきった。ベタ足で立っていれば、
「こ、このおっ…」
 後ろから勢い良く足を振り上げて来る男に対処しきれなかったかもしれない。

 ぶぅん、と勢いのある大振りな拳を避けたその勢いで、片足を軸にして蹴りを放つ。
「け、どこを狙ってやがる」
 リーダーが、流石にその蹴りは一歩体を引いて避けたものの、

 すぱあああん!

 真後ろから、片足を上げて今まさに一彰の背中を蹴ろうとしていた男の横っ面を、一彰の右足がクリーンヒットした。
 2、3歩たたらを踏んで、今度は白目を剥いてひっくり返る男。そこから、本を小脇に抱えてすっと立ったままの姿勢へ戻った一彰が、立ち上がったもう1人の男とリーダーを交互に眺めながら、
「……まだ、やるのか?」
 静かに、そう訊ねた。
「あ、――当たり前だ!」
 足蹴が綺麗に入ったことに驚いた顔をしたものの、リーダーが歯を剥き出して怒鳴りつけ、今度は2人で一彰を前後に挟み、足も手も簡単に届かないように距離を少し空けてぐるぐると回り始めた。
 一彰が1人に近づけばもう1人が背中から近づき、一気に2人を相手にしなければどちらかが容赦なく攻撃を仕掛けてくる形に、一彰が少し表情を動かして困ったような顔をする。
 その表情を弱気の姿勢と見たか、一気ににやついた表情へと戻った2人が、フェイントか少しずつ包囲を狭めてちょこちょこと拳を突き出して来る。その辺はすいすいと避けるものの、眉を寄せる一彰は囲まれて怯えているようにも見え。
 さっきの蹴りはまぐれだったのかもしれない、と2人が自信を付けるまで、そう時間はかからなかった。
「おおおおっ!!」
「うああっっ!」
 ちらと目配せしあった2人が、両方向から殴りかかる。
「……ふう…」
 その溜息が何の意味を持つのか、2人には分からなかっただろう。

 がごん!がん!

 1人が、腕を何か熱いモノで掴まれたと思ったと同時に、もう1人の顔面に靴底が辺り、続けて脳天に踵が落とされる。
 ずん…と顔面から倒れ落ちた男を見ながら、リーダーは気付くとぎりぎりと細い糸のようなもので首を締められていた。
 もがいて手を伸ばせば、先程掴まれたと思った部分に細い跡が残り、そこから血が滲んでいるのが見える。
「…降参、するか?」
 ここに至っても一彰は息1つ乱れていない。
 そのことにようやく気付いた男が、首を締められた真赤な顔のままこくこくと大きく頷いた。

*****

「――遅くなりました」
「うむ」
 昼過ぎに出た一彰が、夕方前にようやく戻って来たのを、店主がじろりと見る。
 一彰は本を一冊、丁寧に皮袋から取り出して店主の前に置いた。早速ぱらぱらと一枚一枚ページをめくって中身を確認すると、ご苦労だった、というようにこくりと頷いてみせる。
 そして、
「あとで服の汚れは落としておけ。洗剤は裏にあるからな」
 一彰が遅くなった理由は聞かずにそんな事を言って、店番を代わってもらうために席を立った。
 はっと気付いた一彰が自分の体を見下ろすと、確かにただ歩いただけではつかないような土ぼこりや、かすかな血の跡が足や袖口に付いており、照れたように無言で外に出ると、土ぼこりだけはぱたぱたと払い落とす。
 そして、普段通りの顔で店のカウンターに腰を降ろした。
 しんとした店内。今日はまだ客も来ていないのだろう、そんな中カウンターに座りながら、今日の事に思いを馳せる。

 …青年は、今回の売主の孫にあたっていた。決して安くは無い古書の類を老人が時々売り払うのを見て、悪い仲間と組んでは巻き上げ、他で売りさばいて遊興費に使っていたらしい。他にも、蔵書の一部を黙って売り払ったりもしていたようだった。
 お使いが一彰のような線の細そうな人物だったり、年寄りだったり女だったりした所を取り囲んで奪い去るのだから、今までは大体上手く行っていたのだったが、今回は見る目が無かったと言う所だろう。
 気を失った男たちを起こし、青年の自宅へ連れ帰って事情を説明した後は、老人に無理やり引き止められて暫くお茶をご馳走になり、謝罪と感謝を散々受けた後でようやく解放されたのだった。
 老人は、孫を躾け直すと言っていたが、あの年からだと上手くいくかは分からないな、と一彰はそんな事を思いながら、とにかく今日の事で大きな怪我をする者がいなくて良かったと胸を撫で下ろしていた。
 出来れば互いに無傷でいたかったが、それだけは避けられそうになく。
 ――それが困ったような一彰の表情の訳だったと男たちが知れば、あのような事は起こらなかっただろう。

 まだ少し、じんわりと疼く膝を無意識に撫でながら、一彰は今日の出来事を頭から追い払う。
 そして、途中まで読んでいた本をぱらりと開いて、その中に描かれている物語へ静かに意識を集中させて行ったのだった。


-END-