<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


The Book of Truth

その思いがけない招待を受けたのは、秋らしくなった季節をしみじみと感じつつ手の中にある暖かいお茶を飲んでいる時の事だった。
「舞踏会?」
「さようでございます。王女が是非にと」
 品の良い壮年の男性が、ちらちらとオーマ・シュヴァルツ家の内装を見て不安げな表情を浮かべている。
 噂にたがわぬ奇妙な生き物が時折目の隅を横切ったり、仕立ての良い服を着こなしている客が珍しいのかあちこちから覗いていたりするためで、オーマがいくら追い払ってもすぐ戻ってきてしまうのだった。
 仕方なしにさりげなくそれらから視線を外した2人が、再びちょっと真面目な顔で向き合う。
「王女さんが…そりゃあ、ありがたいが」
「何か、問題でもございますか?」
「いやあ、あまりにも場違いになるんじゃねえかなってね…王城で開催されるパーティっつったらあれだろ?貴族や上流階級の面々ばっかり集まってくるんだろ?」
「そうでございますね…確かにオーマ殿が言われますように、市井の者がそうそう上がれる場所ではございません」
 ですが、と男が続けた。
「オーマ・シュヴァルツ殿…および、この家の方々にはひとかたならぬ恩を受けておりますし。兵士の中でも貴方様方を望む者も多くおりましてね。簡単に言えば人気者、と言う事で」
 そのような理由でしたら、オーマ殿に遠慮いただく心配はございません――そう言って、男が銀の盆へ乗せた布を外し、その上に乗っている封蝋が付いた封筒をっとオーマへ差し出した。
「どうか色よいお返事を」
「今読めってことか、これは?」
「はい」
 にこりともせずに男が言い、じっと待つ様子に根負けしたオーマが、じゃあ、と呟いて封筒を一通取り出して中を読む。
 そこにあったのは、柔らかな筆致の、恐らくは王女が手ずから書いたと思われる流れるような文章。
 そして――。
「…シェラに、サモンも、か?」
「はい。奥様とお嬢様をお呼びするのは当然の事でございますので」
 うーん、とちょっとばかり悩んだオーマだったが、
「分かった。好意に甘えさせてもらおう」
「ありがとうございます。これでわたくしの面目も立ちました。明日の夜、馬車でお伺いいたしますので、それまでにお支度なさって下さい。…もし、その、差し出がましいようですが、礼服やドレス衣装などの用意が難しいと仰られるのでしたらこちらで用意させていただきますが」
 ようやく、ほんの少しだけほっとした様子の男がそう切り出すのを、にっと笑ったオーマがいいや、と首を振り、
「心配するなって。ちゃああんとした服で行ってやるさ。せっかく俺たちを招待してくれたんだ、おまえさんたちのお姫さんに恥はかかせねえよ」
「…ご配慮、痛み入ります」
 それでは、と丁寧に挨拶を済ませた男が、オーマがその場で書いた返書を手に城へ戻っていく。それを見送った後で、
「おおい、シェラとサモン、ちょっとこっちに来いー」
 そう言って声を張り上げた。

*****

「……歩き、にくい…」
「ああ、そうじゃないよ。裾捌きはこう。そうすると裾にまつわりついてくる布が綺麗にはがれるだろ?それでもどうしようもない時は、こうやって少しドレスの裾を持ち上げて…」
 シェラとオーマ渾身の出来のフォーマルドレスを着た3人が、姿見を前に最終チェックに入っている。その側で、最後まで抵抗したそうにしながらドレスを着せられたサモンに、シェラが簡単なドレスでの動き方を教えていた。
「舞踏会というのなら、もう少し早めに教えてもらいたかったねえ。せっかくダンスのステップを教えてあげられるチャンスだったのに」
「まあ、そう言うな」
 黒一色のスーツをびしりと着こなし、襟には蝶ネクタイ、そして普段付けている眼鏡やアクセサリ類を全て外し、つんつんと立っている髪も綺麗に後ろに撫で付けたオーマは、上背もあって珍しくこうした衣装がサマになっていた。
「あんたは男だからいいだろうさ。あたしたちは華やかに行かないといけないんだからね?それに…ほら。今夜が実質的なこの子の社交界デビューなんだよ?」
「――なにぃっ!?」
 片側にドレープを寄せ、しとやかさよりは華やかさ重視の真っ赤なドレスを着たシェラが、シンプルすぎる上半身と腰のドレープの集まる個所ひとつづつに真っ黒な薔薇をワンポイントとして飾りながら、薄い肘手袋を外してサモンの服を見る。
 サモンは、娘らしく肌の露出を極力押さえ、髪と目の色に合わせシェラとは違い淡い輝くようなピンク色のドレスを身にまとっていた。
 腰から下はふんわりとした布で幾重にも覆い、上半身は体の線が綺麗に見えるように縫い付けてあるため、刃物を振り回したりと言う全身運動には向いていないが、今日行く場所はそれとは違う。
 シェラが過去の経験を生かしつつ仕立てたドレスは、足さばきさえ覚えてしまえば、優雅に動いているように見えるように作られていた。もちろん、ダンスだってやろうと思えば何の問題も無く出来る。
 サモンが望むような、少年、もしくは貴公子のような立ち居振舞いは期待出来ないが。
 そうしてシンプルに仕上げたサモンは、細い首に巻きつけるように淡いカラーのチョーカーを付けて、どこかおずおずとした様子でその場に立っていた。ちょっと目には見えないが、少しばかり不機嫌そうなのは、上半身を綺麗に見せるためにぴっちりと付けたコルセットのせいだろうか。
「…女の子って…いつも、こんなのを……」
「いつもじゃないよ。特別な時だけさ。例えば今夜みたいなね。――さ、自信をお持ちサモン。あんたはとっても可愛いんだから」
 それはお世辞ではなかった。
 滅多にこうした女の子らしい格好をしないせいもあるだろうか、サモンが動くたびにふんわり漂ってくる甘い香水の香りと言い、清楚な可愛らしさを強調したデザインと言い、ほんのりと明らんで見える頬と言い――自分がこうして立っていられるのが不思議なくらい、オーマはサモンの姿を見るたびノックアウトされていた。
「さあ、出来上がったね」
 我が事のようににっこりと嬉しそうに微笑むシェラと、うんうんと声も出せず大きく頷くオーマ。
「…早く、迎えが、来ないかな」
 そんな2人へぽつりとサモンが言う。女の子らしさに目覚めたかと思ったのもつかの間、
「……その分、早く帰れる…脱ぎたい」
「締め付けすぎたんじゃねえのか?」
「そうかねえ…普通だと思うんだけど」
 呼吸や血流の邪魔をするほどきつくしめたわけでない事は、サモンの様子を見れば分かる。ただ、この世界の女の子のようなドレスは会わないのかもしれないねえ、とシェラが呟いてちょっと考え、
「少し後ろを向いておいでサモン。――それからあんたもだよ、オーマ」
「俺もか!?」
「年頃の娘の着替えを覗く父親にはなりたくないだろ?」
 鎌をどこからともなく取り出したシェラが、有無を言わさずオーマの顔を玄関の方へ向けた。その後ろでしゅるっと衣擦れの音が聞こえ、しぱぱぱぱっ、と何か切り刻んでいるような音が続けて数度聞こえ。
「こんなもんかね」
「……うん」
 くるくると鎌を手の中で回してどこかへ仕舞ったシェラの声にオーマが振り向くと、ドレスのどこがどう変わったのかまるで分からなかったが、サモンの表情が明らかにほっとしたものへと変わっていた。
 その表情にもずきゅーんと心臓を貫かれつつ、表面ではひたすら平常心を装っていたオーマの耳に、待ち遠しい馬車の音が聞こえて来た。

*****

 城の中庭は、いくつもの馬車と御者、それに表で帰りを待つ従者たちで溢れ返っていた。その中を城の馬車で入ってきたオーマたちへ好奇心に満ちた視線が注がれ、それは城の中へ入っても終わる事が無かった。
 王女の気に入りの男――そして、その家族という3人は、注目を浴びるだけの十分な理由があったからだ。
 おまけに、その家族の2人の女性が、その視線に耐えうるだけの華やかさと清楚さを持ち合わせていたとすれば、そこに何らかの思惑が絡んだとしても仕方の無い事かもしれない。
 そういうわけで。盛況に始まっていたこの夜の舞踏会パーティに、裏側で何やらどろどろした空気が浮かび上がっていたが、当の招待主である王女はオーマたちが来た事に大喜びで、シェラの抱擁も嬉しそうに受けていた。
「良く来て下さいましたわね」
 にっこり、と微笑まれて戸惑ったようにほんの少し表情を変えたのはサモン。オーマが何故だか周囲に鋭い視線を飛ばしているのはあまり気にした様子は無く、親しげに手を手を伸ばす。
「……え、っと…」
 周囲からの強い視線に晒されながら、サモンがおずおずと王女の手を取り、驚いたように目を僅かに開いた。
 それから、覚えきれない程の人々に次々と紹介される。
 その中で、サモンへただならぬ視線を注いでいたひとりの男性が、年頃の息子がいるんだが、などと突如言い出し始めたのだが、全身から憤怒の炎を吹き上げているオーマに気付いたか、途中でこそこそと逃げ出してしまった。
 その他にも、会場中央でゆったりとした曲と共にダンスが始まったときも、次々と若者がサモンの側へ近寄ろうとして、そのすぐ隣で野生の獣の如く炯々と目を光らせているオーマに恐れをなして皆回れ右をしてしまう。
 ――が、それも、一時たりともサモンの側を離れようとしないオーマに気付いたシェラが、にっこりと笑いながらオーマをサモンから引き離すまでの事だった。
「あああああ、だ、駄目じゃないかシェラ、サモンはまだこういうのに全然慣れてねえんだぞ?」
「…全く。あんたも少しは自分の娘を信用してごらんなさいな。女はね、化けるんだよ?」
 忙しそうにサモンへ近づこうとする青年へ殺気の篭った視線を飛ばしながらも、サモンの事が心配で心配でたまらないでいるオーマへ、赤い口をにっと笑みの形へ引き伸ばしたシェラが「あっちを見てごらん」とぐるりオーマの首を回す。
 そこに居たのは、オーマが見たことも無いサモンの姿だった。
 彼女は――彼女、と言って間違いない姿をしたサモンは、易々と大勢の男たちをあしらっていたものの、断りきれなかったらしくひとりの青年とダンスフロアへ上がっていた。
 そこで、ひたりと真摯な目を向け、音楽に合わせステップを踏んでいく。
「流石はあたしの娘。良く似合ってるじゃないか」
「あ、あ、ああ…サモンがぁぁ…」
「楽しんでるあの子の邪魔したら許さないからね?」
 それとも、心配ならあたしと踊るかい?
 そう言ってシェラがにっこりと笑い、オーマの手を取った。

*****

「さあさあご覧下さい。これもまた非常に珍しいものでございますよ」
 ダンスフロアを華麗な踊りで軽々クリアしたサモンとシェラ、見えない所で散々足を踏まれてステップを修正させられていたオーマの3人は、なみいるサモンへの誘いを全部跳ね返して、同じ会場内にあるもうひとつのイベントへと顔を出していた。
 どうやら、そこで行われているのは上流階級ならではという類のもので、最近人類の未踏地にて発掘されたという触れ込みの調度品や発掘品の数々が並べられており、その価値など分からないであろう人々が、のんびりと、心の赴くままに値を付けている。
 とは言え、そこはエルザードでも名の知れた人々、あっさりと言う金額にオーマなどは一度ならず目を剥いたのだったが。
 そんな中にあって、何人かの人がひとつの品を囲んでいるのに気付いた3人がそこへと移動する。
「やはり駄目ですかな」
「なんでしょうなこれは。開かないとなれば気になってしかたありませんが」
 ひとつだけぽつんとビロードが敷かれた台の上に置かれていたのは、一冊の本。それも相当古い事が装丁から窺えるが、それでも古代の物とするには少々新しいもののようにも思える。
「その本は?それもオークションの品じゃないのか?」
「ほ?ああいやいや。これは出土品でも特別なものでしてな」
 何故か次々とその本を開こうとして果たせずにいる様子を見ながら、その場にいたひとりがオーマの質問に答えてくれた。
 その品が見つかった時には、ただの本のように見えたためたいした品とはならず、他の出土品と一緒に積み上げられていたらしい。
 だが、それを調べようという段になって初めて、その本が…只の古い本にしか見えないそれが、誰の手でも開かない事が分かったのだった。
「本当ならばそれもオークションにかける予定でしたが、そのようなわけで読めない物を売るわけにはいかないと王女様が仰ったらしく。もし開くのなら、本を開いた者を所有者としよう、という事に決まりましてね」
 ふーん、と言いつつ、何気なくオーマがその本を手に取る。
 ずしりと重い他は、特におかしなところも無く普通の本にしか見えない。が、
「ん…むむ…こ、れ、は…っっ」
 いざ開こうとしても、オーマがどんなに力を入れてもその本はびくともしなかった。と言って、中が糊付けされているとか固まっているとか、そういう感じではない。
 ただ、オーマでは駄目だと、それが分かっただけだった。
「駄目か。くぅ、何かあるような気がしたんだがな」
「それは残念だったね。それじゃあっちに行かないかい?」
 調度品の他にも宝飾品が並べられ始めたのを見たシェラが、途端に目を輝かせてその場へ向かう。
 その後へオーマと、本が少し気になる様子でちらとそちらへ目をやったサモンが続いた。
「あら、こちらにいたんですのね。どうかしら。楽しめたなら良いのだけれど」
 そうして席に付きながら、自分たちでは手の届きそうにない品を眺めていた3人に、エルファリアが微笑みながら話し掛けてきた。
「こういう経験も悪くねえと思うぜ。ありがとな」
「いいえ。オーマたちに喜んでもらえて良かったですわ。あ。そうそう」
 ぱむ、と軽く手を叩き合わせた王女が、ぱたぱたと少し離れたかと思うと、一冊の本を手に戻ってくる。
「この本はお試しになりました?今のところ誰も開けられる者がいなかったんですのよ」
「あーそれ俺も駄目だったんだ。悪いな、せっかく持ってきてくれたっつうのに」
「そうでしたの。…では、他の方は?」
「へ?」
 王女の視線がシェラとサモンへ向けられている事に気付いたオーマが、そういややってなかったなと思いながら、目を向ける。
「そうだね」
 招待してくれた王女に悪いと思ったのか、オーマの視線に軽く頷いたシェラがその本を受け取って、試してみると、
「駄目だねえ」
 ちょっぴり残念そうに言いながら、隣にいるサモンへ手渡す。
「………」
 無言で本を受け取ったサモンだったが、開こうと本のカバーに手のひらを当てた途端、
「…あ…」
 びくん、と体が反応した。その瞬間、オーマが飛び出しかけたが――サモンの何かに呼応するようにぱらりと、風にでも吹かれたかのような自然な動きで本が開いた。
 思わず中を覗き込む目が一斉にいぶかしげな表情を浮かべる。
 その中身は、全くの白紙。
 ぱらぱらぱらぱら、と、サモンの手の中にあるそれが次々にページを開き続け――そして、最後のページで唯一言葉が刻まれていた。
『汝無垢なる者よ その御身呪われてあれ そは人の子にあらざれば 全ては終末の光の中に』
 誰ひとりとしてその言葉を読み上げる者もいないというのに、その場にいた全ての者の頭に言葉が響き渡り、そして――本から光が生まれた。
「サモン!?」
 オーマとシェラの声が重なり、その手がサモンを抱きとめようと伸ばされるも、体があった場所にはサモンはおらず、気付けば本は再び最初のページを開いていた。

『ひとりのものがそこに立ったとき世界は生まれた』
 そんな一文を浮かび上がらせながら。

*****

「……」
 淡い、自分のドレスと同じような輝きの中、サモンはその場に立っていた。
 何故ここにいるのか、分からないまま。
 一歩、踏み出す――と、その足元から次々に景色が広がっていく。
 サモンの見知らぬ、在りし日の聖獣界を浮かび上がらせて。

「どういう事だ、これは」
 今や、新たに開こうとするページを眺めることしか出来ないオーマたちが、台の上へ戻した本がぺらりぺらりとめくられる様を見つつ、急いで呼び出しを受けた研究者たちへ声を荒げた。
 ――本には、次々に言葉が刻まれていく。在りし日の聖獣界へと降り立ったサモンの事を、その行動を克明に書き綴りつつ。
 それを読めば、今サモンがどういう状況にあるのかは分かったが、と言ってそれだけではサモンを本の外へ戻す方法など分かる訳も無い。
「本の中に記されている様々な記述からしまして、これは人がまだ足を踏み入れた事が無い世界と思われますが」
 自分たちの子どもが本の中に取り込まれた――そう説明を受けながら、本に言葉が浮かび上がってくるのと、本から感じ取れる何らかの魔力を調べている研究員のひとりが顔を上げる。
「もしかしてこれは」
「なんですの?…いいです、この場で言ってしまいなさい」
「はっ。推測でしかないのですが、伝承にある『真実の本』を思い浮かべたのです。実在のものとは思いませんでしたが」
「それはいったいどんな本なんだ」
 オーマに詰め寄られた男が慌てながら、神の時代に存在していた一冊の本があったのだと語り始めた。
 それは、世界の初めから全てを記しつづけているのだと言う。だが、サモンが開いたこの本はたったいままで何も書かれていなかった筈だ。
「『真実の書』――そう呼ばれる本は他にもあるんです」
 曰く、災害が起こる度に克明に記録されていくもの。自分の近くにいる人の心の奥底を読み取ってしまうため、初めは持ち手を喜ばせるのだが、次第に疑心暗鬼の虜になり、最後には不幸になってしまうと言う本。
 ――ある特徴を備えた者にしか開けず、その者の行動がそのまま書き記されてしまう本――その他、人の手では決して作れないような本を真実の書と読んでいるのだと、研究者は言った。
「…ある、特徴ってのは何なんだ?」
 その中のひとつに引っ掛かりを覚えたオーマが訊ねると、
「詳しいことは分かりません。ただ、『神に愛された者』という記述がありますので、恐らくその事かと…ですがこれでは分かりませんのでね」
 今も次々と新しい文字が浮かび上がってくる本を眺めながら、オーマとシェラが一歩近寄る。
「サモン――」
 シェラの呟きは低く小さく、だからこそ、周りの人間をはっとさせるような響きを含んでいた。

「…おかしい」
 長い間駆け回っていたような気がするが、どこにもたどり着けないでいるサモンがぽつりと呟いて、足を止めた。
 巨大な聖獣らしき存在は何度も目にしたのだが、彼らは全て、ひとと心を通わした存在では無く。…ただ、力を持ち、そこに居るだけの存在だった。
 その中にあって、サモンはひとり、どうして自分がここにいるのか分からないままでいる。
 この服を着せて貰った事も覚えているし、舞踏会で誰とも分からない男と踊った事も、何故だか心を惹かれた本を手に取った事も――その本が開いて、何かの文字を読み取ったかと思ったらここに来ていた事も覚えている。
「…可能性があるとしたら、本の中か――」
 見上げても、中途半端に濁ったような空が見えるだけ。
 周囲にいるいきものたちは、サモンの事など見えていないかのように振舞いつづけている。それは、無視しているのか、それともサモンを認めているのか、分からなかったけれど。
 しゅ、と裾をさばいてから、思い出したようにサモンが自分のドレスを摘んで持ち上げた。通りで動きにくいと思った、と思い、裾を手で切り裂こうと思ったのだが、
「………?」
 何か、悲鳴のような、たしなめるような声が聞こえたような気がして顔を上げ、そしてため息とともにドレスを切り裂くのは諦める。
 その代わり、裾を何箇所か縛り上げてドレスの裾を持ち上げた。これで随分動きやすくなった、とサモンが数歩歩いて確かめる。
 …それにしても、どうして誰もいないのに視線だけは感じるんだろう。
 それが不思議で仕方なく、サモンは新たに歩き始めてからも、周辺や上へ視線を向けずにはいられなかった。

「全く無茶するよ」
「ああ…おまえもだがな」
 サモンがドレスの裾を縛り上げて動き始めたのを確認したシェラが、ほうと息を付く。
 本へ向かってシェラが叫んだのがほんの少し前。どうやら声が届いている可能性があるようだ、と今までの記述から気付いたシェラが、本を持って別部屋へ無理やり案内して貰った後の事だった。
「あたしはいいのさ。オーマこそどうなんだい。何か役に立つような事でも出来てるのかい?」
「それがなあ…本の中っつうのは、具現で繋がれてる訳じゃねえからな」
 様々な亜空間へ意識を合わせ、無理やり中を探ってみているが、サモンがいるような気配はどこにも無い。
「何弱音吐いてるんだよ。あと半分も無いんだからね?」
 そう言うシェラは、サモンを少しずつ誘導しようと本の中へしきりに話し掛けている。
「かー。いつものヴァレルじゃねえから、上手い事力が合わせられねえな」
 急ごしらえで作って貰ったために、蝶ネクタイしか間に合わなかったオーマが、そこから具現の力を引き出しては本の中にいるサモンを救い出そうと必死になっているものの、なかなか難しいと何度もため息を付く。
「そこを何とかするのが親の務めだろ」
 ――問題は、サモンの記述を続ける本の大きさにあった。
 丁寧に書き記すため、サモンに動きがあろうとなかろうと、その記述が止まる事は無く、そして行き着く先はと言うと、最終ページに書かれた言葉。
 あの部分へ到達したら、何かが起きるに違いない。
 そう、何故だか確信を持っているために、2人は必死になってどうにかならないかと方法を探しつづけているのだった。
「…あ、ありました!」
 そこへ、ばたんと大きな音を立てて扉を開いた研究者が、一冊の本を差し出す。
「気になる個所があったので覚えていたんです。過去に似たような事がありまして、その時には本へ取り込まれた人が脱出しています。これも半分以上脚色されていましたので、御伽噺の類かと思っていたのですが…」
「ごたくはいい。どうやって出てきたんだ」
「…本は紙で出来ていますから…燃やしました」
「外から?中から?」
「中から、です」
 その言葉を聞いた2人が、目を見交わして本に近づく。
「サモン、聞こえるかい?どこでもいい、燃やしてごらん。あたしたちが命に変えてでもそこから出すから。いいかい、良くお聞き――」
 その言葉は聞こえたのだろうか。
 何も言わず、だが眉をぎゅっと寄せて目を閉じたオーマが、片手でそっとシェラの背に触れた。
「本の中だからね。現実の世界と似ていても、いや、過去の世界を模していてもそこは本の中。紙で出来ているんだ。だから」

「……」
 なんだろう。
 声が――聞こえた気がする。
「…シェラ…?」
 何か言っているような気がして仕方が無い。何かをしろと、言っているのだが、それは一体何だろう?
 ――ふと。
 強烈な視線を感じて周りを見ると、いつの間にそこに集まっていたのか、聖獣たちが意思のある目でサモンをじぃっと見詰めていた。
「……シェラが」
 ぽつりと声に出す。
「…シェラが、呼んでる。何と言っているのか、知りたい」
 その言葉を口にした途端、聖獣はざっと2列になって、サモンへ意味ありげな視線を向ける。そんな聖獣たちの中でも、2つの聖獣がサモンの真正面に立っていた。
 そこに居たのは、イフリートとケルベロス。
 そして――くいと体が持ち上がるのを見れば、自分の体を持ち上げるナーガの姿があり、サモンはその意外な取り合わせにぱちくりと瞬きをした。
 にやり、とイフリートが、オーマそっくりの笑みを見せると、ケルベロスと共に巨大な炎を地面へ、周辺の木々へと撒き散らす。

 あっという間の出来事だった。

 付け木のように、紙のように、火を受けて燃え広がりだした世界。
 その向こうには、何も無い。――いや。
 何かが、じっ、とサモンを見詰めている。姿は見えないけれど、サモンを絡め取ろうとするかのように、闇の中から執拗に見詰めつづけていて。
 ――いやだ。
 サモンでさえそう思い、後ずさりしようとした時、自分の体を支えていたナーガもまた、世界が燃え広がるに合わせて自らの体に乗り移った炎に巻かれ、下から焼け落ちて行くところだった。
 放り出される前に見えたものは、ほとんど残っていなかったナーガの、サモンを気遣うような深い瞳。
 そして、闇へ落ちようとしたサモンの手を、がしっ、と誰かが掴み取る。
 それは大きくて暖かな手。王女のようにすべすべしているわけではなく、むしろごつごつとしているけれど、それでも――自分にとっては、とても大事なもののように思えて、サモンは夢中でその手を掴んだ。
「ようし、いい子だ」
 懐かしい声に、子ども扱いしなくても、と思いながら。

*****

「つうわけで開いたのはいいんだが、これじゃな」
 表紙の一部を残して後は燃えカスになってしまった本の残骸を摘み上げ、オーマが申し訳なさそうにエルファリアへ告げる。
「仕方ありませんんわ。…それでも、無事で良かった」
 マジックアイテムだと言う事が確認されたものの、危険でもありそうやって燃えてしまった事もあり、発掘された本は表向き無かったものとして扱われる事になった。
 サモンは、余程疲れたのかシェラの膝の上で子どものように眠っている。その手はオーマの腕をぎゅっと握ったままだった。
 オーマがようやくサモンの居所を突き止めたのは、本が本の中の聖獣たちによって燃やされてからすぐの事だった。オーマの守護をしているイフリートと、本の中のイフリートがリンクしたかのように、急にその複雑なルートが『見』えるようになったのだ。
 急いで場所を合わせ、空間を切って広げ、そこへ手を伸ばしてサモンの腕を掴み。それがぎりぎりのタイミングだったのを知ったのは、掴んだサモンがオーマの手にしがみ付くと同時に、本の中の世界が完全に崩れ落ちて闇へと消えて行ってしまったのを見たときだった。
 ――その時、闇の中に何かがいたような気がするのだが、オーマがサモンをこちらへ引きずり出してから思い出した時には、既に空間が閉じてしまい、確かめる事は出来ないままだった。
「さあ、もう1度パーティ会場へお戻りになります?私の知己の娘さんと是非1度踊りたいと言われる方が待ちわびてますのよ」
「だだだ駄目だ駄目だ駄目ーーーッ、絶対駄目ーーーーッッ!」
 にこりと王女に言われた途端、オーマはまだ自分の手を掴んでいたサモンをぎゅうと胸の中に抱きしめて叫び、
「…離して、オーマ…」
「あんたと言う人は――――」
 サモンに躊躇無く突き飛ばされ、ころころと転がったその先には、鎌の刃がシェラの満面の笑みと共に待っていた。
「ま――ま、ま、待ってくれ、頼むから待って下さい俺様が悪かったからっ」
「親ばか結構、だけどばか親は子どもを不幸にするだけなんだよ」
 きらりきらりと鎌の刃が光るたびに、オーマの髪の毛が1本1本はらはらと落ちていく。
「分かった悪かったサモンに選択させるんだよなあああでもそれじゃ変な虫が付いちまったらどうするんだよ俺様悲しくて悲しくて地底深く沈んじまいそうだ」
「ああ?土の中に沈みたいなら、墓場くらいは掘ってあげるよ」
 狭い部屋の中を縦横無尽に駆け巡りながら、鎌を持つシェラがオーマを追いまわす。
「…どう?サモンの好きで構わないのだけれど」
 そんな2人を微笑ましく見守っていたエルファリアが、シェラの膝が離れて目を覚ましたサモンへ声をかける。
「…誘われるのは…嬉しいのかも、しれない」
 自信なさそうにサモンがそう呟いてから、
「けれど…今日は、もう…いい。あの――招待、ありがとう…」
 ほんの少しだけ。
 エルファリアの笑顔につられたように、ほんのりと微笑を浮かべながら、サモンが王女へと言葉を紡いだ。
「いいえ。このくらいの事でしたら、いつでも喜んでご招待さしあげますわ」
 そして、王女もその言葉に嬉しそうににっこりと笑うと、サモンの手を取って、
「お2人とも。仲が良い事は結構ですけれど、サモンがもう帰りたいそうですわよ」
 笑顔のままそう告げたのだった。


-END-