<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


蒼の歌姫

●事の発端
 夜の帳が辺りを完全に覆い隠そうかという夕暮れ時、白山羊亭。
 店内に吊るされたランプが灯る中、1人の青年がステージの端で気分の赴くまま、リュートを爪弾いていた。
 リード・ロウ。吟遊詩人である。
 ここ一週間ほど前より毎日のように訪れては、決まった時間に音楽を奏で、最後に一杯引っ掛けて帰る。何のことはない。小銭稼ぎに通っているのだ。
 今日も今日とて演奏が終了した時には、目の前に置かれた桃の空缶に半分以上の硬貨が溜まっていた。
 リードはおもむろに立ち上がると、カウンター席に腰掛けて、桃缶の中の硬貨を2枚、ウェイトレスのルディア・カナーズに渡す。ややしてビールが並々と注がれたジョッキと、色とりどりのナッツの盛り合わせが姿を現した。礼を言いつつ、もう1枚硬貨を取り出してルディアの手に握らせる。
「貴方がここで演奏するようになってから、店も盛況みたい。最近では、貴方目当てに訪れるお客さんもいるくらいなのよ」
 硬貨をいそいそとポケットに仕舞い込みながら、彼女。社交辞令じみた文句は説得力に欠けるものだ。それでも、リードは苦笑を浮かべて「それはどうも」と短く返すと、ジョッキを煽った。

「ねえ、そういえばちょっと気になる噂を聞いたんだけど……」
 リードが再びジョッキをテーブルに置くと、これは常連客から聞いた話だと言って、ルディアが話し始めた。

 聖都エルザードより少しばかり南へ向かうと、エハル湖という湖がある。年中濃い霧が立ち込めており、幽玄とも不気味ともとれるような、そんな所だ。
 ある時、冒険者の一団がこの地を通りかかった。冒険帰りで疲れきった体を癒すべく、街へ急ぐあまり近道をしようと思い立ってのことである。
 すると、霧の奥から女性の歌声が響いてきた。胸が締め付けられる悲しげな旋律である。
 いつしか、冒険者達は足を止め、その歌声に聞き入っていた。
 結局、彼らは霧を抜け、街へ辿り着くことができたのだが――
「無事、では済まなかったのですね」
「察しが良いわね。ええ、そう。彼らの、それも男性のみが魂の抜け殻みたいに無気力状態になっちゃって。この間も噂を聞きつけた吟遊詩人が歌勝負に出かけていって、見事返り討ちに遭ったらしいわ。貴方も吟遊詩人だからって、変な気を起こさないようにね」

 どやどやと冒険者の集団が来店したため、ルディアがオーダーをとりに席を離れた後もリードは独り、思案気に青の双眸を光らせていた。

●被害者と加害者
 謎だらけの一連の事件に誰しもが首を捻る中、オーマ・シュヴァルツの提案で、件の冒険者や吟遊詩人を尋ねてみようということになった。医師の資格を持つオーマが彼らを診察し、あわよくば手掛かりをも得られないかと見込んだのだ。

 ルディアの情報を元に、まずは被害者の1人である剣士の家へと向かう。
 熊が模られたノッカーを叩くと、剣士の妻が突然の訪問にも関わらず、快く迎えてくれた。とはいえ、暗鬱とした表情までは隠せるものではなかったのだが。
「この世の者とは思えぬくらい、それは美しい歌声でした。でもまさか、夫がこんな風になってしまうなんて……」
 一行にお茶を勧めつつ、妻が重い口調で切り出す。
 聞けば彼女もまた冒険者であり、亭主や仲間と共にエハル湖に居合わせたのだ。
 初心者ばかりのひよっこパーティである。初めての冒険でこのような被害にあってしまい、大層戸惑ったことであろう。フェアリーのピアチェを肩に乗せたリラ・サファトは同じ人妻として、彼女の胸中を思うと心が痛んだ。
 妻の横には、夫が背中を丸めて、のっそりとソファに腰を下ろしている。ぼさぼさの髪にすっかり痩せこけた頬。隈をこしらえた目ばかりがぎょろりと飛び出ており、それはただただ虚空を見つめるのみ。剣士というより、病人そのものだとアイラス・サーリアスは思った。

「本当に、無気力状態なのでしょうか」
 と、試しにシルフェが簡単な質問をぶつけてみる。
「貴方のお名前は?」
「……はあ」
「ここはどこですか?」
「……ああ」
「お歳はおいくつかしら?」
「……うう」
 シルフェは一旦口を噤んで小首を傾げると、再び比較的明るい声でこう切り出した。
「隣の家に塀ができたってねぇ」
「……へい」
「あら、この方に治療は必要ないみたいですよ。ちゃんと受け答えできていますもの」
 くすくすと楽しそうに笑みを漏らす彼女以外の誰もが、心の中で激しく突っ込んでいたのは言うまでもない。「そうじゃないだろ、シルフェ!」と。

 気を取り直して早速、オーマが診察に取り掛かる。能力応用の具現精神感応(霊視に同じ)施すのである。
 『具現』とは文字通り、精神力を具現化する能力のことだ。オーマのいた世界では、この力は異端の中でも特に特化した者のみが有するもので、羨望と同時に忌み嫌われ畏怖されし象徴でもあった。
 オーマは瞳を閉じたままで、目の前に広がる光景を淡々と語る。
「――湖に霧。それから……微かだが女の歌声が聴こえる。『悲しい』とか『苦しい』とか、えらく寂々とした歌詞だな」
 ここまでは、ルディアの情報通りである。
 ルキス・トゥーラが大きく頷くと、静かに続きを促した。
「撥弦楽器……俺は楽器にゃ詳しくないが、多分竪琴の音色だな、これは。……待てよ。誰かいるぜ。畜生! 霧が濃すぎてはっきり見えねぇ。……ぐっ!!」
 突然、呻き声を上げて床に肩膝を突くオーマに、リラが駆け寄る。
 彼女の手を借りて何とか立ち上がると、大きく息をついた。
「蒼だ」
「あお?」
 ぽつりと呟くオーマの言葉に、形の良い眉をひそめて訝しげに繰り返すルキス。
「霧が一瞬だけ晴れた時、全身蒼い女が見えた。そいつがこっちを向いた途端、まるで体中の力が吸い尽くされちまうんじゃないかと思うほどの脱力感に襲われて……結果、このザマだ」

 帰り際、あのような酷い目に遭いながらも『ダイナミックセクシー筋乱舞アップドリンク』という、何とも怪しげな処方薬を幾つかと、腹黒同盟勧誘パンフレットをしっかりと妻へ押し付けるオーマを尻目に、アイラスは顎に手を当てて考えをめぐらせていた。
(「具現だけであのような状態になるのだ。直接歌声を耳にした者が魂を奪われるのも、なるほど頷ける」)
 どうやらこの奇妙な出来事、一筋縄ではいきそうにない。

●エハル湖
 その後、被害者宅を順に回ってみたものの、どれも似たような症状で目ぼしい糸口を発見することはできなかった。唯一、『蒼い女』というキーワードを掴んだものの、それも的確かつ明確な情報とはいえない。

 有翼の巨大銀獅子に変身したオーマの背に跨って、一行は一路、エハル湖を目指していた。
「あの、ちょっと気になったのですけれど……」

 風圧で飛ばされないよう、片手でピアチェを抱えたリラが、おずおずと口を開く。
「歌声の主はもしかして、セイレーンさんなのではないでしょうか? 彼女らの歌は男の人を無気力状態にしてしまうと、何かの本で読んだことがあります。凄く綺麗な声で皆酔いしれてしまうって」
「そうなんだ。リラってば物知りー」
 素直に関心するピアチェ。
 但し、セイレーンとは本来、海に住まう精霊である。同じ水辺に出没するとはいえ、海と湖ではやはりどこか違うのではないか。
 もっとも、相手の正体が不明である今、リラの意見を無下に却下するべきではないのも、また事実。推測の域を出ないが、一考の余地はあるというものだ。

 流れ行く風景は着々と姿を変え、視界に白いものが混じってくる。霧だ。
「様子を見るためにも、ここからは徒歩で向かいましょう」
 ルキスの賢明な判断により、湖からやや離れた所で獅子の背を降りる。
 鬱蒼と茂った木々が陽光を覆い隠しており、よく晴れ渡った昼下がりであるのにここだけ闇色がうっすらと落ちている。纏わり付く濃霧に肌寒さすら覚えつつ、細々とした獣道を進むこと数分。
 一同の目前には、エハル湖が広がっていた。おそらくかなりの規模とみて良いだろうが、霧のせいで湖の端々まで見通すことは不可能だ。
 ――無音である。
 獣の気配はおろか、魚が水面を跳ねる飛沫音すら聞こえないのだ。
「変ですね。静か過ぎる……」
 囁くアイラスの声も、皆にはっきり聞き取れる。それほどまでに静まり返っているのであった。
「では、湖面に石でも投げてもましょうか。そうすれば、歌声の主さんもわたくし達の存在に気付くのではないかしら?」
 大真面目でも、どこかおっとりしたシルフェ。聖母のごとく微笑みへ向けて、やっぱり彼女以外の全員が突っ込まずにはいられない。「いや、だからそうじゃないだろ、シルフェ!」と。

「では、そろそろ始めましょうかね」
 一段落した所で、リードがぽんぽん、と両手を鳴らす。不謹慎ながらも、この状況を楽しんでいるのだ。この吟遊詩人、時と場を選ばないこういった反応は、どこか浮世離れしている。
 男性陣の歌声対策として、
「特殊な歌には少々耳が慣れていることと、あとは耳栓くらいしか思いつかないのですけれども」
 と、ルキス。
「俺にゃ、具現しかないからな。ま、何とかやってみるわ」
 とは、オーマの言い分。
 残るはアイラスなのだが――
「僕は……特に対策は行いません」
 目を丸くする一同に、横笛を握り締め、伏し目がちに答えるアイラス青年。
「勝負する気はないんです。ただ、その素晴しい歌と協演してみたいだけでして」
 楽器演奏に関しては玄人並の腕を持つ彼にとって、魂を抜かれるほどの美声に乗せて調べを紡いでみたいと思うのは、至極当然なのかもしれない。
 彼の気持ちが手に取るように理解できるリードは、何とその申し出を二つ返事で快諾したのである。
「おいおい、いくら何でも危険だろ」
「ヤバイと感じたら、湖から離れさせていただきますよ」
「だからって……」
 顔をしかめるオーマが、アイラスとリードを交互に見やる。だが、リードは別段、何でもないといった調子で、
「アイラスさんの納得できる方法でなさるのが一番だと思います。それに、私も彼のご意見には賛同できる部分もあるのですよ」
「まさか、リードさんも対策は何も講じないおつもりなのですか?」
 心配そうにそっと口に手を当てるリラ。もし、2人共魂を吸い取られてしまったら、そして、一生あの冒険者達のように無気力状態のままだったら……。
 リラの胸中を知りつつ、それでも尚、罪作りな吟遊詩人は微笑むのであった。
「皆さんが私の呼びかけに応じ、ここにこうしていらっしゃるのは、それ相応の決意を持って来られたからだと思います。無論、私も同じです」
 1人ずつ顔を覗き込むリード青年の決心は、もはや揺るぎない。 
「皆さんを信じていますから」

●混じり気なき清水のごとく
 2名の楽師たっての希望により、小さな宴はゆるりと幕を開ける。
 歌勝負の方法は1人ずつ順に歌唱、または演奏を行い、その全てに即興でリードが加わるといった、実にシンプルなものだ。ピアチェは介護係として控えている。
「えー、そんなの酷いよぉ。私だって歌いたいもんっ!」
 駄々をこねるピアチェを全員でなだめるという一場面があったのは、想像に難くない。

 先行のルキスの演奏が終わり、続いてシルフェの番となった。
 霧の向こうでは、今だ姿を現すことのない主の美声が響いている。それらに合わさるように、アイラスが一心に横笛を奏でていた。その隣のリードは俯き加減に座してリュートを構えると、次の曲に備えて待機しているのである。

(「悲しいばかりと言うのも寂しいでしょうねえ」)
 先述の両名を一瞥した後、目を細めて彼方の霧に視線を投げる。向こう側には、歌声の主がいるはずだ。
 シルフェは2つ、3つ深呼吸を繰り返す。それから耳を傾けて件の美声に集中しつつも歌い始めた。

 得手不得手を語るほど歌に馴染んではいないシルフェも、このような幻想的な場で歌えることを内心、喜んでいるのであった。無理もない。水のエレメンタリス、ウンディーネである彼女にとって、世界の息吹を感じることこそ、至福の時であるのだから。だから、水が満ち満ちている湖で、あんなにも悲しげに歌われると、自分まで切なくなってくる。
 この幸せを歌声の主にも分けてあげたいと、純粋に思う。心に深く刺さった棘をそっくり取り除いてあげることはできないかもしれない。けれども、痛みを和らげることくらいなら可能なのではないか。

 シルフェと女性の重唱、アイラスの横笛にリードのリュートも加わって、今やちょっとしたクラシックコンサートさながらの重厚感溢れる音響が木霊する。
 切なくも柔らかな音色に湖面が共鳴し、小波に揺れた。
 霧中より、歌声に乗せて竪琴の調べが響いてきたのも、丁度この時であった。

 シルフェの出番が終わり、オーマ、リラと続く。
 程なくして、余興は終演を迎えつつあった。

●蒼の歌姫
「リードの様子が変だよ!」
 リラの歌が終わっても、リュートを掴んだまま演奏を止めないリード。違和感を覚えたピアチェが彼の顔を覗き込んで、鋭い声を上げた。
 開かれてはいても、何も映していないガラス玉のような瞳。ルキスの脳裏に、あの剣士の姿が過ぎった。
 シルフェが「少々痛い治療です」とリードの横面を張り倒したものの、効果はない。
「魂を抜かれてもなお、演奏を続けていたってのか!?」
「まあ、何てこと……」
 オーマとリラが信じられないといった面持ちで顔を見合わせる中、何とか回復したアイラスがリードのリュートを引き剥がす。

 そうこうしている内に突然、例の歌声がぴたりと止んだ。
 すると、不思議な現象が起こった。霧が、みるみるうちにどこへともなく引いていく。あれほどまでに濃厚で、一度として晴れたことのないエハル湖名物のそれがである。
 皆が見守っていると、湖の全貌が明らかになった。
 波打つわけでもなく、しんとした湖の丁度真ん中辺りに小島が浮かんでいる。そこに女性が独り、ひっそりと佇んでいた。
 蒼い。
 ヴェールをすっぽりと被り、長い上品なマーメイドドレスに身を包んで、小脇に竪琴を抱えているのだが、それらが全て蒼で統一されているのだ。
 女性は一行を見止めると、こちらへ向かってゆっくりと歩いてきた。小島から湖へ白い足を伸ばす。そのまま沈むことはなく、滑るように湖面を移動している。足が付く度、波紋が広がった。

 陸地へ上がり、憂いを含んだ瞳でメンバー全員を見回した。竪琴を抱えているのとは反対側の手でドレスの端を摘んで優雅にお辞儀する。身のこなしは貴人そのものだ。
「不躾ながら素敵な音楽の数々、拝聴致しておりました。私は、ここより北に位置しております海域を守護するセイレーンにございます」
 リラの憶測はぴたりと当たっていたのである。
 肌の露出が少ないために外見から判断するのは難であるが、鈴を転がすような艶やかな声質からして、大よそ20歳前後であろう。
 セイレーンは横たえられたリードに顔を向けて、小さく息をついた。
「さて、何からお話致したものでしょうか」
 ぽつりぽつりと、小さくではあるがしっかりした声音で彼女は語る。

 歌を心から愛していたセイレーンは、一族特有の魔力を帯びた自身の歌声が、例え船乗りを脅かそうとも構わなかった。元々、海を汚し、恵みを必要以上に奪っていく人間などは大嫌いだ。そういうわけで、外の世界に憧れることもなく、この海域で生まれ、死していくことこそ当たり前だと思っていたのである。
「事の始まりは、1人の旅人との出会いにございました」
 その日も彼女はいつものように海上に突き出た岩の上で歌っていた。
 穏やかな潮風が頬を掠める。
 頭上を翔るウミネコの鳴き声に合わせて歌い続けた。

 ――と、遠く前方の海原で、誰かが助けを求めているのが視界に入った。側には手漕ぎボートが波任せに漂っている。このままでは溺れてしまうだろう。無論、かの人物が溺死しようと自分に知ったことではない。
 知ったことではない……はずであったのに、体は意に反して動いていた。なぜだか不覚にも気が付けば、現場まで泳いでいって、その男を助けていたのである。
 ボートに引っ張り上げると、男はぜーぜーと荒い息を繰り返す。呆れ顔で眺めていたものの、やがてその様子がおかしくて、吹き出しててしまう。
 こうして若者達が恋に落ちるのに、そう時間はかからなかったのである。

「彼もまた、貴方々と同じ冒険者でした。様々な冒険譚を聞いた私は、彼と共に旅に出る決意をしました」
 セイレーンの回想は続く。

 男は冒険の用意ができたら必ず迎えに来るからと言って、セイレーンを海に残したまま去っていった。
 3日が経ち、1ヶ月、半年が経っても男は一向に現れない。
 とうとう1年が過ぎ、もう矢も盾もたまらなくなった彼女は、男に会いたい一心で海から陸へと上がり、彷徨い歩いたというのだ。
 いわずもがな、あてもなければ持ち合わせもない状態で、どうして男の元へ辿り着けることができようか。力尽きた彼女は歩む代わりに声の続く限り歌を歌い、想いを伝えようとしていたのであった。

「この竪琴は『蒼珊瑚のハープ』と申しまして、彼からの贈り物です。これを胸に抱き、今日まで騙し騙しきてしまいました。あのお方の身に何かあったのか、それとも心変わりしてしまったのか。例え二度と会えぬとも、お慕いする気持ちに偽りはございません」
 セイレーンは胸に右手を当てて俯いた。大粒の涙がはらはらと落ちる。
 彼女の様子を見かねたルキスが、遠慮がちに口を開いた。
「貴女の想いは、伝わったと思いますよ」
 はっと顔を上げるセイレーン。蒼のヴェールがさらりと滑り落ち、顔全体が露になる。
 紺碧色の長い髪と、大きな瞳、通った鼻筋に薄紅の唇を持つ美女であった。やや青ざめながらきゅっと眉根を寄せ、瞳を潤ませている表情がまた、彼女の魅力を存分に醸し出している。
 ルキスを見上げるセイレーンが、問う。
「……そう、でしょうか?」
「ええ、勿論です。だって、こんなに美しい歌声なのですもの」
「僕も貴女と協演できて、とても楽しかったですよ」
 シルフェとアイラスがにっこりと笑みを浮かべると、他の面々もそうだそうだと頷く。
 ずっと孤独だったセイレーンは僅かな望みを抱き、歌い続けてきたのだ。それが皆の優しさに触れることで、心の奥底に固まっていた張り詰めたものがすうっと溶けて流れていったのだ。
 蒼の歌姫は泣き崩れ、嗚咽だけが響いていた。

●金色(こんじき)の慈雨
「ところで、医者としては至極重要な疑問があるんだが……」
「はい。何でもお聞き下さい」
 目を真っ赤にしていたものの、セイレーンはもはや泣いてはいない。心持ち、表情も柔らかくなっているようだ。静かにオーマを見つめ返している。
「あんたの歌声によって魂を捕られた者は、もう元に戻らないのか?」
「それでしたら、心配はございません。ムムグ貝の貝殻とシナフィッシュの尾をすり潰し、混ぜ合わせたものを水に溶いて飲ませれば、じきに自我を取り戻します」
 彼女の言うムムグ貝、シナフィッシュは共に深海に住む魚介類で、非常に高価な品である。一冒険者の財で到底手に入れられる代物ではない。
 一同が、はてどうしたものかと頭を悩ませていると、セイレーンが掌に載る程度の小瓶を差し出した。中には白っぽい粉末状のものが詰められている。
 数分後、小瓶の中身を飲まされたリードは無事に目覚めたのであった。

「リードさんもお目覚めのことですし、よろしければ一緒に歌いませんか」
 リラの案に、誰もがぎょっとする。それもそのはず。セイレーンの歌とは、本人の意思如何に関わらず、魂を吸い取ってしまうのだから。
 そんな一同の様子に、セイレーンはちょっぴり寂しげに笑った。
「わたくしにはもはや、それだけの魔力は残っておりません。消える前にせめて、悪戯に人を惑わせるのではなく、聴く者を癒し、楽しませる歌を歌いたい……」
「消える?」
 ピアチェが鸚鵡返しに尋ねた時、すでにセイレーンは息を深く吸い込んでいた。

 先程、一行が耳にしたものとは異なる歌である。
 どんな試練が自分の身に襲いかかろうとも、最後は全ての者へ金色の雨(幸福)が降り注ぐのだと、優しく語りかける。
 賛美歌のようなフレーズを繰り返すうちに、誰からともなく1人、また1人と歌に加わっていった。
 すると、どうしたことだろう。本当に、空から光の粒が落ちてきたではないか。暖かな金色の慈雨が頬を打つ。全員がセイレーンを見やれば、全身を金色に包まれた彼女は雨粒より一層強い煌きを放っていた。
 これ以上ないほどに穏やかな笑みを湛えたセイレーンの姿が透けている。
「本当にお世話になりました。どうも有り難う。有り難う――……」
 金の粒は大気と同一化し、湖を、空を、大地を覆った。
 光の海が世界を満たす。
 永遠に続くかと思われた時、輝きが徐々に納まってきた。暖かさが薄れていく。まるで、命の灯火が完全に尽きたかのごとく。
 そして――それはやがて、消えた。

 セイレーンが立っていた辺りには、ぼろぼろの蒼いドレスを着た白骨の躯が横たわっていた。竪琴を小脇に抱えたその髑髏は、満足気に微笑んでいるように見えなくもない。
 一同はそこに小さな塚を築いた。
 後にエハル湖には歌唱の女神が住んでおり、その御利益にあやかろうと世界中から人々が礼拝に訪れたということである。


―End―


【登場人物(この物語に登場した人物の一覧)】

◆ルキス・トゥーラ
整理番号:1952/性別:男性/年齢:18歳(実年齢:18歳)
職業:旅人

◆オーマ・シュヴァルツ
整理番号:1953/性別:男性/年齢:39歳(実年齢:999歳)
職業:医者/ヴァンサー(ガンナー)/腹黒副業有り

◆リラ・サファト
整理番号:1879/性別:女性/年齢:16歳(実年齢:19歳)
職業:家事?

◆シルフェ
整理番号:2994/性別:女性/年齢:17歳(実年齢:17歳)
職業:水操師

◆アイラス・サーリアス
整理番号:1649/性別:男性/年齢:19歳(実年齢:19歳)
職業:フィズィクル・アディプト/腹黒同盟の2番

※発注順にて掲載させていただいております。


◇リード・ロウ
NPC/性別:男性/年齢:23歳
職業:吟遊詩人

◇ピアチェ
NPC/性別:女性/年齢:7歳
職業:花の守り手

◇その他NPC:セイレーン/ルディア・カナーズ


【ライター通信】
 初めまして、もしくはこんにちは。ライターの日凪ユウト(ひなぎ・―)です。
 この度は、白山羊亭冒険記『蒼の歌姫』にご参加いただきまして、誠に有り難うございます。そして、お疲れ様でした。
 
 セイレーンと聞いて私が真っ先に思い浮かべた姿は、上半身は女性、下半身が魚といった、いわゆる人魚のようなイメージでした。
 実はセイレーンの外見については様々な説があります。例えば、ホメロスの『オデュッセイア』には単に魔女とだけ記されていたり、古代ギリシャ遺跡より発見されたものですと、頭部は美しい女性、首から下は水鳥だったりします(こちらも実は、割と一般的な姿)。ハーピー(=ハルピュイア)もこれに似たような容姿を持ちますが、セイレーンのように美しい声で歌うことはできないのだとか。蛇足ながら、少数ではありますが髭を生やした男性のセイレーンも存在したそうです。
 ギリシャ神話にて、音楽家オルペウスとの歌比べはあまりにも有名ですね。
 そういった伝承を踏まえた上で、当作品ならではのちょっと物悲しいセイレーン像を作り上げてみました。オリジナルと異なる部分が多々あるかと存じますが、その点、ご了承いただければ幸いです。

 おっとり屋のシルフェさんは、きっとあのような行動を起こすに違いないと思い、楽しく描写させていただきました。PC設定の「無茶をしたり」というキーワードから、リードに痛い治療を施してみましたが、あんな感じでよろしかったでしょうか?
 なお、違和感などありましたら、テラコンにて遠慮なく著者までお申し付け下さいませ。

 それでは、またご縁がありましたら、どうぞよろしくお願い申し上げます。


 2005/09/28
 日凪ユウト