<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


依頼タイトル  :閉じた記憶
執筆ライター  :間垣久実

------<オープニング>--------------------------------------
「どう?」
「……」
 黙ったまま、ゆっくり首を振った男が溜息を吐いて、手の中にあるカップの中の酒を一気にあおる。
 その男を心配そうに見つめる女性…その不思議な雰囲気の2人を、店の中にいる客が何となく息を詰めて見守っていた。恋人にも見えず、家族でも無さそうで、だがどことなく繋がりがあるように見える、そんな2人。
「他に行ってみましょう」
「…ああ」
 かたり、と立ち上がり、女性が代金を払うと先に立って店を出て行く。
「なんだありゃ?」
「あー、あれか?俺も詳しくはしらねーけど、あの兄ちゃん、記憶を無くしたまま浜辺に打ち上げられてたんだと。あの様子だとまだ忘れたままらしいな」
「じゃああの付き添ってた姉ちゃんは?」
「さー?」
「身内か恋人じゃねえの?」
 そんな憶測が飛び交い、そこにいた客が出て行った2人が座っていたテーブルに視線を注ぐ。良い肴になったとでも思ったのだろう。
 だが、その話はそこで終わらなかった。
「……から、……っ!!」
「そんな…ちがう、……でしょう!?――いや、いやああああ!!」
 何か争うような声、悲鳴…物の倒れる音。それらに何事かと店の中に居た人々が外へと駆け出していく。

 そこには。
 男が、地面に膝を付いていた。半開きの口は、何か叫びだしそうで何も言わず、ゆっくりと立ち上がる。
 血まみれのナイフは、その手に。――何の感情も浮かんでいない目が、駆け寄ってきた人々へと向けられ、そして。
 その足元には、腹を押さえて呻いている、女性の姿があった。

*****

「兄貴はそんなことするような奴じゃない!」
 どん!と、固く握り締められた拳が木のテーブルに激しく打ち付けられる。
 カーク・クレイド――記憶を失った男が、恋人のジョディを殺しかけた罪で町の警邏によってその場で取り押さえられ、牢に入れられたその翌日。
 カークの弟のケニスが、騒ぎのあったすぐ近くの店――白山羊亭へと訪れていた。兄に似た顔立ちは良く日に焼けており、普段なら元気の良い笑みを見せてくれるのだろうが、今はその顔も酷く歪んでいた。
 問題は。
 当人が一切の抗弁をしていないという事にあった。カークが犯人と言う事で見解は一致していたが、事情が分からないだけに困り果てている。何しろ、当人は暫く前に一時行方不明になっていた男で、戻っては来たものの、その記憶はすっぱりと切り落とされていたからだ。
 今もまだ自分が誰なのか思い出せていないらしく、時間を見ては以前から恋人のジョディと一緒に思い出の場所を回っていた、その最中の出来事だったらしいのだが…。
「頼むよ…兄貴が、ジョディにあんな真似をする筈ないんだ。犯人は別にいるんだ」
 連絡が行ってから寝ていないのだろう。目の下のクマが疲労の度合いを語っていた。
「俺の出せるだけの報酬全部出すから。何なら船売ったっていいんだ」
「ま、待ってよ。…とにかく、心当たりに話を聞いてみるから。ね?」
 ルディアは、そう言って押し留めることしか出来なかった。
 困ったなぁ――そうありありと顔に浮かべながら。
 彼の事は以前も兄の捜索を頼まれた事があり、知っている。けれど、今回のような犯罪騒ぎで既に捕まっている者を、どう助ける事が出来るのか思い浮かばなかったからだった。
 それでも、目の前の真剣な顔をしている青年の言う事を信じてみようと言う気にはなっていた。

*****

 白山羊亭に、6人の男女と、依頼側のケニスが集まっていた。青年は気を揉んでいるのか、浅黒く焼けた肌に似つかわしくない冴えない表情で、集まってきた皆を縋るように見詰めている。
「まさか、また集まるなんて思いませんでした」
「確かに」
 その中で、ケニスとも顔見知りらしい2人の男女は、彼と同じように憂いの表情を浮かべていた。
「どうか、したんですか?」
 心配そうにその2人に問い掛けたのは、リラ・サファト。神父らしき格好をしている銀髪の青年、高遠聖の隣からそっと訊ねるのを、みずねと水留の2人が、ちらと顔を見合わせて、
「…この話、以前に関わった事があってね」
 水留がそう言って話し始めた。過去にも一度、ケニスに依頼された話があったのだと。それが、今も記憶喪失のままでいるカークを探す事だった、と聞く。
 話は、暫く前に遡る。
 腕の良い漁師の家に生まれながら、その腕の良さのあまりつい難しい場所を漁場に選んでいた父と兄を失ってから、一家を支えてきたのは、カークのみ。その当時まだ少年だったため、船に乗る事を許されなかったケニスがようやく一人前の漁師として海に出られるようになったのは、皮肉にもカークが海で行方不明になる少し前の事だった。
 そして、まだ年若い弟のためか、それとも恋人のためか、新たな漁場を開拓するんだと言ったカークは、危険区域の辺りで嵐に遭い――そして、記憶も、船乗りとしての腕も全て忘れてエルザードへと戻って来た。
「…なるほどなぁ。案外、まだ終わってねえのかもしれねえな、そいつは」
 集まった中でも頭が抜きん出て大きい男、オーマ・シュヴァルツが腕組みをしながら言った。
「――そうだな……」
 その後で、静かに話に耳を傾けていた如月一彰が、ぽつりと呟きながら同意する。
「今回は怪我人も出ているし、カークは一応まだ牢の中にいる。この事件の原因を突き止めるためには、手分けした方がいいと思うけど」
 水留の言葉に、次々に賛同した皆がちょっと考え、
「俺はそうだな…医者の立場からもジョディとカークの様子は見に行きたいな。まあまずはジョディだが」
「私も同道いたします。お話が聞ければいいのですけど…駄目でしたら、事件が起きた現場へ参ります」
 と、取り合えずジョディの方に行くというオーマとみずねの2人が立ち上がる。
「僕はカークさんたちが辿った道筋を歩いてみる事にします。それと、現場の方にも。何か残っているかもしれませんからね」
「あ、それなら私も。通った場所はカークさんの思い出が深い場所なのでしょ?」
 かくん、と首を傾げるようにしてリラが笑い、その2人は周囲の人間に聞き込みながら彼らが通るルートを調べる事になり。
「僕は現場付近を念入りに調べておくよ。――それから、後ででいいから彼女にも話を聞いてみたいな。…如月さんは?」
 最後に残った一彰へ水留が訊ねると、かたん、と静かに立ち上がりながら、
「…牢の彼と、少し話がしてみたい。……後は、その場の判断で」
 そう言って、皆が顔を見合す。
「それじゃ――そうだな。一度途中で集まる事にするか。それによって、時間がかかりそうかどうかが分かるからな」
 午後のおやつの時間くらいに一度ここで、と最後に取り決めると、その場で別れて各自の持ち場へと移動して行った。
 何にしても時間はあまりない。いつ、カークに対する処分が決まるのか分からないのだから。

*****

「うん?何の用だ」
「……カークさんに、お話を伺いに」
 小脇に荷物を抱えた一彰の姿に、牢番は一瞬あっけに取られて、それから思い切り呆れた顔をした。
「お前なぁ…ここがどこか分かっているんだろ?あの中にいるのは犯罪者で、俺はその見張り。話を伺いに、なんて出来るわけないだろうが」
「…けれど、まだ彼が犯人だと…決まっていない筈だが」
 うっ、と牢番が一瞬言葉に詰まる。
「勘違いしないで欲しい。…私は、彼に話が聞きたいだけだ。逃がそうとか…そう言う事は何も考えていない」
「…じゃあ、その荷物は何なんだ」
 見せてみろ、と言う言葉に応じて、躊躇いなく一彰が荷物を開く。
 中から出てきたのは、お茶道具一式と本。それに、折りたたみの小さな椅子がひとつ。
「茶を飲みながら、話を聞こうって言うのか………お前、度胸あるな」
 牢の中に居るのは、冷酷にも恋人を刺し殺そうとした男なのに、と呆れた中にもどこか感心するような声を上げ、
「…待ってろ。上役に聞いて来る――そこ動くなよ」
 びし、と指を指してから、とことこと番人が中へ入って行った。
 言われた場所にぼうと立ちながら、殺風景極まりない石を詰まれた仮牢を眺めている。と――どこからか、一彰を探るような視線を感じて、その方向へと振り返った。

 そこには、目が。

 牢の壁に寄りかかり、意志を感じさせないぐったりとした姿勢でありながら、底光りのする目が、じぃっ、と一彰を見詰めているように見えた。
 暗がりの中、はっきりと一彰の目に見えたわけではなかったのだけれど。
 それは、ひとのものとは違う、別世界の知能を持ったモノの目に――。
「こっちです。あいつに会いたいなんて奇特な事を言うヤツがいて」
 はっと我に返ると、牢番が上役らしい役人風の男を連れて戻って来た所だった。
「…誰もいないじゃないか。他の牢番を呼んでココを詰めさせてから呼びに来いと何度言えば分かる?」
 そう、半ば諦めつつ言い置いた中年の男が、じろりと鋭い眼差しで一彰を見る。
「カーク・クレイドに会いたいそうだな」
「はい」
「用件は?」
「…事件の事を、聞きに」
 言った通りでしょう?と得意げに言った牢番にもじろりと鋭い目を向けてから、
「お前はもういい。奥の掃除でもして来い」
「ええっ、だってあそこは一昨日掃除したばかりじゃ」
「いいから行って来い! 俺が言うまで戻って来るなよ」
「はぁい…」
 しょぼんと肩を落とした男をしっしっと追い払うと、周りに誰もいなくなったのを確かめてから、男が一彰に向かい合う。
「――本当は何の用で来た?」
「…目的は、言った通りだが」
「あの、聞いても話さないどころか何も反応しない男に、一体何を聞きに来たと?」
 どうやら、一彰が他に目的を持って来たのではないかと疑いを持ったらしい。困ったな、とあまり表情が浮かばない彼なりに僅かに表情を変えると、
「……黙って側にいるだけでも、何か分かるかもしれない。手がかりが無い、そう聞いているから、試す価値があるものは試してみようと、思って」
「…………」
 じーっ、と強い目で見られても、嘘を付いている訳ではないから動じる事無くそこに立っていると、ふう、と男が息を吐いて、
「…確かに手をこまねいている。彼はまるで貝のようだ。故意に分からない振りをしているのではなく、起きたまま寝ているんじゃないかと思うくらい反応が無くてな」
「じゃあ、中に入っても?」
 そう一彰に訊ねられて、男が暫く考え込む。
「構わない。が、持ち込みは禁止だ。それから身体検査もさせてもらう」
 茶ならこっちで淹れて出してやろう、そう言うと、これもひとつの方法と考えたのか、一彰の身体検査をして、本も含めて武器になりそうなものを全て取り上げると、同じ牢の中に入れて鍵をかけた。
「…こんにちは」
 先ほど強い視線を感じた方向に居た青年が、彼だったのか、と思いながら、ゆっくりと近づいていく。それを見るでもなく見ているカークは、拒絶も受け入れもしないまま黙ってその場に座っていた。
 そのすぐ近くに、一彰も座る。――ひんやりした石壁の感触が背にあり、あまり良い気分ではないが、牢といえばこんなものだろうと自分を納得させて、前を見た。
 その方向には先ほどの男がいて、一彰たちの様子をちらちらと窺っている。
「……気分は?」
「――別に」
 思いがけず、あっさりと返ってきた言葉に少し驚いて目を見開くも、それ以外は話し掛けても反応が無く、そのまま暫く様子を見る事にする。
「おい。茶が入ったぞ。一応、2人分な」
 そうして少しすると、自分も喉が渇いたからだろう、男が牢の前に木のカップに入れたお茶を持ってやって来た。一度立ち上がり、それを受け取ってカークの側に持っていく。
「飲むか?」
 その言葉にも、特に反応は無い。まあいいか、と呟いて、彼の手の届く範囲に置くとまたさっきの位置に戻って、暖かなお茶をゆっくりと口に運んだ。
 ――気が付けば。
 カークも、その手にカップを持って、無言でそれを口に運んでいるのが見えた。

「聞いただろう」
 その言葉が漏れたのは、2人ともお茶を飲み干して暫く経ってから。
「…何を」
「俺の、記憶が無い事を」
「……ああ、聞いた」
「俺は。――俺は。どうしようも、なかった」
 それは、誰もが尋ね続けた事に対し、一彰が聞かなかったからなのか。
 カークが、ゆっくりと、とりとめもない話に聞こえるそれを、話し続ける。
「毎日、見知らぬ場所で目が覚める。今日こそはそれが夢であれと思っていても、やっぱり知らない場所なんだ」
「…記憶が無いのだから、それは仕方ないと思うが?」
「俺は、全部騙されているような気がする。全部が悪い夢のような気がして仕方ない。だって『あいつ』が――」
「…あいつ?」
 ふと口にしたらしい言葉に、一彰がぽつんと繰り返す。
「っ!?」
 ――その反応は、初めて見るものだった。
 無表情と思っていた顔にありありと浮かんだものは――恐怖。顔を覆い、身体を小さく小さく丸めて、隅に縮こまっていく。
 それからは、一彰が何も追求しない事を知ってからようやく少し落ち着いた様子を見せたが、オーマが来るまでは再び口をつぐみ、何も言おうとはしなかった。

*****

「待たせたな。――あー、おまえさんは王宮関係者だよな?よな?それなら分かるか。俺は」
 オーマがようやく現れて、牢番をしていた男へぼそぼそと耳打ちをする。
「つーわけで、医者なんでな。精神鑑定しに来たんだ。入っていいだろ?」
「…ま、確かに、そう言うことになるか。…全く今日はなんて日だろうな。次から次へと変わった客が来るんだから」
 そうぶつくさ言いながら、オーマを牢の中に入れると再びがちゃりと鍵をかけた。
「どうだ?」
「…怯えてる。それから、誰か知らないが、『あいつ』という言葉を漏らしていた」
「――ふーん。そうかそうか。じゃあ、俺の治療を始めるぞ」
 一彰からその言葉を聞いたオーマがどかりとその場に腰を降ろし、カークの目を覗き込む。
「よう、カーク。おまえさんを診に来た医者だ。よろしくな」
 にっ、と笑うと、
「念のために聞くが気分を悪くするなよ。…おまえさんは、何も覚えてない。それで間違いないな」
「……」
 オーマの問いに、黙ったまま小さく頷く青年。よし、とオーマが頷くと、
「それじゃ…いくつか質問するぞ」
 イエスノーでいいからな、そう言って、オーマはカークに手を伸ばしながら、口早に次から次へと質問を開始した。
 夜眠れるかとか最近何かで怒ったかと言う何か関係のありそうな言葉から、朝ご飯は食べたかとか、女の子の好みはショートカットの子か、と言う何故そんな質問をするのか分からない類の質問まで、延々と口を動かしながら――だが、一彰が見た感じでは、オーマは全く別のことを考えているように見えた。
「それじゃあ次はだな――うぉっ」
 ばちばちっ、と小さな火花が散って、オーマがカークから手を離す。同時に、かたかたと震え出したカークが自分の腕をぎゅっと抱きしめると俯いて、
「やめろ――もういい、やめてくれ」
 歯の隙間から搾り出すような、悲鳴に似た声を吐き出した。
「おーけーおーけー。分かった。もうやらねえよ」
 苦笑いしたオーマがそう言ってあっさり立ち上がると、
「後で美味いもん差し入れてやる。それからな――おまえさん」
 一彰にちょいちょい、と手招きをしつつ、オーマが俯いたままのカークににっと笑いかけると、あっさりと聞いた。
「海に戻りてえか?」
 と。
「――――――っ!」
 その時、カークが思わず顔を上げてしまったのだろう。一彰とオーマは、はっきりと見た。
 無表情と思っていた彼の顔に、泣き出しそうな表情が浮かんでいたのを。
「…あれは…一体」
「凄ぇな。――人間ってのは凄ぇと思うよ」
 牢を出て、結果は後日、とにこやかに告げて煙に巻いたオーマが、一彰の問いに、感嘆の声を漏らす。
「どういう意味だ?」
「カークは立派に男だったっつことだな。…正直、今まで保ってたのが不思議なくらいだ」
 白山羊亭に行こう。そろそろ他の連中も集まってくる筈だ、とオーマは言って、軽く首をかしげた一彰を促しつつ足早に向かっていった。

*****

「――それじゃあ、分かった事を交換しましょう」
 みずねの言葉に頷いた皆が、分かった事、考えた事、それぞれを口々に告げる。
「それじゃ、見たってのか。あいつが刺したところを」
「ええ、見ました。でも――やっぱり、私が考えていたように、あのカークさんはおかしいです。最初から刺すつもりなら、何故カークさん自身が必死に抵抗するような姿を見せるんでしょうか?」
 リラが不思議で堪らない、と言った顔で言う。
 みずねの出した『水鏡』に映った光景は事実には違いないが、彼の意志とは考え辛い――と言うのがリラたち4人が出した結論だったのだ。
「そちらのお2人は、どうでしたか?」
 みずねが一彰とオーマを促すと、
「カークさんと、少し話をした」
 一彰がぽつりと言う。
「オーマさんにも言ったんだが…彼はどうも、『あいつ』と言う存在に怯えているようだった。それから……これは、推測にしか過ぎないんだが」
 ちら、とオーマを見ると、いいぜと言うようにこくりと頷くオーマ。
「…私が見たところ、もしかしたら、彼は、心の奥底では忘れていないのかもしれない」
「記憶が、戻っていると言う事ですか?」
「――上手く説明出来ないんだが。思い出す事も、感情を表に出す事も、無理やり抑えているような…そんな気がするんだ。理由は分からないが」
 牢を出る間際の、オーマの問いかけた言葉『海へ戻りたいか』と言うその言葉に、何故あれほどまでに激しく動揺したのか。
 『あいつ』という言葉を問い掛けた途端、怯えたのは何故なのか。
 その言葉に思い当たる事があるのなら、記憶は戻っていてもおかしくない。けれど、普段の彼は全く記憶が無いと言う状況で今までやって来ている。
 その辺りがおかしいのだと、口が回らないもどかしさを感じながら一彰が語る。
「でも、完全に思い出しているわけではなさそうですよね」
 矛盾してますね、と聖が首を傾げ、
「普段は、それこそ無意識の位置で思い出さねえように封じてるからだろうな」
 オーマがそこで、何か掴んだのかぼそりと告げた。
 それで、皆が一斉にオーマを見る。
「……ちいっとな。あいつの記憶を探らせてもらったんだ」
 軽くこんこんと自分の頭を指先で叩きながら言うと、
「いや、記憶と言うより『想い』かね。確かにあいつの頭のなかは真っ暗で良く分からなかったからな」
 そう言って、
「解決のきっかけは掴んだ――と思うんだが、いまいち確証はねえ。それでな。俺、これから海に行こうと思う」
「海に!?」
 突如出た言葉に驚きの声を上げる水留。
「そ。上手くいきゃあ、原因を退治してめでたしめでたしになれる。下手すりゃ俺も危険域の向こうに流されちまいかねねえけどよ」
「…なるほど。彼が行方不明だった時期に現れた、海上の霞のあった辺りへ行くつもりなんだね」
 水留が呟いてからすっと顔を上げ、
「僕もお付き合いします。多分、オーマさんよりはずっと、水に強いからね」
 そう言って微笑んだ。
「私も行きたいけれど、ジョディさんに話も聞きたいですし…今回はお譲りします。他の方は?」
 みずねの問いかけに、水留とオーマが軽く苦笑を浮かべて、
「全員が海に行く事はないよ。危険だし」
「まあな。俺はひとりで何とか戻ってこれるだろうが、全員と言うと確約は出来ねえ」
「僕も。――だから、この街にいて欲しい。ジョディさんの事もあるし、ケニスさんが万一海に来ないようにしていて欲しいし…それに、カークさんだってきっと苦しんでいるから」
「分かりました。それじゃあ、精一杯お留守番をしていますね」
 にこり、とリラが笑う。
「適材適所ですからね。それでいいでしょう」
「……分かった」
 こうして、陸と海に分かれた6人が、夕闇が来る前にと分かれて急ぎ向かう。
 ひとつは、海。――この事件が起こる元となった元凶が在る場所に。
 ひとつは、陸。――事件に巻き込まれた小さな家族が身を寄せ合っている家へと。

*****

「ジョディさん。…目が覚めましたか」
 傷を治すためにそう言う身体になっているのか、ずっと眠っていたらしいジョディが目を覚ましたのは、2人と別れて、部屋でふて腐れながらも疲れていたケニスが熟睡しているのを確かめた後の事。
 そっと声をかけたみずねの方向へ薄らと目を開いたジョディが、何人もその場にいるのに気付いて慌てて起き上がろうとして、首を振って止められた。
「傷に障ると悪いですからね」
 そう言う聖の言葉にうんうんと頷くリラの横に立っていた一彰が、ゆっくり身体を起こすジョディの腰に枕を2つ3つ当てて楽な姿勢を作り出す。
「あの…皆さんは?」
「カークの事を調べてもらってるのよ。あの子がね、カークは絶対こんな事しないんだ、って…」
「そうですか…」
 ありがとうございます、と微笑んで礼を言うジョディの様子を見る限りでは、カークが自分を刺したのだと気付いていないように見える。
 訊ねても、やっぱり他の目撃談と同じく何も覚えていないのだろうか、と思いながら、それでも聞かなければならないと4人が目配せしつつ、まずみずねがベッド脇に寄り、静かに語り出す。
「…これから、ジョディ様には辛い質問をするかもしれません。カーク様と、あの事件のあった時の事です。…無理に聞き出す事は出来ませんけれど、答えていただければ…と思います。どうなさいますか?」
「………」
 ほんの少し、困ったように笑うジョディ。だが、その目を見れば分かる。
 彼女は、迷っているようだったが、戸惑ってはいなかったのだから。
「あの…ここでの話は、他の方には…」
「絶対に、という約束は出来ません。けれど、出来るだけジョディさんの希望に添うようにしますから」
「私たち、誰かを罪に落とすために動いているわけじゃありませんよ」
 リラが、絶対です、と両手をきゅっと握り締めて真剣な表情で言う。
「……そうですか」
 やがて、ふうっ、と息を吐いたジョディが、側で心配そうに見守っているケニスの母親へ、
「ごめんなさい」
 申し訳無さそうに言ってから、
「お話、します…」
 ゆっくりと呟いた。

 ――異変に気付いたのは、もしかしたら、思い出して来ているのではないか、とジョディが疑い始めてからだった。
 普段は全くの無表情で、少しずつ言葉をやり取りするようになって来ていたものの、時折ひとりきりになっている時だけは、昔から良く知っている顔に戻っている事に気付いていたからだ。
 そして、ジョディがそれに気付いた、とカークが知った時から、カークは時折とても怖い目でジョディの事を見るようになったのだと言う。
 その目は、ジョディが良く知るカークのものとは全く違う、酷く異質なものだった、とジョディは言って小さく苦笑を浮かべた。
「…私、それでも…あのひとの事が大切だったから、半分意地になっていたのかも知れません。思い出の場所を毎日のように一緒に歩いて、元のカークに戻って貰おうって…そんな事ばかり考えていたから、きっと罰が当たったんですね」
 毎日、思い出せないと繰り返すカーク。その彼を連れ出していたある日、――そう、あの日に、とうとうカークの中の何かが爆発した。
「びっくりして悲鳴を上げてしまってから、ああ、しまった…って、そう思ったんです。カークが私の事を、女性の声で『邪魔だ、死んでしまえ』って言ったものだから…」
 でも、とその後すぐにジョディが続ける。
「刃物を振りかざしたのに、あのひとはぶるぶる震えながら、必死で言ってました。『逃げろ』って。だから――私、あのひとの腕に取り付いてしまったんです」
 夢中だったからとは言え、危ないところでした、と、ジョディが呟く。
「お医者様もこう言ってました。あんな目に遭ったのにこれだけの傷で済んだのは奇跡だ、って。――これで、私の話はおしまいです」
 ふぅ…と、誰かが息を吐いた。
「でも、困った事に、この会話を聞いた人は私しかいないんですよね。…後で捜査していた兵士の方に聞きました」
 だから、起き上がれるようになったら嘆願するつもりだとジョディはにこりと笑って言い切った。
「……強いな」
 ぽつりと一彰が言う。
「いいえ、強くなんかありません。…あのひとは、あんな状態でも、私を守ってくれた――そう信じているから、今度は私が守る番なんです。それだけです」
 誰も、その言葉に何も言えなかった。
 まっすぐな彼女の目を見ることしか――。
 そんな風にしんみりと言葉も無く、静かな空気が室内を通り抜けていた、その、直後。

 ―――――――――――――ィィィィィ!!!!!

「なっ、何ですか!?」
 耳をつんざくような声、とはまさにこの事を言うのだろう。
 遠く遠く、海の向こうから聞こえて来たように感じられた今の声は、エルザードの中を突き抜け、そして暫く皆の耳に余韻を残して、ようやく消えて行ったのだった。
「もしかして……海に行った人たちが、何かしたんですか?」
 みずねが、誰かに確認するように訊ねる。が、当然の事だが――その問いに答えられる者は誰もいなかった。

*****

 結局、決定的な目撃者は誰ひとりとして見付からなかった。その時間、その場に居た者でさえも事件を『目にしていない』のだから、どうしようもない。
 まるで、その間は時が止まったようで。

 現在、カークは乱心…心身喪失状態であったのだろうという事で、とある病院の中に入っている。
 そして――唯一、目撃した筈の『被害者』ジョディは、事件の事を語れるまで精神的に回復したものの、その時に何かショックな事があったらしく、被害に会った直前に目撃された店に居た事さえ忘れてしまっていた。
 これもまた、カークに不利に働いた。突然『恋人』から刃物を突き立てられてショックを受けたためにその時の事を忘れてしまったのだ、という話に納得する者が多かったためだ。
 だが、こう言う者もいる。
「ジョディは今も毎日のように面会に現れて、献身的に尽くしている。もしその時の事を恐怖のあまり忘れてしまったとしても、彼に会う事を躊躇わず、彼が犯人だという一片の疑いも無くこうして毎日来れるものだろうか?」――と。
 ケニスも仕事の合間を縫っては訪れているらしい。
 そして、ジョディの怪我が思ったより軽かったと言う事、被害者本人、加害者家族からの訴えもあり、監視付きという条件はありながらも、本人の意思と体調を見て退院出来る事に決まったのは、ほんの数日前だった。

 良かった――と、一概に言えない気持ちはある。結局、『犯人』を挙げる事は叶わなかったのだから。もしかしたらカークがやったのでは、と今も周囲に僅かながらも疑いをもたれているのは確かだ。
 けれど、この一件以来、カークに少しずつだが表情が戻って来たのも事実だった。

「…残念です。本当の事を知っていても、口に出してはいけないなんて」
「仕方ねえよ」
 しゅーん、と肩を落とすリラに、オーマがにっと笑い、そうそう、と聖が合いの手を入れる。
「それに――これも仕方ない事。彼は『本当に』彼女を刺してしまったのだから」
 水留がぽつりと呟いて、目の前のカップの中身をゆっくりと口に運ぶ。
 原因がなんであれ、そして理由がなんであれ、『カーク』が刺してしまったのは事実だった。だから、裁定はある意味で非常に正しい。
 問題は、カークが、自分の意志で行ったわけではないという事にある。
 だが、それを誰が釈明出来る?
 『カーク』の体が行った事は事実であり、それはどうやっても翻せないのだ。

 ただ、ひとつ。
 救いは――あった。

「『彼女』は、確実にジョディを殺すつもりでいたんですよね」
 みずねがそっと呟いて、
「そのようですね。…でも、実際には成せなかった」
 聖がそれに応える。
「――ま。結局は、ヤツも底では忘れてなかったっつう事さ」
 正しく言えば忘れさせられてたんだけどな、とオーマが水を飲むようにカップの中の液体を飲み下して、
「でなきゃあ、あんな刺し方はしねえよ。…顔でも腕でも無く、傷が残ったとしても見えにくい個所を選んで、そのうえあんな無様な刺しようじゃな」
「…無様?」
 そう、ほんの少し不思議そうな感情を込めて聞いたのは、何かを考えていた顔を戻した一彰。
「考えてみろや。漁師で、でっけえ魚をさばく事にも精通していたような男がだ。…狙った『獲物』の仕留める位置を間違えるか?」
「…なるほど」
 医者として見たオーマにも、ジョディの傷の位置は不思議なものとして映ったらしい。
 それは――あからさまなくらい、浅く、切られても問題の起こりにくい個所だったのだから。
 それは当然、この世界の医療技術でも治療が可能なレベルで。
 それを告げられた皆が、ほっとした顔をする。
「でも、良かったです。…これで、あのひとも本当の意味で『帰ってくる』事が出来たんですから」
「ええ。そうですよね。それってやっぱり、ジョディさんやケニスさんが諦めずにいたからですね」
 実に嬉しそうな表情を浮かべたリラが、手を合わせてにっこり笑った。

 全てが望む方向に行かなかった事は残念だったが、少なくとも、一番大切なものは失わずに済んだ。
 そして、良い方向へ向かっていると…皆、信じていた。


 そして、更に数日後。
 カークが家族に迎えられながら退院したその日。
 ――海辺に、いくつもの木片が打ち上げられていた。
 初め、それを見たものは宝が打ち上げられていると思ったそうだ。
 何故なら、そこには虹色に輝く何枚もの巨大な鱗でびっしりと覆われていたからだった――最も、その鱗は日の光にあっさりと溶けてしまった、と言うオチまで付いていたため、ただのホラ吹き話、笑い話としてしかエルザードには伝わらなかった。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0636/水留        /男性/28歳/雨使占                 】
【0925/みずね       /女性/24歳/風来の巫女               】
【1711/高遠 聖      /男性/17歳/神父                  】
【1879/リラ・サファト   /女性/16歳/家事?                 】
【1953/オーマ・シュヴァルツ/男性/39歳/医者兼ヴァンサー(ガンナー)腹黒副業有り】
【2657/如月 一彰     /男性/26歳/古書店店員               】

NPC
カーク・クレイド
ケニス

ジョディ

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■         ライター通信          ■
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長らくお待たせいたしました。「閉じた記憶」をお届けします。
実はこのお話は、水留PLとみずねPLのお2人はご存知と思いますが、大分前に納品しました「波に消える」の続編にあたります。前回は全ての決着を付けずに、シリーズものとして成そうかと考えていたのですが、果たせぬまま時間ばかり過ぎてしまいました。
このままでは記憶喪失のカークも周囲も可哀想なままでしたので、前後編と言う形で今回書かせていただきました。
一応、前編を知らなくても、この回だけでも読みきりのようにしていますので、新規に参加してくださった方にも楽しんでいただけたら、と思います。

ソーン世界でこうして冒険記を復活できた事、嬉しく思います。
また今後冒険記に限らず、登録いたしましたペットショップに関連するノベルも出して行こうと思いますので、またその時にお会いできれば幸いです。

それでは、参加ありがとうございました。
間垣久実