<東京怪談ノベル(シングル)>


足りないもの



 空に夕闇が迫る頃、エヴァーリーンは漸く目を覚ます。
 カーテンから漏れる光は橙色で、空は茜色に染まっていた。夏の強い日差しは和らいでいたが、カーテンを開けると飛び込んでくる夕焼けの眩しさに、エヴァーリーンは目を細める。
 ふわぁぁぁ、と大欠伸をし前髪をくしゃと掻き上げるとエヴァーリーンは怠そうにベッドから降りた。窓を開けて風を入れると、寝汗をかいた肌に心地よい。
 そしていつものように湯浴みをし、軽く鍛錬を行うと黒山羊亭へと向かった。
 街道は朝とはまた違った顔を見せ、多数の赤ら顔の人物が楽しげに笑っている。もう酒が回り愉快になっているのだろう。
 エヴァーリーンはその間をするりとすり抜け、地下へと続く階段をリズミカルに降りた。
 もう腐れ縁の人物は来ているかもしれない、と思いながら。

 扉を開けるとそこからまた別の世界が拡がる。
 賑やかな声と音楽、そして煙たい煙草の煙やアルコールの匂い。
 しかしそれは決して不快な訳ではない。その雰囲気が心地よいとすらエヴァーリーンには感じられる。それは慣れなのか、それともこの雰囲気に愛着があるのか。エヴァーリーンにもよく分からなかった。
 いつもの席はまるで取り置きでもされていたかのように二つ空いていた。しかしそこに腐れ縁の彼女は居ない。
「珍しい事もあるものね」
 エヴァーリーンとは活動時間が大幅にずれている腐れ縁は、大抵エヴァーリーンよりも早くやってきてそこに座っているのだ。
 まあいいわ、とエヴァーリーンはその席に座り、いつものを、と頼む。バーテンは小さく頷き厨房へ何事か告げた。そしてエヴァーリーンの為にシェイカーを振るったのだった。

 いつまで経ってもやってこない腐れ縁の人物を心の中で罵りつつ、エヴァーリーンは目の前に置かれたグラスを口に運ぶ。そして一口飲んだ所で思い出した。そういえば一昨日、明後日の夜は仕事が入ってると腐れ縁が漏らしていた事を。
 それならばいくらエヴァーリーンが待っていた所で来る訳がない。
 脱力感が一気にエヴァーリーンを襲った。
 軽口を叩いて意地を張り合って。
 表情には余り出さないものの、それが毎日楽しくて仕方がないというのにからかうのも張り合うのも、相手が居なければどうしようもない。
 ただもくもくとグラスを口に運び、料理を食べ続けるしかなかった。
 カラン、とグラスの中で鳴る氷も物寂しげな音を奏でている気がする。
 溜息は飲み込んでエヴァーリーンはグラスを煽った。
 そんなエヴァーリーンの背後からかけられる声がある。
「あら、今日は随分静かじゃない」
 黒山羊亭の踊り子であるエスメラルダがにんまりと笑みを浮かべてやってきた。ちらり、とエヴァーリーンの隣の席に視線を動かしながらエスメラルダが尋ねる。
「相方さんは?」
「今日は仕事みたい」
 さらりと告げるエヴァーリーンにエスメラルダは肩をすくめてみせた。
「それは残念ね。……それじゃ隣いいかしら? 踊り疲れたから休憩させて」
「どうぞ」
 ありがとう、と告げてエスメラルダはエヴァーリーンの隣に腰掛けた。
「今日も暑かったわね」
「…さっき起きたばかりだから昼間の天気は分からないけれど」
「……他人の事言えないけど、相変わらず世間とずれた生活送ってるわねぇ」
 苦笑気味に呟かれる言葉にエヴァーリーンも小さく笑う。
「それが私だから」
「いいんじゃない? 朝から働いた人も、今から働く人も皆集まれる店でありたいし、来て貰えて嬉しいわよ」
 ほらたんと飲みなさい、とエスメラルダは空になったエヴァーリーンのグラスを指差しバーテンに指示する。
「奢り?」
 エヴァーリーンが尋ねると、エスメラルダは、他の人には内緒ね、と頷く。悪戯を共有したように二人は顔を見合わせ微笑んだ。

「ねぇ、いつもいる人が居ないとやっぱり寂しい?」
 エスメラルダは意地の悪い笑みを浮かべそんなことを尋ねる。エスメラルダはいつものようにエヴァーリーンが反論をしてくるのではないかと思っていたのだが、そのようなことはなく、エヴァーリーンはカラカラと氷をグラスの中で回しながら告げた。
「寂しいとか、そういうのじゃないけど、なんか、足りない」
 張り合いがない。
 この店の雰囲気はいつもと変わらないはずなのに、自分の周りだけいつもと空気が違うような気がするのだ。
 心地よさも同じ筈なのに、やはり何かが欠けている。そんな気がし、エヴァーリーンは思わずその『何か』を探してしまいそうになった。
 あっさりとエスメラルダに示されたその気持ちを認め、エヴァーリーンは何処か遠くを見つめて呟く。そう告げるのを聞きエスメラルダは言った。
「ふぅん、やっぱりそういうものなのね」
「あなたがこの黒山羊亭から居なくなったら、ここに来ている客達も同じ事を思うでしょうね。何かが足りないって」
「あら、嬉しい事言ってくれるじゃない。本当にそうだといいけど」
 ウィンクをしながらエスメラルダは美味しそうに酒を飲み干す。
「たくさん人の入り乱れてる此処だけど、常連さんが居ないと直ぐ分かるわ。店の雰囲気がやっぱり何処か違うから」
「……そういうもの? 観察されてるのかしら」
「えぇ、じっくりと。二人は目立つから余計にね。いっつもじゃれてて楽しそうだと思ってたのよね」
「じゃれっ……あぁ、そう見えるのかもしれないわね」
「見えるのかも、じゃなくて、見・え・る・の! あーぁ。今日はあたしもエヴァーリーンのあの意地悪な笑顔が見れなくて残念」
 はぁぁぁ、と溜息を吐いたエスメラルダにニィとエヴァーリーンは笑いかける。
「浮かべる事は出来るけど?」
 冗談でしょ、とエスメラルダが目の前で手をヒラヒラと振った。
「それってあたしがその笑顔の標的ってことでしょ? エヴァーリーンとの戯れは命がけになりそうだから遠慮しておくわ。それに彼女だからあなたは楽しいんでしょ。あたしと嫌みの応酬したって詰まらない事請け合い」
 もう一杯奢ってあげるから大人しくしてて、とエスメラルダがエヴァーリーンの肩をぽんと叩く。
「まぁ、世間話になら付き合ってあげるわよ」
 ありがとう、とエヴァーリーンは新しく置かれたグラスを手に取り、エスメラルダとグラスを合わせる。琥珀色の液体はユラユラと揺れ、氷がその中で踊り微かな音を立てた。先ほどよりもそれは明るい音を出していたが、やはり何処か物足りない。
「こういう日もたまにあるからいいのよね」
 多分、と小さく呟き、エヴァーリーンはほんの少し足りない心を埋めるように酒を飲んだ。
 明日になればまた同じ風景が此処にあることを思いながら。