<東京怪談ノベル(シングル)>
秋深し
ざあ、と風が鳴った。
ほんの少し前までは、まだ温かみもあったそれは、今は驚くほど冷たく頬を撫で去って行く。
かさかさと足元で囁く枯葉の音は、これから訪れる冬を待ちわびる声にも聞こえ、青年、如月一彰はごくごく僅かに笑みを浮かべると、そろそろ葉が落ちそうな木々から覗き見える空を眺めた。
――エルザードからそう遠くない森の中で、珍しい事に、一彰が散策している。
普段は店にいるか自室に篭っているかの彼だが、今日は店も休みであり、自室に置いてある本もあらかた読んでしまってもまだ時間が余っている。
その、夕刻までの時間を持て余して出てきたものらしい。
「……」
辺りをゆっくりと見回す一彰。
森の中一面に広がる秋の風景の中に、何かを見出そうとするように。
*****
かさ、かさ、踏みしめる度に何かを問い掛けるような音がする。
いや――それはきっと、一彰の心が彼自身へ問い掛けている声なのだろう。そんな風に感じさせてしまうような雰囲気が、この森にはある。
この季節だからこそなのかもしれないが。
一彰は、時折視線を上に上げながら、ひと気の無いこの森の中をゆっくりと歩き続けていた。散策にしても、かなり広い森の中。あまり奥に行くと帰りが遅くなってしまう事もあるのだが、その辺りはあまり考えていないように、マイペースでさくさくと進んで行く。
ひゅうと首筋に吹き込んだ風に首を竦め、服のポケットに手を入れて。
「……秋、か」
ぽつりと呟くその目は、何か深い感慨を含んでいた。
その、年経た者のような瞳の奥は、一体何を見て来たのだろうか。
――見知らぬ者に、彼の過去を知りたいと思わせる程、その瞳は深く、悲しい色を湛えている。
ざ、ざざ、ざ――
不意に、少し強めの風が斜め前方から吹き付けてきた。足元の葉がざあっと舞い上がり、目に埃が入ったか目を閉じる。
無意識に手で顔を覆った一彰が、風が収まってからゆっくりと目を開け、風が吹いてきた方向を見る――そして、息を呑んだ。
そこにあったのは、鮮やかな、とても鮮やかな――赤。
枯葉の敷き詰められた森の中にあって、唯一と言って良い色鮮やかな赤い絨毯をはらはらと自らの枝から振り落としながら、誇らしげにその場に立つのは紅葉。
「……そうか。この世界にも、あるんだな……」
嘗て自分がいた世界でも、季節が巡れば必ず目にしていた木を見詰めながら、一彰がふっと目を細め、長い間紅葉の木に見入っていた。
懐かしさと悲しさがない混ぜになっているようなその瞳の奥は、その向こうに何を見ていたのだろうか。
……その木に、赤に何かを重ねているのか、それは分からなかったけれど。
一彰がそこから離れ、自室へと戻って来たのは、既に日が暮れた後の事だった。
*****
――夜。
古書店から、時折夜になると流れて来る調べが路地にゆっくりと響き渡り、そして、がたがたと周辺で物音が聞こえた。
それは、よろい戸を開く音。
微かな音を、少しでも耳に届くように聞きたくて、窓辺に椅子を移す者もいる。
音の主は知っているのだろうか。このささやかな演奏会を楽しみにしている人々の事を。そして、日に日に情感を増す自らの音色の事を。
今夜、その音はいつになく耳をそばだてる人々の心を揺さぶった。
普段は物静かな……言うなれば表現力に乏しい表情をし、言葉も積極的に口にしない一彰が、これほどまでに情熱的な曲を奏でるとは、彼を知る者のほとんどはその事を知らずにいる。
それは恐らく、一彰が長年自らの感情を抑えて過ごしていたからなのだろう。今では自制することなく、いや逆に無理やり出そうとしても感情の出し方を忘れてしまったような彼の唯一の感情の捌け口は、今人々の耳へ、心へと流れ込んでいる音――バイオリンの演奏に他ならなかった。
ひとしきり音が流れた後、再びしんとした夜を取り戻した路地からは、しかし、人々が移動する音が聞こえて来ない。よろい戸も開けたまま、今夜もう一度演奏されないかと願っている。
だが――。
アンコールの声は、届かなかったらしい。
いつまで待っても再演奏は無く、やがて、音楽が始まった時とは違い、ばらばらに音を立てながらひとり、またひとりと寝に戻って行った。
また別の夜の演奏を楽しみにしながら。
――顔も知らぬ演奏者に、おやすみの言葉と共に。
-END-
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