<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
『あなたには私の色を 私はあなたのぬくもりをもらうから』
畳の上にはビデオレンタルショップの名前が書かれた鞄と共に何本ものビデオカセットが散らばっていた。
ただ、片づけが苦手、というのとは少し違うように見えた。
そう想う訳は、そのビデオカセットの散らばり方に何かしらの感情が見えるからだ。
有名な建築家などはその家の造り、たとえば塀の高さや種類などからその家人の性格を見抜くという。
では畳の上に散らばる数々のビデオカセット、その光景からはどのような心理状態が推し量れるのだろうか?
もう少し描写を付け加えよう。その散らばるビデオカセットの中心にはひとりの女性が居た。
その彼女の黒髪に縁取られた美貌にはちょっと、色んな感情が混ざったような表情が浮かんでいる。
その彼女の白い小さな手には白い紙(おそらくはレシートであろう)が握られている。
虚脱している。
がっかりとしている。
とても大きな心のダメージを彼女は受けている。
それはまるで行列の出来る美味しいケーキを売っているお店の前に何時間もかけて並んで、だけどいざ自分の番、さあ、買うぞ! と拳を握ったら、店員に売り切れになりました、と言われた瞬間のような………
艶やかな黒の前髪の奥にある青の瞳が見たのは散らばるビデオカセットの中のひとつ。
それに、手を伸ばす。
震える指先がそのビデオカセットの中の一つに触れようとして、
「うぅ」
だけどため息とも苦鳴ともつかぬ声を零した薄く形のいい唇をきゅっと引き結ぶのと同時にその震える指先も引っ込められた。
そのままぱたり、と彼女はその場に横向きに倒れる。
流れ落ちるようにして顔にかかる髪の隙間から、ビデオを見、それからずっと握り締めたままであったレシートを今再び目の前に持ってきて、それをどこか願うような目で見て、またため息を吐く。
「どうして私はこんな………。時間は、戻らないというのに」
薄く形の良い唇が気だるげに動いて紡いだのは泣き言だ。
しかし彼女、清芳をよく知る人物が今そこに居たのなら間違いなく目を見開き、耳を疑っただろう。
何故なら彼女はそういう事を口にするような女性ではないからだ。
そして、では、それもまた彼女の性格なのであろうか?
その散らばるビデオカセット、今彼女が見つめるそれこそが彼女を苦しませる物である事は間違いないはずであろうに、まるで残さず給食を食べましょう! そうスローガンが教室のスピーカーから流れる給食週間の真っ只中で給食に嫌いな物が出て、でも責任感の強い学級委員長がそのクリームシチューの中のアサリにフォークとスプーンが合体したデザインの三椏スプーンを嫌がる心と理性とを戦わせながら伸ばそうとするように、震える手をビデオカセットに伸ばして、挙動不審で、泣き出しそうな涙目でそれを見つめ、きゅっと下唇をかみ締めて、ついにビデオカセットを取って、
しかしそこでそれがまるで忌むべき物かのようにただ触ったけど、その後にどう処理していいかわからないとでもいうかのように、ただ手に取っただけで、
いや、やはりその後にまた彼女の中で心と理性とが葛藤しているようだ。黒髪に縁取られた彼女の何ともいえない表情を見ればそれがわかる。
それは彼女の強さが故だ。
理性と心、それは違う。
そして人とは理性よりも心を尊んでしまうものだ。だからこそ人は間違いを時に犯す。
つまり理性の強さ、それが人を人として存在させるものなのかもしれない。
それはひどく苦しく、孤独な戦い。
「うぅぅぅ」
引き結んだ唇から零れた苦鳴はきっと心の誘惑と戦う理性の声。
指が、ビデオカセットから離れようとする。
彼女の白い肌をつぅーっと伝ったのは煌く汗。
それを心の涙と呼んで、不都合は無いだろう。
激しく雨が降っている。
まるでそれは雨の牢獄に閉じ込められているようだ。
清芳には逃げる場所など無いのかもしれない。
そもそもが彼女が大量にビデオを借りてきたのは、今日から続く長雨と足の捻挫のせいでしばらくは身体が動かせないから、その空いた時間を潰すための泡沫の物。
その泡沫の暇つぶしのビデオがどうしてこんなにも清芳を苦しめるのかは、それが何なのであるのかは今もってこの状況の最大の謎なのだが、しかしその清芳とビデオカセットの戦いは、いや、心と理性の戦いは共に効果を一つずつとって引き分け状態。
だがただそれだけでも清芳の精神が多大な磨耗をしているのは彼女の表情から見て取れた。
しかし清芳をよく知る人は彼女の事をこう評価する。彼女は、真面目だと。日々の修行をサボらずに真面目に取り組んでいた事は有名である。
それは理性が強いという事だ。
だからこそこの戦いが生じている。
そして清芳はきゅっと引き結んでいた唇を動かし、「きぃえーい」
気合一閃、左手を畳につき、身体を起こして、流れるようにしなやかな動きで、ビデオデッキにカセットを入れた。
それが有効。効果と有効。心はその理性に対して効果一つだけ。
清芳の目はまるで強敵集団のボスを睨むように、目で射殺さんとするかのように、デッキを睨み、右手の人差し指で再生ボタンを押す。
清芳の顔に笑みが浮かぶ。
勝った。理性はさらに心に対して技ありを取った。
清芳はそう確信した。
しかしそれは慢心であった。
これが人やモンスターを相手にした戦いであるのであれば、おそらくはここからが真の戦い、それを戦慄と共に感じて、清芳はその身体を緊張させて、次なる敵の攻撃にいつでも反応できるように身構えるのであろう。
だがこれはそういった戦いではなく、そして間違いなくこれまで彼女が経験した戦いの中でも過酷な戦いで、その戦いの中に見た自分の勝機に、清芳は油断してしまったのだ。
ビデオのカウンターが動き出し、長ったらしい他の映画の宣伝が流れて、それからこの映画の著作権についての忠告が流れて、
映像が、映し出される。
「ひぃ」
喉の奥で引っくり返ったような声を出して、彼女は慌ててビデオデッキの停止ボタンを押した。それはもう、思春期の少年が部屋にノック無しで母親が入って来た時かのように。
そうして清芳は脱力したように女の子座りしたまま前のめりに倒れた。耳まで赤くして。
理性の一本負け。
+++
掘り炬燵に入りながらみかんを食べていた馨は何やら清芳の部屋から聞こえてくる変な声と、それから畳の上でじたばたと暴れているような物音に訝しげに眉根を寄せて首を傾げた。
口の中に広がったみかんの果汁に美味しそうに微笑んでから肩を竦める。
座布団の傍らに置かれた布巾で指先をぬぐい、炬燵の上の本のページをめくる。
そのページに書かれた文章に目を落としていた馨はふと、視線を止め、それからくすりと笑う。
「おや、静かになりましたね」
耳を澄まさずとも、静謐な夜の夜気が揺らぐ音はしとしとと降る雨の音ばかりで、それ以外の物は何も、無いから、清芳の部屋から聞こえてくる物音や声が途切れたのは容易に聞き取ることが出来た。
それからまた、くすりと笑う。
「お忙しい人だ」
そう呟いたのは、清芳の部屋の障子が開き、彼女がこちらへと歩いてくる気配があるから。
さてさて、今夜は一体何を言い出し、何をやって、あの愛らしい…本人は生真面目そのものだからこそ、それが弄りたくなるほどにかわいらしいという事にまるで気づいていない清芳は自分を温かな気持ちにさせてくれるのだろうか?
ひょっとしたら幼い子どもを持つ親とは、このような日々の子どもへの発見に愛情を深めているのかもしれない。
そろそろと歩く彼女。
その足音にはどこか迷いがある。
足音が部屋の障子の前で止まる。
数秒間をおいて、
「こほん」
どこかわざとらしい咳払い。
馨はわずかに目を見開いて、その後に声を押し殺して、くっくっくと笑う。
何だろうか? 借りてきたホラー物のビデオが予想外に怖くって、それで自分を誘いにでも来たのだろうか?
本物のモンスターに果敢に挑んでいく彼女が作り物のホラー話に恐れをなすのは随分とかわいらしく想えた。
そしてそんな彼女を愛おしく想うからこそ意地悪をしたい、もとい、不器用な愛情表現をしたいと想うのは、こういう反応のかわいい彼女を持った男の性。
本を読んでいる内についつい眠ってしまいました、そんなシチュエーションを演じて、秘儀狸寝入り。
障子の向こうの彼女はまたわざとらしく、こほん。
どうやらこちらから声を掛けたがってもらっているようだが、お生憎様。がんばれ、清芳さん。
口の中でそう呟いて、炬燵の上に突っ伏した格好で馨はくすりと笑う。
「あー、えっと、馨さん? 居ないのか? 居ないのなら居ないで、居ないと言ってもらいたいのだが………えっと、開けるぞ?」
そろそろと障子が開く。
ひょこ、と、覗く清芳の顔。
顔にかかる髪を耳の後ろに流しながら何か期待したような表情が浮かんでいた清芳のだがしかし、寝ている(狸寝入りしている)馨の後ろ姿を見て、しょんぼりしたような顔をする。
馨といえばその清芳の表情は彼の前にあるテレビの画面に映っていたりするので、その表情の変わりようが見て取れて、笑いを堪えるので必死。
清芳は落ち着き無く髪を弄りながら困り果てる。
部屋の中に入って、掘り炬燵に突っ伏して眠っている馨の背中に手を伸ばして、だけどどうやら気持ち良さげに眠っている馨を起こしたいのだけど、でもそれは躊躇われて、その間で心が揺れ動いて、
「あの、馨さん、眠っているのか? その困ったな。起きてもらえないだろうか? 頼みがあるんだ。いや、その、どうしても眠りたいというのならいいんだ。でもその、布団で眠った方が良い、ぞ。いや、そのそれで布団に移動するまでの間に目が冴えてしまったなら、そしたら、その………馨さん。 私と一緒にビデオを、見てもらえないだろうか? なあ、馨さん」
やたらと意味も無く髪や顔を触りながらそう言う清芳の態度は本当に馨が寝ていると想っているようで、普段なら呼吸音とか気配でわかるだろうにそれほどまで動揺している彼女がかわいらしく、
「ここは清芳さんに譲ってあげようかな?」
そう口の中で呟くと、
「くっくっくっくっく」
と、それまで堪えていた笑いを零す。
案の定、清芳の顔には鳩が豆鉄砲をくらったような呆然としたような表情が浮かんだ後に、かわいらしく唇の先を尖らせた怒った表情が浮かんだ。
それを今度は正面から見て、馨は笑う。
「おはようございます、清芳さん」
にこりと笑いながら馨。
「今は夜だからこんばんは、だ、馨さん」
強張った笑みを顔に貼り付けながら清芳。
馨は肩を竦めながら、ふぅーっとため息を吐く。
「ちゃんと、寝てましたよ?」
笑った顔を小さく傾げさせて、馨。
ずんずんずん、とそんな馨の前に歩いていき、その笑顔を真正面から覗き込む。つーんと拗ねた様な顔で。
「いや、起きていただろう、馨さんは」
「そんな事は、ありませんよ」
「いや、あるな。最初から起きていたんだ」
「最初は寝ていました」
「いや、起きてた!」
「寝てました」
互いに引かない。
ますます清芳は唇を尖らせて、馨は涼しげに微笑む。
馨はひょいっ、と肩を竦めて、炬燵の上に乗せられた篭の中のみかんを手に取った。
「食べませんか、清芳さん。先ほどから何やらひとりで騒いでいて喉が渇いたんじゃないですか?」
「ん? ああ、すまない。馨さん」
馨からみかんを受け取って、それでちょこんと馨の隣に座って、掘り炬燵に足を入れて、みかんの皮を剥き出し、それから………
「あっ」
と、気づく。
じろりと横目でやっぱり起きていたんじゃないか。じゃないと私が先ほどまで騒いでいたのだって知るはずが無い、と睨んだ。
隣で頬杖ついて馨はそんな清芳にん? と微笑む。
それから清芳はだけど、顔を赤くした。それは先ほどまで自分が騒いでいたのが丸聞こえだったとわかったから。
それにようやく気づいて、清芳は恥ずかしげにみかんを口に放り込むけど、その果汁で噎せ返った。
馨はくすくすと笑いながら清芳の背中をさする。
「大丈夫ですか、清芳さん?」
「………大丈夫」
けほけほと咳き込みながら頷く清芳。
馨は肩を小さく竦め、そして読んでいた本にしおりを挟む。
「馨さん?」
「ん? ビデオ、一緒に見てもらいたいのでしょう? 居間のテレビが一番大きいですから、そこで一緒に見ましょうか?」
そう提案する馨に清芳はうんうん、と何度も頷く。
しかしその楽しそうな、嬉しそうな、ほっとしたような表情が一変したのは、
「で、どのようなビデオなんです、それ?」
と、馨に訊かれたからだ。
青い瞳が、大きく見開いて、それから青碧がかった黒の瞳から逃げる。
「清芳さん?」
「…………ぁ」
「はい?」
「だから、…………ぁ」
「え?」
楽しそうに顔を傾げる馨。
どうやら怖い夢を見たから一緒に寝ても良い? そう布団に潜り込みに来た子どものようにホラービデオを一緒に見てくれ、と言いに来たわけではないらしい。
だったら………
何をこんなにも彼女は恥ずかしがり、何に苦手意識を持っているのだろう?
その癖………
「生真面目な女性(ひと)ですねー、本当に清芳さんは」
何か殊勝な物でも見るような目で清芳を見る馨。
「見るのが嫌なら、見ないで返してしまえばいいのに」
「それは、ビデオに失礼ではないか。一度借りたらやはりちゃんと見ないと気がすまない」
「はいはいはいはい。それで、どんなタイトルのビデオを間違えて借りてしまったんです? それとも確信犯ですか? 見れると想って、でも見えなくって、って」
「それは、その…………」
「ん?」
「だから………」
顔を傾げる馨。
顔をそらす清芳。
「ほら、どのみち一緒に見るのならタイトルはわかってしまう訳ですし、だったら今ここで言ってしまった方が良いと想いますよ?」
「うぅ…」
「そんなに恥ずかしいのなら、やっぱりひとりで見ます?」
「うわ、私は………何だか意地悪だぞ、馨さん」
「そうですか? 私は楽しんでいるだけです、清芳さん」
「馨さん」
真剣に自分を睨む清芳に馨はくすくすと笑う。
清芳は頬を膨らませる。
そんな清芳に余裕のある大人の男の笑みを浮かべる馨。
「ほら、清芳さん、がんばって」
「うぅ」
清芳は苦鳴を零した口で、ぼそぼそと真っ赤な顔で、言おうとするけど、でも恥ずかしい。
ぼぉ、っと耳まで赤くする。
馨はそんな顔を真っ赤にする清芳の横髪を三つ編みにしながらくすくすと笑った。
「しょうがありませんね。ではビデオのタイトルは再生ボタンを押してからのお楽しみという事で」
馨は掘り炬燵から抜け出して、それから座ったままの清芳に手を差し出す。
清芳はその手を握って立ち上がった。
馨はまだ包帯が巻かれたままの清芳の足を見る。
「まだ痛みますか?」
「ん。いや、もうほとんど完治した。身体が鈍るのが嫌だからもうそろそろと動きたいのだが、でもそれは馨さんが許してはくれぬだろう?」
「ええ、却下です」
清芳は大仰に肩を竦めながらため息を吐く。
だから今日の病院帰りにレンタルショップでビデオを大量に借りてきたのだが、まさかこんな目に遭うなんて。
「とんだ、災難だ」
「はい?」
「いや、何でもないよ。ところで馨さん」
「はい?」
「あの折り鶴。あれは一昨日の千羽鶴の、残り?」
清芳が指差したのは箪笥の上に飾ってある橙色の折り鶴。
「ええ。あれは少しお気に召したのであそこに飾っておいたんです」
馨がにこりと微笑む。
「あの橙色の折り鶴が、何か?」
そう馨が問うと、清芳は「へ?」、ととてもびっくりとしたような顔をして、その後に慌てて両手を振った。
「では、居間に移動しましょう」
馨はにこりと微笑み、どこか清芳は後ろ髪引かれるような想いで馨の部屋を後にした。最後まで箪笥の上の橙色の折り鶴を気にしながら。
+++
それを確認する事は清芳にとってその間違えて借りてきたビデオをひとりで見るよりも遥かに難しい事であった。
清芳が足を捻挫する切欠を作ったその橙色の紙飛行機は、解かれる事無く部屋の押入れの奥に隠されている。
その押入れを見て、彼女は大きくため息を吐く。
生まれてしまった疑念は無視は出来ないけど、でも確かに自分が回収したあの紙飛行機こそがあれのはずだ。
そうだ、うん。
そうに違いない。
自分はミスはしてはいないはずだ。
回収した橙色の紙飛行機の数だって、合っているし。
うん。
「そうだ。そうだ。あれはきっと馨さんの方の千代紙なのだろう」
清芳は自分にそう言い聞かせる。
そして散らばったビデオカセット5本を重ねて手に持って、いざ、居間へ。
+++
居間は既に温められていた。
畳の部屋で、真ん中には掘り炬燵。
炬燵の上にはお酒におつまみ、みかん、お菓子。
座布団は二つ並べて置かれている。当然のようにお猪口も二つ並べて。
部屋には馨は居ない。
どこへ行ったのかな? 清芳はビデオの束を手に持ったまま部屋の出入り口に立っていたが、しかしすぐに馨が戻ってきた。彼が手にしていたのは寝室の行灯だ。
「それを取りに?」
「ええ。こちらの方がムードがあるでしょう?」
ぱちりとウインクする。
うぅぅ、と渋面を浮かべる清芳。そういう馨の演出はきっとこのビデオの内容には相応しいのだろうけど、でも彼女は、
「どうしました?」
「いや、別に。それよりも馨さん」
「はい?」
「このビデオ、これらを一緒に見てもらいたいんだが…」
「はあ? で、一体清芳さんは何を借りてきたんですか?」
さらり、と前髪を揺らして小首を傾げる。
そしてそのビデオカセットの背に貼られたラベルを見て、馨はぷっと吹き出した。
声を押し殺してくっくっくっくと笑う。
「一体何を借りてきたのかと思えば、これはまたベタな恋愛映画を借りてきたものですねー、清芳さん。確かにこれは男女そろって見た方が良いですものね」
「はわぁ。わ、私は別にそういうつもりで借りてきたり、一緒に見ようと誘ったわけではなく、ほら、何だ、借りたら見なくっちゃ失礼だし、でもひとりで見るのは拷問だから、それで」
必死に弁解する清芳に馨は「はいはいはいはい」、と笑って宥める。
清芳は違うのに、と不満顔。でも別段とそれを嫌っている訳でもなさそう。
要するにこういうやり取りが楽しかったり、好きだったりするのはお互い様という事。
馨は行灯を掘り炬燵の傍らに置いて、清芳に手を差し出した。
「貸してください。私がビデオに入れて、再生ボタンを押しますから。先ほどのじたばたとしていたのは、それのせい、という事でしょう?」
すっかりと見抜かれている。恥ずかしい。
うぅー、と清芳は唇を引き結んで、ビデオカセットの塔を馨の手の平に乗せた。
そして彼女はちょこんと座布団の上に座って、炬燵布団を上にあげて、それに顔を埋める。
ビデオがデッキに入れられて、再生ボタンが押されて、再生が始まって、それでビオの早回しの音。清芳はそれすらも見るのだが、やはり普通はこうやって飛ばすらしい。
居間の明かりが消されて、行灯の仄かな灯りが部屋を照らす。
静謐な夜を照らすその行灯の灯りは、画面から零れる灯りと重なって、部屋に満るはずの闇を陵辱する。
上げた炬燵布団に顔を埋める清芳の隣に馨がやってくる気配。隣に座る。埋めたまま顔の角度を変える。
視界に映る馨の横顔。
リモコンをデッキに向けて、指が動く。
映画が始まる音楽。
しかもこのBGMはご大層にも清芳が一本負けした恋愛映画。
始まると同時に濃厚なラブシーンが流れる恋愛映画だ。まさにその映像が清芳から一本を取った理由。
「ふむ。これは確か開始と同時に濃厚なラブシーンで有名となった映画でしたね」
馨がお猪口でお酒を飲みながら言う。とても、楽しそうに。
清芳が耳を両手で覆ったのはテレビのスピーカーから甘い言葉が流れ始めたから。
「うぅー。お、終わったか、馨さん?」
顔を炬燵布団に埋めながら、耳を両手で覆いながら言う。
隣でくすりと笑う気配。その振動が清芳の身体に伝わってくる。
「わ、笑うな、馨さん」
「笑ってませんよ」
炬燵布団に埋まった清芳の顔に不服そうな表情。
「ほらほら、清芳さん。それにしてもそんな風に炬燵布団をあげていたら熱が逃げてしまいますよ」
「いいんだ。私は熱いから」
「私は寒いですよ。だからほら、はい。顔を上げて。それじゃ、技あり取られていますよ」
「ひゃぁ。あ、馨さん。ダメ」
「はいはい、清芳さん逃げるのは駄目ですよ」
そう言うが早いか、優しく伸びた馨の左手が清芳の右頬に触れて、そっと顔をあげさせる。まるでキスをする時のように。
いや、頬に触れて顔を上げさせるのはあの日以来馨にだけ習慣となったキスの仕草。だからだろうか?
顔はもの凄く熱く、きっと耳まで赤くなって、心臓は拍子の早いワルツを踊っているのに、その甘美な誘惑に清芳の身体は恥ずかしがる心とは相対してあげられる。
そのまま清芳の顔は抵抗する事無く馨の胸に抱かれる。
馨の右手は清芳の左の手首に絡みつき、それを下へ。右の手も。
それから左手は清芳の腹部を抱くようにしてまわされて、馨は清芳の後ろに移動して、身体を密着させる。右手は炬燵の上に置かれていたリモコンに伸びて、巻き戻し。
「馨さん」
戸惑いの声を漏らす清芳に、馨は彼女の左耳に甘く吐息を噴きかけながら、囁く。
「ダメですよ、馨さん。ほら、勇気を出して。最初は、恥ずかしいかもしれませんが、すぐに慣れますから。気持ちよくなりますよ。だから、ほらね。勇気を出して。私も、清芳さんが勇気を出して私が言う通りにしてくれたら、嬉しいから。一緒に、がんばりましょう、清芳さん」
左の耳に囁かれる誘惑に、清芳は恐る恐る瞼を開く。
映画が始まる。
森の中。そこで交わされる逢瀬。
エルフと人間の。
二人はとても言葉では表現できないような表情を浮かべて抱き合い、それから口付けをする。
一回、二回、三回。幾度かのお互いの存在を確かめ合うようなキスの後、今度はお互いの愛を確かめるような、大人のキス。
もちろん、その大人のキスは生真面目で初心な清芳の許容量を超えている。
もう、ビデオの停止ボタンを押してしまいたいが、清芳の身体は馨の腕に抱きしめられているから身動きは出来ない。
瞼を閉じてしまいたいけど、
「ダメですよ、清芳さん。瞼を閉じたら。ほら、見てください」
と、左耳に囁かれて、何故だかそれに逆らえない。
でも悶える心は足で表現する。じたばたと足を動かして、そしたら掘り炬燵が揺れる。
「こーら、清芳さん」
濃厚なラブシーンは終わって、日常の光景が流れ出せば、清芳だって普通に見られるのだ。
「だって、恥ずかしいから」
幼い子をたしなめるような馨の声にも、でも清芳は強く出られない。
馨がくすりと笑う。
その振動が、後ろから抱きしめられている事で身体が密着しているから、だからそれが直接伝わってくる。
その心地よい振動に心は軽やかなワルツを踊るのだ。
清芳は不思議に想う。
居間の自分たちの格好。添い寝。おやすみとおはようの額への口付けに、唇への口付け。
それはこの恋愛映画にも使われるような一コマの風景なのに、映像で見るのはこんなにも気恥ずかしくってまるで拷問のようなのに、でもそれは、馨るとするのは嫌じゃなくって…。
寧ろ、触れ合う唇が離れた瞬間は、心が痛い。
また映像のキス。
固まる清芳。
「うわぁ、やっぱり私には無理だ、馨さん」
顔をテレビから背けて逃げようとする清芳だが、優しく身体に絡みつく馨の体温からは逃げられない。
馨はくすりと笑い、
「ほら、恥ずかしくは無いでよ」
と、吐息を吹きかけ囁いて、キス。
唇を重ね合わせながら清芳の青の瞳は恥ずかしそうにさ迷う。
唇を離す。清芳はその時になってはじめて呼吸が止まっていた事に気づいたかのように少し大げさに呼吸をして、それからくすりと笑った馨の唇が清芳の唇にまた重なる。テレビの中で駆け落ちを決めた二人がそうするように。
唇を重ねて、それから清芳の上唇を、馨は唇で挟んで、離して、こつんと額をあわせる。
「本当はこのままここで大人のキスに移行するんですよ」
「そ、そんな事を言われても………私は」
青の瞳は柔らかに細められた青碧がかった黒の瞳から逃げるけど、でもすぐに上目遣いでその青碧がかった黒の瞳を見つめる。何度も忙しなく瞬きして。
「馨さんはその、大人のキスとやらをしたいのか?」
「清芳さんはどうなんですか?」
にこりと微笑む青碧がかった黒の瞳に青の瞳は不満そうに細まる。
「し、質問を質問で返すとはずるいぞ、馨さん」
そう抗議すると、今度は嬉しそうな青碧がかった黒の瞳。
「言っても良いんですか? 後悔、しません? それとも女性特有の心理なのかな? 心とは反対の事を口にして、男に自分の望む答えを口にしてもらいたいって、ねえ、清芳さん」
近づいてくる唇。
青の瞳は恥ずかしげに瞑られる。
ふわり、とした優しい柔らかい感触。
そういえば、この映画でヒロインが恋人の唇をキスした時に吸っていたっけ………
そう想ったら、身体は自然とそうしていた。優しく馨の唇を吸う。
清芳の頬に添えられた馨の手が頬を優しく撫でて、キスが少し変わる。
行灯の仄かな明かりが照らす薄暗い部屋で二人は唇を離した。
「こういうキスがしたかったんですか?」
「うぅ」
清芳の顔が恥ずかしくって引きつって、両手をグゥーにして、馨の胸をぽかぽかと叩いた。
「やっぱり今夜の馨さんは意地悪だぞ」
「いや、楽しいので、つい」
むむ、と不満そうに清芳の眉根が寄る。
「楽しいって!」
「清芳さんの反応が」
ふぅーと左の耳に吐息が吹きかけられる。やたらと今夜の馨は清芳の耳に囁いたりする。
「ぬぅー。この意地悪め。よし、決めた。もう私は絶対に馨さんを楽しませてやらないぞ。普通に全ての映画を制覇してやる」
「はい、その意気ですよ、清芳さん」
くすりと笑って、清芳の華奢な身体に回した両腕に力を込めて、身体の密着を強める。
清芳の方は顔を赤くしつつ、恥ずかしげに上目遣いで馨の顔を見つつ、自分からも密着度を高めた。
理性の声は、無視した。心の声に彼女は従う。生真面目な清芳。それは彼女が何よりも理性を尊ぶから、なのだが、やはり、その感情とは、そういう物。どのように理性が強くとも、時にはそれを上回る。
顔半分を馨の胸に埋めながら清芳は横目でテレビ画面を見るが、そこに映った映像に身体をびくぅ、と固まらせて、恥ずかしそうに馨の胸に顔を埋めた。
「こらこら、言っている傍から、清芳さんは」
くすくすと笑う馨の身体の振動が、やはり心に心地よい。それをもう清芳は否定も疑問視もしなかった。それはそういう事なのだろう。
そして何度も馨に笑われながら、顔を背ければキスされて、何度も私はちゃんと見る宣言をして、ようやっとそれを見終わる。
「お疲れ様」
そのくすっと笑いながら馨が言った言葉に、清芳は虚脱したように炬燵の上に突っ伏した。
もういっそ殺してくれ、それは心の嘆き。
馨はくすくすと笑って、ビデオを停止させる。
「お茶でも飲んで、一服しますか?」
「ん、ああ。すまない、馨さん」
「いえいえ」
馨はお茶の用意をしだす。
炬燵の上には何故かポッキーと飴玉。
でもそれを食べる事はしなかった。
「笑うのとからかうのとで、忙しかったのだろうか?」
清芳は目を半目にした。
「ん? どうしましたか、清芳さん?」
「い、いや、何でもない。それよりも次だ、馨さん。今夜はビデオ鑑賞会。全て制覇するまで寝かせないからな」
「はいはい。それまでに清芳さんが気絶しなければ、の話ですがね」
もちろん、傍らにあった座布団を馨に投げつけた。
馨はくすくすと笑う。
そしてまた清芳は馨に抱っこされる。
馨は清芳を抱っこしながら、ポッキーと飴玉の封を解く。
この映画はエルザード王立魔法学院を舞台にした思春期の少年少女の恋愛映画だ。
これなら、きっと大丈夫。
清芳はくすっと笑いながら拳を握り締める。
恋愛映画といえども所詮は子どもの恋愛映画。大人のキスや、あーんな事やこーんな事をしていた先ほどの大人の恋愛映画に比べれば、まだまだ難度は低いはずだ。
これぐらいならきっと技ありを二つとって、勝てるはず。
―――――甘かった………
家とか、種族とか、そういうしがらみを前にしてもそれを乗り越えようとする若さ故の恐れ知らずな分だけ思春期の少年少女の恋物語は………
「ひぃ」
清芳には刺激が強かった。
馨はくすくすと笑う。
「こらこら、清芳さん。こんなのはまだまだ序の口ですよ。なんせこの映画は少女コミックが原作の映画ですから、こんな物ではすみませんよ」
「うぅ」
思春期の少年少女の恋物語を甘く見ていた。
若いからこそ体当たりで剥き出しの青臭さが恥ずかしい。
まるで昔書いたポエムを目の前で読まれているような、そんな気恥ずかしさ。
今度は馨はいちいち悲鳴をあげる清芳の反応を楽しんでいる。そうかと思えば、おもむろに清芳の口にポッキーをくわえさせる。
転瞬、その意味がわかった。
画面の中では少年少女がポッキーを口にくわえあって、それを互いにポッキーを折らずに食べ初めて………
「うぅぅ」
ぽきん、とポッキーを折ってしまう。くすりと笑って馨はそれを手に取って、口にくわえ、顔を近づけ、
清芳は、恥ずかしながらそれの先を口にくわえる。
にこりと笑う馨。画面の中では顔を真っ赤にした少年の方がポッキーを折ってしまうが、やっぱり後もう少しで唇が触れる、その時点で清芳がポッキーを折ってしまった。
そんなかわいい彼女にくすくすと馨は笑い、
そして清芳は理解する。
ベタな恋愛映画が敵なのではない。馨こそが、自分の真の敵なのだ。
「敵ですか、私は?」
うぅー、と睨む清芳にポッキーを食べ終わった馨がにこりと笑う。
そして映画の中で少年少女が、飴玉を舐めた後にキスしたら、その飴玉の味がする、と笑いあって、案の定馨は清芳の口にイチゴ味の飴玉を放り込んだ。
+++
もう本当に何度いっそ殺してくれ、と想った事だろうか?
しかし朝方近くまでかかってようやっとビデオを全て見終わった。
ぱたり、と清芳は倒れた。
ビデオを停止させて、馨はくすりと笑う。
「お疲れ様です、清芳さん」
「ん。でももう朝だ」
「ええ、朝ですね」
掘り炬燵から抜け出して、馨は部屋の障子を開けて、縁側の雨戸を開ける。
早朝の薄闇の中、しとしとと降る雨がまるで絹糸のようで美しい。
清芳も掘り炬燵から抜け出して、馨の隣に立つ。
庭の蜘蛛の巣が雨に濡れて、そこに水の珠が出来上がっている。
「綺麗ですね。清芳さんは雨は、お嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃないよ。雨の音も、雨に打たれる事も、雨が降った後の清浄な空気の匂いも」
「私もです」
二人して雨が降る世界を見る。
清芳はその光景を見ながら、自分たちが雨の檻に閉じ込められているようだと想った。
そして、何だかこの雨が永遠に続くようにさえ想った。そう想った訳はきっと、隣に………
――――この人が居るから。
清芳はこっそりと馨を横目で見る。
雨に閉じ込められたようだ、と、何故に想ったのか?
それはきっと初めてこの男の目を見た時に、ああ、この人はずっと雨に打たれているのだな、と想ったから。
雨が永遠に降り続ける世界に、花はあるだろうか?
否、花は無い。全ての花が雨に打たれ続け、やがては色素を失い、腐り果てる。
なら、ずっと心に雨を降らせるこの男の心は?
「照れますね」
馨はにこりと微笑む。
ああ、いつもこうだ、この人は。
こうやって、海の波が波打ち際に立つ私の足を撫ではするが、
こちらが波に触れようとすると、
それを見越したように、引いていってしまうように、
笑う。
あなたはそうやって私に心に触れさせてはくれないのだろうか?
―――どうして、そう望む?
「意地悪だ、馨さん」
「意地悪ですね、清芳さんは」
「ああ、意地悪だよ」
この人と共に居ると、心が無性に、悲しくなる。
寒くなる。
永遠に心に雨が降り続けるあなたの心の冷たさが伝染するから。
だから………
「清芳さん?」
馨の左頬に右手を添えて、
左手で、馨の顔を、瞼を、頬を触り、前髪を触り、後頭部に流れるようにその手をまわして、くしゃっと髪を触りながら、
清芳は、濡れたような笑みを浮かべる。
そして背伸びをして、顔を近づけ、唇を重ねる。
心に雨が降り続けて、あなたの心の色が薄くなるのなら、私の心の色を、この口付けで、あなたにあげよう。
「清芳さん」
「嫌か?」
「いえ」
微笑する馨に清芳は微笑み、
そしてもう一度口付けをする。
私はあなたのぬくもりをもらうから。
【あなたには私の色を 私はあなたのぬくもりをもらうから 了】
++ライターより++
こんにちは、清芳さま。
こんにちは、馨さま。
ご依頼、ありがとうございます。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
今回はご依頼ありがとうございました。^^
こちらも本当に楽しんで書かせていただきました。^^
少し最初はコメディーチックと言いますか、馨さんの悪戯描写と言います。
でも実はそれが本当に楽しく、ついつい馨さんと一緒になって、清芳さんをかまっちゃいました。(目を逸らしつつ
やや、でももう本当に清芳さんへの馨さんの愛情表現(いたずら)の描写もすごく楽しく。^^
本当に楽しかったです。^^
清芳さん。
ベタな恋愛映画に苦しむ姿がとてもかわいらしくって、面白かったです。^^
そういった描写もすごく好きで、書いていて楽しかったのですが、ラストの描写はもっと楽しく。
馨さんに無意識に感じている恋心と、それと同時に馨さんの心の有り様に感じているじれんま、それが本当の意味での二人が一緒に居る事の意味へと繋がるのかな、と書いていて思いました。^^
支える姿、それは本当に何よりも気高く綺麗で、尊い感情だと思います。^^
馨さん。
愛ですよね、愛。
からかう事が愛情表現なんですよね。だって、反応があったりすると、ついついその反応が嬉しくなって、悪ふざけと言うか、もっとからかって楽しみたい…もとい、弄って、それを愛情表現にって。^^
清芳さんは美人さんですし、反応も楽しいですから、やめられませんよね。^^
ラスト描写はPLさまのイメージと合いますか? 設定を拝見させていただいて、私はこういうイメージを受けたのですが?^^ もしもPLさまにもお気に召していただけたのなら嬉しい限りです。^^
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼、本当にありがとうございました。
失礼します。
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