<東京怪談ノベル(シングル)>
『二度と会えない』
闇と闇の境目から一つの仄かな、淡い光が生まれ落ちる。
球状の光は産声の代わりに等間隔の点滅を繰り返し、闇の中を我が物顔で飛び回りながらぼやけた輪郭を少しずつ確かな物に変えて行く。そして、自らの照らし出す闇の先に何かを見つけ、たどたどしい飛び方で一心不乱に突き進んで行った。けれども光は自分の存在を主張するばかりで、何も浮かび上がらせはしない。闇は何時までも闇の侭だ。
何を見つけたのか、何を探し求めているのか、何故自分は此処に居るのか。暗闇は何も答えてくれない。
その場に只立ち尽くしていると纏わり付く闇の中に呑み込まれてしまいそうで、オーマ・シュヴァルツは仕方なく歩を進め始めた。進行方向では遠く小さくなってしまった光の粒がチラチラと上下左右に動き回りながら奥へと向かっている。
深過ぎる闇に時折平衡感覚を失い、自らの姿すら見えない不安に何度も叫び出したい衝動に駆られる。然し、其れを持ち前の精神力で乗り切り、オーマは光の後を追い続けた。
突起物の無い、只管平坦な道が続く。闇が足にへばり付くように重たい。単調な足の運びに逆に疲れを感じながらも、オーマは光を見失わないように進んだ。
どれだけ歩いたか知れない、闇が漸く目に馴染み始めた頃、光はある一ヶ所で停滞し其処を中心にグルグルと飛び回っていた。其処が此の闇の出口なのかとオーマは無意識に歩調を速めた。
然し、光の中心に存在したのは出口などではなく、一人の幼い少女だった。
少女の瞳がオーマの姿をぼやけて映し出す。其の刹那、オーマは言葉を失った。
―――――私が誰か知っている?
か細い声は闇の中の静寂に打ち勝って、オーマの耳に確かに届いた。
知り合いだろうか、とオーマは首を捻る。其の声に聞き覚えは無い。だが何故だかとても良く知っている、古くから付き合いのある相手のような気がした。
「悪ィな、俺ァあんまり記憶力の良い方じゃねェんだ。嬢ちゃん、俺とどっかで会った事あんのかい?」
すると少女はボロボロと涙を落として、その場に座り込み自分の顔を手で覆った。
突如泣き崩れてしまった少女にオーマは更に動揺して焦燥の色を浮かべた。『親』であるオーマにとって幼い少女の涙は愛娘の泣き顔を連想させるのだ。
「悪かったッ!きっとどっかで会った事あるんだよな、うん。待ってろ、今思い出すから!」
オーマは本格的に悩み始めた。何度思い返しても少女の声に聞き覚えは無い、然し何処かで会った気はする。
オーマは少女をじっと見つめた。少女は顔を覆ったまま泣き続けている。ふと、オーマの脳裏にある疑問が浮かんだ。
何故自分の姿は見えないのに、少女の姿は見える?
光の粒が彼女を取り囲んでいたから?…違う。ならば何故彼女だけが見えて、彼女の側に居る自分の姿が見えないのだ。
オーマの中に一つの可能性が生まれる。
此の暗闇の世界自体が彼女が生んだものなのだ。
だから彼女の姿は此の真っ暗な空間でも埋没せずに確かな輪郭を保つ事が出来る。
出口の鍵を持つのは間違い無く彼女だ。
「…なァ嬢ちゃん。申し訳ねェんだけどお前の事を思い出すにはもうちっと時間が要りそうなんだ。外で頭冷やして考えて来るからよ、一旦此処から出してくれねェか?」
必ず戻って来る、オーマの真摯な誓いにも少女は首を縦に振らない。オーマは弱り切ってしまった。
とりあえず少女が泣き止んでからもう一度話そうと構えてみたものの泣き止む気配は一向に見えない。
オーマは積み木の城くらいなら簡単に吹き飛ばせる巨大な溜め息を零して少女の真横に腰を落とした。
何故此処には時計が無いのだ。
カチコチと煩わしい秒針の音が今は酷く恋しい。
辺りは暗闇、此処が何処かも今何時かも解らない、話し相手は居らず隣には泣き続ける少女が一人。
気が狂いそうだ。脳味噌が耳の穴から溶け出してしまう。
胡座が片膝立てに、片膝立てが起立に、そして今また胡座に。何度移り変わった事だろうか。其れ位しか気分転換の方法が見つからなかった。
チラリと隣の少女を見遣っても顔を覆って啜り泣くばかり。オーマはグシャグシャと自分の髪を掻き乱して、諦め半ばに口を開いた。
「いい加減泣き止んでくれねェかな。家では美人な嫁さんと可愛い娘が俺の帰りを待ってんのよ。…多分」
其の言葉に少女はゆっくりと掌を顔から離し、オーマを見遣った。泣き濡れた瞳がどうして解ってくれないの、と訴えかけているようだった。
オーマの心に苛立ちにより遠ざかりつつあった罪悪感が帰来する。少女は嘘を言っているのでも駄々を捏ねているのでも無い。只、思い出して欲しいだけなのだ。
「……あーッ!わかったよ!こうなったら思い出すまで一緒に居てやらァ!」
自棄になって叫ぶオーマを少女が不思議そうに見つめる。オーマはぶつぶつと不平を唱えながらも自分の胸に手を当てて、心当たりを探った。
掌の感触に違和感が残る。何時もと違う。オーマは怪訝な表情を浮かべながら自分の胸元を更に鋭く指先で探った。
刺青が、無い。例え見えずとも指先の感触で其れ位は解る。サァーっと血の気が引くのを覚えながらも、ふと鼻先をついた芳しい馨りにオーマは混乱を治めた。
遠く懐かしいルベリアの花の馨だ。忌まわしいあの日の出来事を忘れぬように、此の身に永久に刻み付ける事が出来るように、刺青の中に混ぜた焼き灰の。
馨りの主はオーマの直ぐ隣で彼を見つめていた。真逆、オーマの疑惑と驚きを込めた視線に少女は泣き濡れた顔ではにかんだ。
ずしり、と溶けた鉛のように重たい液体がオーマの心に流れ込んで来る。
少女はずっと側に居たのだ。オーマから離れる事無く、常に寄り添い、姿を変えて、ずっと側に。微笑む事も涙を流す事も無く、只彼がヴァンサーたる証として其処に存在していた。
己が墨で描かれただけのちっぽけな存在だと知りながら、日々蓄積されて行く小指の先程の意識の粒を積み上げてオーマの前に姿を現したのだ。ほんの僅かな時間だけを与えられて。
「…ハ、ハハ…お前が怒るのも無理ねェよな」
渇いた笑いが零れる。唇が情けなく歪んで、湿った息と心の中で蟠っていた疑問が同時にすっと外に出て行く。
オーマは少女の頬に張り付いた髪を優しく指で払うと、申し訳無さそうに目を細めた。
「あれだけ長い間、近くに居たのによ…全然気付けなくてゴメンな」
泣かせてゴメン。
付け加えられた言葉に少女は緩やかに首を振るとオーマの頬に冷たい両手を伸ばしてそっと包み込んだ。
―――――私の方こそごめんなさい。でも、気付いて欲しかったの。貴方とこうやって話す事が出来るのは此れがきっと最後だから。
少女は両膝を突くとオーマを引き寄せて其の頬にささやかな口付けを落とした。光の球が弾け飛ぶ。啄ばむような小鳥のキスから広がるのは甘く切ないルベリアの。
遠ざかる、遠ざかる。意識が夢の中から引き摺り出されて、現実世界へ引き戻されて行く。
少女の笑顔が薄れて、ルベリアの馨りは毎日のように嗅ぐ痛々しい消毒液の馨りと死臭へと移り変わって行く。其の最中で、ぼんやりとした不確かな予感がオーマの胸中を占めた。
嗚呼。もう。きっと。夢の中でさえ。
其れは他愛無い夢の話。
オーマ・シュヴァルツ様。
この度はシチュエーションノベル(シングル)のご依頼有難う御座います。作者の典花です。
納品の期限を大幅に過ぎてしまい申し訳御座いません。今後、同じ事を繰り返さないよう充分に気を付けます。本当に申し訳御座いませんでした。
話の内容は、私らしい作品と謂う事でしたので可也自分の書き易いように書いてしまいました。
恐らくオーマ様が想像されていた作品とは全く違った出来になっていると思われますので、お気に召さない場合はお気軽に仰って下さいませ。
其れでは有難う御座いました。またのご依頼お待ちしております。
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