<東京怪談ノベル(シングル)>
身を包む衣
観光と言うものから戻ってから、ぶらりと足をここに向けていた。
「……」
切り立った崖の上から、遠く海を眺める清芳。崖下にはひっきりなしに波が打ち寄せていて、波に削られたのかごつごつした岩場が波間にちらちらと見える。
普通の人間には気持ちの良い風がさあっと吹き付けて来たが、それが清芳の顔を撫でる事は無かった。
そうして、改めて自分がまだ僧服に――いや、僧兵の衣に包まれていると実感する。
*****
僧兵の役割は通常の僧とは大きく異なっていた。
将来衆生を教え導くため修行にあけくれる僧たちや、僧を輩出する寺院。そして、有事には直接的に衆生を救うために存在するのが、僧兵――殺生を嫌う筈の僧の中にありながら武をもって彼らを守護する立場にある。
幼い頃から仏の教えを受け、同時に僧兵として育て上げられた清芳もその一人だった。
腕前から言えば中の上に位置し、個人で化け物退治に赴くだけの実力を持っていた彼女は、法力と格闘技を厳しい修行の中で少しずつ、確実に会得して行った。
僧兵の衣は画一的であり、動きやすさを取り入れつつ、身体の線を隠すような仕立てで出来上がっている。それは、彼らが人格や性別を必要としない『僧兵』としての役割に従事する事を意味していた。
清芳もまた、例外ではない。
彼女の体躯に合わせ、比較的ゆったりとした衣と、個性を意味し、かつ整った女性としての顔を覆う布、そして細い繊細な指を隠す手袋が仕事着であり、外出時は常にこの格好であった事を思い出す。
全ては、自らが護る者のために。
それが空虚であったとは、今でも思っていない。今でも修行を欠かす事が無いのは、染み付いた慣習のためもあるだろうが、何よりこうして身体を動かすのが好きだからだ、と気付いたのは、この地を訪れてからだった。
――ソーン、と呼ばれるこの世界は、自分が身を置くための寺院も無ければ、常に誰か『護る者』が必要ではないらしい、と知った時には、流石に心細さを感じたものだったが……今はその時期も過ぎ、穏やかな日々を過ごせている。
そう。
僧兵と言う存在が、必ずしも必要ではないと知ったのも、この地に於いての事だった。
必要が出て来るとするならば、それは多分、清芳をも含めた『冒険者』と呼ばれる人々への依頼が来た時のみだろう。
「……」
そっ、と、手袋をした手が顔を覆う布に触れる。
この穏やかな世界を象徴するかのように、空は晴れ渡り、周囲には不穏な気配など微塵も感じ取れない。
――ならば。
衣を、脱いでしまおう。
*****
頬に当たる風が柔らかだと知っていたのは、遠い昔の事のような気がする。
少なくとも、務めに勤しんでいた頃には、風は周囲に散る『敵』の位置を察するものでしか無かったからだ。
「……そう、か。気持ち良いと、言うんだったな」
この地への来訪を歓迎するような、するりと頬を撫でて去って行く風の感触を現わす言葉を思い出した清芳が、はらりと流れて来た髪を後ろへさあっと撫で付けて微笑む。
――衣を変えても、過去が消えるわけではない。
穏やかな日々を重ねたとしても、あの、闇の色を纏っていたような過去を忘れる事は決してないだろう。戦う者としてしか存在意義の無かったあの頃の事は。
それでも。
何が変わるわけでも無いが、ここでひとつ区切りをつけようと思った。
護る者の無いこの地で。
穏やかな日々を過ごすこの地で。
……今までと違う、『自分』と向き合って生きていくために。
いつか必要になる僧兵の衣を、大事に仕舞い込んで。
「そう……それも、良いだろう」
彼女がそっと風に乗せた呟きは、柔らかな響きを持って、海が広がる風景の中に溶けて行った。
*****
その日を境に、清芳の身体を包むものが一変した。
性別や個性を覆い隠す僧兵から、穏やかな眼差しや繊細な手指が見える宣教師服へと。
-END-
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