<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


幸福回路


 ソーンは、あらゆる世界と隣り合わせだ。危険に満ちた世界や、人間のいない緑の世界、アスファルトと四輪の自動車で埋め尽くされた世界――果てのない宇宙とも、空一枚で繋がっている。
聖獣、剣、魔法が馴染み深い世界ではあったが、“隣の世界”から実に様々なものが流れ着いてきていた。それでいて混沌とした様相を見せないのは、この世界の住人の多くが、無理に漂流物や漂流者を文化に取り入れようとしていないからだろう。
かといって彼らは、拒絶もしていない。
どの店もどの人も、必ず誰かには必要とされていた。
 倉梯葵も、日夜誰かに必要とされている。町の片隅にある機械修理店へ、葵の修理技術をあてにしてやってくる人間は確かに存在した。けして数は多くなかったが、葵にとってはちょうどいい客数だ。
 というのも、彼はひとたび作業に入ると、周囲の音も聞こえなくなるほど没頭してしまうからだった。客が来ていることに気がつかなかったことも稀ではない。
 本来彼は、メカニックではない。元は軍人だったし、化学者だったこともある。機械工学に関しての知識も、化学の知識に勝るとも劣らないほど人並みはずれてはいたが、それでも、メカニックとして生計を立てるのは、初めてのことだった。
 葵は今日も、午前中から作業に勤しんでいる。楽しんでいる、と言ってもいいだろうか。
 朝食をコーヒー一杯だけですませていたことも忘れていた。
 リラ・サファトが来ていたことにも、しばらく気がつかなかった。

 リラは現在、葵とは住まいをべつにしている。葵は彼女の保護者だったが、彼女は結婚した。葵のほかにも、彼女を大切にすることを誓った男がいるのだ。彼女もまた、必要とされている。そして、リラ・サファト自身が必要としている人も、たくさんいた。その中でも、倉梯葵に抱いている大切な気持ちは、特別なものだ。結婚しても、彼女の葵に対する気持ちはなにも変わらない。葵は彼女の父であり、兄であり、家族なのだ。
 夫が留守で、家事もする必要がない日は、こうして葵のもとを訪れている。

「! リラ!……いつの間に」
「うふふ。2分前に来てたよ」
「……ぜんぜん気がつかなかった」
 店先で悪戯っぽい笑みを浮かべるリラに、葵はようやく気がついた。2分間わざと挨拶もせずに立っていたリラもリラだが、葵は本当に気がつかなかったのだ。ポータブルミュージックプレイヤーの修理にのめりこんでいた。リラは笑みを顔いっぱいに広げて、とことこと小走りに、葵の作業場に入った。
「お仕事中、だね」
「ああ。見ての通り」
「もう一時半になるけど……お昼、食べた?」
「あ?」
 葵は露骨に目を点にして、卓上の時計を見た。本当に彼の知らぬ間に、午前は終わっていた。しかも、一時間半前に。
「……その感じだと、食べてないんだね」
「忘れてた」
「ごはん食べることも忘れちゃうなんて! 私、なにか作るから」
「……いいよ、そんな。それに、なんもないぞ。食材とか」
「だったら買ってくる」
「おい」
「いいからいいから。葵は仕事を続けて。ね?」
 葵はその仕事が好きなんだもの。
 リラはにこりと微笑んで、作業場の奥の住居スペースに飛びこんだ。
 灰色と油、ハンダの匂いで満たされた店内を、ふとライラックの色と香りがかすめていったから――葵は束の間、手元の仕事を忘れた。


「あっ、ひどい」
 キッチンに立つなり、リラは呆然とした。ハエがたかるほどではないにしろ、流しには昨晩に使ったものと思しき食器が積み重ねられている。葵は合理的な男だから、ある程度まで洗うものが溜まってからいっぺんに洗おうという魂胆なのかもしれない。もしくは、昨晩から修理に没頭していたか。
「もう……!」
 買い出しは二の次か。
 いや、もう時は一時半を過ぎている。葵は昼を食べていない。あの様子では、朝をきちんと食べたかどうかもあやしい、とリラは考えた。実際彼が朝食をコーヒーだけですませていたことを彼女は知らなかったが、想像は難くない。
 リラは泣く泣く、洗いものを二の次にした。
 近場のパン屋で、ライ麦パンを。竜に荷車をひかせている行商人から、新鮮なレタスとトマトを。肉屋でベーコンと卵を。リラはてきぱき買い出しをすませて、最終的には大荷物を抱え、葵の店に戻った。葵は相変わらず、ハンダの匂いの中で仕事をしている。
 そして彼は、んしょんしょと危なっかしい足取りで荷物を抱え、キッチンへ向かうリラの姿にも気がついていなかった。

 どこからか拾い集めてきたジャンクを繋いで、葵はコンロを作っていた。リラはそのコンロを駆使し、フライパンでベーコンを焼き、たっぷりのお湯で卵を茹でる。
ライ麦パンを切り、井戸水でしゃっきり洗ったレタスを載せる。トマトを輪切りにして――
「あ」
 葵がどこからか拾ってきたらしいナイフは、凄まじい切れ味だった。リラの予想をはるかに超えた切れ味だ。トマトもろとも、彼女は指を少しだけ切ってしまった。
「ああ、もう……」
 彼女の傷口から、白い血液がぷつりとこみ上げた。どくどくと血が出るほどの派手な傷ではなかったが、リラはぱくりとその指をくわえる。
「治るかな。……だいじょうぶ、だよね」
 彼女の四肢は、機械でできている。めぐる血は人工的に作られた白色の血液だ。人口細胞と皮膚が機械を覆っているから、彼女の姿は人間にしか見えないし――ちいさな切り傷なすり傷なら、人間のものと同じように数日で回復する。
 たったいま切ってしまった指先の傷も、もう再生を始めているようだ。出血はすぐにおさまっていた。
 ふと、傷を見て、彼女は考える。
 もし、人工細胞やオートリカバー機能の手に負えない傷を負ってしまったら、葵が治してくれるだろうか、と。
「……当たり前だよ。葵だもの。ぜったいに治してくれる。ぜったいよ」
 リラは微笑み、切った指をぴんと伸ばして、さらに危なっかしい手つきで料理を再開した。


 葵は、顔を上げた。リラが満面の笑みで、机の前に立っている。気づけばリラからも、店の奥のキッチンからも、卵とベーコンとパンの……サイドイッチの香りがしていた。
「葵、お昼できたよ!」
「……そうみたいだな」
「奥で食べる?」
「ああ。ここには預かり物があるから」
 立ち上がって伸びをし、首を慣らす。こきこきと、葵の身体のあちこちで音がした。同じ体勢で何時間も作業していたのだから無理もない。その音を聞いて初めて、葵は疲れを覚えたのだった。
「疲れたでしょ。コーヒーも入れるね。難しいお仕事?」
「いや。今日中には終わると思う」
「そっか。じゃ、お昼食べたらすぐお仕事に戻るんだね」
「ん」
 リラと話しながらダイニングに入った葵は、驚いた。
 もとよりそれほど雑然としていたわけではないにしろ、キッチン周りは散らかっていたはずだ。それが綺麗に片付いているし、テーブルの上には美味そうなライ麦パンのサンドイッチが置かれている。
 しかも山のように。
「……リラ、これ……」
「あ、これ? サンドイッチ」
「いや、それはわかる。……多いな」
「……あ、あのね。冷蔵庫がないってこと忘れてて、たっくさん買ってきちゃったの。パンとかベーコンとかお野菜とか……」
「全部使って作ったってわけだな」
「そう」
「……多いな」
 もう一度、葵は突っ込んだ。突っ込んだが、笑っていた。リラはばつが悪い顔でもじもじしていたが、葵はそのライラックの髪をごしりと一度撫でただけだった。
「いいさ。リラも食うだろ。余ったら俺、夜食うし。なんなら、お前が家に持って帰ってもいいんじゃないか?」
「そう? 大丈夫かな?」
「大丈夫さ。美味いにきまってるんだし」
 席につくと、葵はベーコンとレタスのサンドイッチを口に運んだ。
 見た目と匂いに違わず、リラお手製のサンドイッチは絶品だった。多くの男がそうであるように、大切な人が作った料理がどれだけ美味くても、葵はいちいち「美味い」と言わなかった。ただ黙々と食べ続けた。いったいいくつ食べたのか見当もつかなかったが、山ほどあったサンドイッチが半分ほど片づいたのは確かだ。
 リラは葵の食べっぷりに、はじめこそ呆気に取られていたが、あとはにこにこと嬉しい笑顔で――葵が遅い昼食をとっている光景を眺めていた。
 美味いと言われなくても、わかるのだ。美味いから食べてくれている。ものも言わずに、夢中になって。
「……食いすぎた」
 食後のコーヒーを飲む葵の表情は、すこしだけ苦痛に歪んでいる。
 午後の仕事に差し支えるほど食べてしまった。
「いっぱい食べたもんね、葵。よかったぁ。これくらいの在庫ならなんとかなるよね!」
「『在庫』って……」
「あ、そうだ! 葵、洗濯物溜まってない? 今日はいいお天気だから、いまから洗って干してもすぐ乾くはずだよ」
「ああ、でも、ハラ苦しいし仕事あるし……」
「私が洗うの」
「え、なに?」
「洗ってあげるの! お洗濯大好きだもの」
「いいよ、そんな――」
「葵は気にしないでお仕事続けて!」
 ライラックの色を振りまきながら、ぱたぱたとリラは動く。あちこちにぶつかってよろめいたり、ものを落としたりは当たり前だ。洗濯板と洗濯物(リラが想像したとおり、葵は洗濯物も溜めていた)をんしょんしょと運んで、勝手口から庭に出て行く。
「……井戸に落ちるなよ……」
 危なっかしい手つきで水を汲み上げているリラの背に、ぽつりと葵は呼びかけた。彼はリラの言葉に甘えて、作業に戻ることにした。食べすぎと昼下がりの陽気が、葵の中の睡魔を呼び起こしつつあったが。


 機械とハンダの、冷たい匂いのする作業場に――
 ぽかぽかとした斜めの陽射しが落ちている。
 洗濯と食器を片付けたリラは、いつしか葵の仕事風景を、彼のすぐそばで見守っていた。うっかり水につけてしまって、濡れたライラックの髪。石鹸の匂いがする手。パンとバター、ベーコンの温かい香り。
 葵はふと、それらをすぐ近くで感じた。
 目を開けた。
「……あ……」
 どうやら自分は、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。そしてどういうわけか、リラが自分の膝を枕にして、妙な体勢ですやすや眠っている。ふたりとも、サンドイッチと陽気にしてやられたのだ。
 ――昼寝なんて、久し振りかもな。
 葵は思わず、笑ってしまった。
 ――お前は、頑張りすぎだよ。……でも……頑張ってるやつがすこしくらい休んだって……悪くないよな。当然の権利だ。好きなだけ寝ればいいんだ……。
 リラの、どこか嬉しそうな笑顔には、疲れや苦しみなど微塵もない。それを見つめているうちに、葵はまた、うとうとし始めていた。リラがずり落ちないように、しっかりその肩に手をかけていた。
 頑張っているやつは、リラ・サファトだけではなかったのだ。誰もふたりの休息を咎めはしなかった。
 睡魔もまた、ふたりと同じように、大切にされている。




〈了〉