<東京怪談ノベル(シングル)>


追憶



 あれはいつのことだっただろうか。


 土混じりの風が肌を撫でる。枯れ落ちた葉を巻き込み、重く灰色の天へと駆け上がっった。
 空を塞ぐような曇天。ぼやけた光はどこがはじまりかもわからず、厚い雲ごしにかろうじて光を通す。
 いっそ雨でも降ればいいのに――大気はどこまでも乾いて、ところどころで旋風を起こし飢えた悲鳴を上げていた。

 まだ、赤く汚れているような気がする。

 キング=オセロットは乾いた土を踏みしめ、その色褪せた大地を見下ろした。ゆるやかに波を描く金糸は風に煽られ、それでも常のようには輝かない。藍玉に似た双眸も、いまは煙色に翳って見えた。
 漆黒に濡れた服――形のいい帽子、艶のあるネクタイ、美しく着こなされた軍服。赤い腕章があってなお、それはまるで墓標に向かう喪服のよう。

 事実、そうなのかもしれない。

 キングは視線を巡らせた。かつてここは、どのような場所だったのだろうか。青々と草の生い茂る草原だったろうか、それとも、岩と砂ばかりの荒野だったろうか。
 今は、その岩すらろくに見えないけれど。
「……なにも」
 もう、なにも残っていない。
 絶え間なく響いた銃声、もうもうと立ち上る土煙、大地を踏み荒らす足音、むせかえるような血と鉄の臭い、飛び交う声、怒号、絶叫、断末魔の――
「…………」
 苦痛に耐えるように瞼を伏せる。
 何度同じ時間を過ごしたかわからない多くの戦友がいた。土に汚れた顔で笑い合ったこともあったし、くだらない話に華を咲かせた夜もあった。あるいは互いの腕を競い、修練に励んだことも。
 瞼の裏に蘇る、いくつもの、いくつもの顔。

 わかっていたことだ。
 これは戦争なのだ、と。
 ――相手を殺していくように、自分たちもまた、殺されていく。

 キングは伏せていた瞼を開き、再び荒涼とした大地を眺めた。
 あの時あれだけ踏み荒らされた土は風に均され、そこかしこに転がっていた遺体は影も見えない。
 ただ、すこし赤いような気がするだけで。
 ずいぶん様変わりしたように見えて、それでもやはり草一本生えてはいなかった。あの日が遠いのか近いのか――思い出す光景は現実よりも鮮明で、月日を曖昧にさせる。
 あの後回収された遺体の山には、当然のように父の骸もあった。一歩間違えれば、きっと自分もその中にいた。
 残ったことが幸運なのかどうか――そんなことは考えたくもない。どうでも、いい。
「……だれが始めたのだったか、な……」
 呟く。
 大地を抉り、町を潰し、気が遠くなるほど長く続いた戦。
 限りある命さえ、頭上から見渡せばただの数字になる。その数は時ごとに膨れ上がって、人々の心を磨り減らした。
 希望とはなんの名前だっただろう。そんなことさえ、気付けば忘れていて。
 だれがなにを望んで始めた戦なのか、いったいどれほどの者が覚えていただろうか。
「――やっと終わったんだな……」
 もっと満ち足りた感情が湧くものだと思っていた。なのに、心のどこかがぽっかり口を空けたような気がする。
 大事ななにかが抜け落ちたような――急にすべてが現実味をなくしたような。
 それともずっと、夢だったのだろうか。
 戦場に身を置いたことも、父と交わした言葉も、倒れていった戦友も、生き残った自分も――なにもかも。
 あるいは死者が夢を見ているだけかもしれない、と自嘲気味に笑う。
 戦は終わり、けれどすべてが終わったわけではない。根深い傷痕を前に呆然と佇む人を何人も見た。中には意味もなく泣き叫び、あるいは狂ったように笑い出す者も。
 皆、なにかを失い、なにかを壊されたのか――
「結局、だれもなにも得なかったな」
 ぽつり、と呟く。
 帽子を取り、ネクタイをするりと外した。髪が風に踊り、ひと房が頬にかかる。襟をなかば強引に崩すと、その合間から豊かな胸が覗いた。
 まだ、すべてが終わったわけではない。
 けれど、戦は終わった――軍人など、もう必要ない。
 天へ放るように、帽子とネクタイを手放す。ちょうど吹き上げた風に巻き込まれ、瞬く間に遠く離れていった。
 ――解放されたのか、失ったのか。
「…………」
 短く息を吐く。
 すくなくとも、自分の中でなにかが終わったのは確かだった。
 懐から煙草の紙包みを取り出す。一本抜き取り口に銜えた。マッチで火を灯し、紫煙をくゆらせる。
 煙は気まぐれに吹く風に乱され、虚空へと消えていった。
 残りの煙草とマッチを添え、足元に静かに置く。

 ――耳をつん裂いたあの銃声。

 瞼を閉じればすぐそこに、あの瞬間がある。たった一瞬で父は命を奪われた――
 地に伏した父の姿を塗り替えるように、見慣れた顔を思い出す。
 父は愛煙家だった。きっと、これだけの煙草では一日だって過ごせないだろう。軽く皺の刻まれた父の顔が苦笑する。
「……わかっている」
 足りない分は、いつか私がそっちに行くときに持っていってやるさ。新しいライターと一緒に。
 それで文句はないだろう、と薄く笑んだ。
 じゃり、と土を踏む。
 踵を返し、一歩、また一歩とその場を離れていった。
 振り返るような真似はしない。
 ただ、煙だけが風に流されて――高く遠く、曇天へと吸い込まれた。


 その後、キングの姿は忽然とかき消えた。
 瓦解していく軍の中にも、苦痛を抱く街中にも、戦痕ばかりの荒野にも――その世界のどんな場所であっても、彼女の姿が見出されることはなかった。
 まるで、最初からいなかったかのように。


 ――わかっているさ。
 いつか――……




fin.