<東京怪談ノベル(シングル)>
救われた魂
聖なる夜に、それは等しく舞い降りる。
――全ての人の頭の上に。
魂の救済、と人は言う。
それは即ち、全ての罪垢を払い落とし、未来永劫苦しむ事の無い世界へ誘うもの。
神の、人には不可解な選別方法により選ばれた者が、受けられるもの。
聖夜に近づくにつれて、ひとり、またひとりと。
『選ばれた』ものが、歓喜の断末魔を上げていく。
*****
病院は、常連患者とそこで住み暮らす者たちでごったがえしていた。
前夜祭のパーティの準備や、挨拶をしに訪れる者たちで埋め尽くされるそこは、普段感じる薬臭い雰囲気からは程遠い。いや、普段からこの病院は、ごく一部の場所を除いて病院らしさの無い建物として有名なのだが……。
病院の薬臭さが苦手、と言う者でも気軽に通う事の出来る場所、と言う意味でも評判だったりする。
尤も、病院らしさが無い代わりにあるものは、魔界の様相を呈した怪しい人影だったり草影だったりとある経営者が趣味にあかせて集めまわったイロモノグッズ及びナマモノだったりするのだが。
そんな中で曲がりなりにも常連らしき人々が出来たのは奇跡に近い、と聖夜間際の今になっても思っている。もちろん顔に出す事は無く、訪れた人々ににこやかに接している。
本来はルイも病院に住み暮らす者の一人なわけで、パーティの準備要員として数えられていた訳だったのだが、そんな時にきまってルイの元へ訪れるのは教会の関係者たち。それは、聖夜前夜の今日にミサの説教を代行して貰えないかと言う依頼ばかりで、暫く前から頼まれはじめた物も含めると数件もの説教依頼を受けていた。
「と、なると、こちらはこの時間から、こちらは……」
当たり前だが、同時にルイを何人も作り上げて説教させるわけにもいかない。いや、ルイの事だからそんな事さえ可能にしてしまいそうな気もするが、ルイ自身はその方法を使おうとはせずに、例年とは違う時間に説教を行う事で、スケジュールの調整を行っていた。
不思議な事もあるものですねえ、と声に出さず呟くルイ。
毎年の聖夜前に行われるこのミサへは、都市の住民の多くが家近くの教会や地区一帯を取り仕切る大きな教会で祈りを捧げる重要な儀式だと言うのに、今年に限っては聖夜前にも関わらず門戸を締め切りミサを行わないと告知する場所が増えている。
そのため、どこから話を聞きつけてきたのかルイへの依頼が一気に増えたのだが、それでも間に合わない速度であちこちの教会が門を閉じてしまっているとも聞いていた。
「ようこそお越しくださいました」
病院を抜けて、本日最初に説教を行う教会へ足を踏み入れると、依頼を受けた時以上にぴりぴりとした空気がルイを包む。迎えに表へと出て来た聖職者も、怯えの色を隠せずに、それでもルイが来てくれた事にほっとした顔をして、ルイを中へ招き入れるとぴたりと門を閉じた。
「何かあったのですか?」
こういう時に、物事に動じないルイの穏やかな声と微笑みは有効なのだろう。
「神に仕える者としてお恥ずかしい限りなのですが」
気を緩めれば声が震えそうになるのを気力で止めながら、聖印を手に握り締めた聖職者が、ルイへ不安を解消するかのように言葉をぶちまける。
それは、聖夜が近づく少し前から始まった惨劇。
まるで儀式のように、目と口を潰され、両手を広げた状態で釘を打たれ、十字架を模した柱や木や壁に磔にされた神父が息絶えた状態で見付かると言う事件が起きていた。
それもひとり二人ではなく、聖夜が近づくにつれ増えて行くという状態で、ここの教会の聖職者に限らず神官たちは今日は明日は自分の番かと怯えずにはおれず。
死体の足元に必ず残されていると言う謎の血文字と、血を吸ったように赤い真紅の薔薇の意味も分からぬまま、恐怖だけが今年の聖地を支配していた。
教会が次々と門戸を閉ざしたのはこれが故。
責任者死亡、或いは怯え篭ってしまったからに他ならなかった。
「噂だけは聞いていましたけれど……そうでしたか。それはさぞかし、心労が増えてしまったのでしょうね」
にこりと微笑を浮かべるルイの後頭部に後光でも差して見えているのか、神父の表情に縋る色が浮かぶ。
今夜に近づくにつれ、カウントダウンするかのような数字の話もあり、今夜何かが起こるのではないか――そうは思いながらも、他の者のように教会を閉める事は出来ず、震えながらも今夜のミサをセッティングした神父に、ルイは笑顔で何の根拠も無い励ましを送る。
聖職者が何者かによって次々と不可解な死を遂げている、その噂はとうにルイの耳へも届いていたのだが、ルイは何も手を出す事は無く噂の収集にだけ力を入れていた。
一日、一日とこの日に近づくにつれて、聖都全体に緊張感が漂うのにも、恐らくは王宮からの緘口令が敷かれているであろう事も把握しながら、ただひたすら今日という日を待っていたのだから。
それは、ただ、今夜何が起こるのか知りたいがために。
それだけのために。
*****
夕刻に至る前に始まったミサでは、神父が危惧していた事は何も起こらず、無事に儀式は終了した。例年に無く早く始まり、早く終わったのを不審に思った者も何人かいたようだが、ルイが他の教会での説教もこれから控えていると言う事を伝えると、そういうものなのかと首を捻りながらも納得して帰って行った。
「それでは、わたくしはこれで。……念のために、戸締りはきちんとしておいた方が良いでしょうね」
感謝の念をその表情に浮かべている神父の元を去る前にルイが言って微笑む。
犯人がわからない以上、いくら戸締りをしていたとしても行為を防げると言う保証はどこにも無いのだが、ルイはその事についてはおくびにも出さずにいた。
そして、同じように不安に押しつぶされそうになりながらも、今夜の儀式は行わなければと言う悲壮な決心をした神父たちの元を訪れながら、ルイはその朗々たる声と穏やかな笑顔で来る人々を魅了し、どこの教会でも今年のミサは今までに無く良い、と言う評判を立たせていた。そして――この説教を終えれば、日付も変わり聖なる日になると言う最後の教会で、ルイが足を踏み入れる前にふっと建物を見上げる。
その教会は、歴史がありそうな古い建物でありながら、都の片隅にひっとりと建っていた。教会の名はルイも知らず、病院の患者に訊ねた時も誰ひとり知らなかったのだが、それで断りを入れるようなルイではない。
――教会の中は、祭壇以外は灯りを付けていなかった。説教壇に立って眺め回してみても、ざわざわと、こんな寂れた教会だと言うのに人がみっしり詰まっている気配だけはあれど、顔の判別など付きはしない。
「では、お願いします」
そんな中で、今日最後の、そして今年最後のルイの説教が開始された。
この世界での神の教えを、付け焼刃でありながらそれを微塵も感じさせない澄んだ声が辺りへ静かに染み込んでいく。
聴衆はそれに聞き入っているのか、こそとも音を立てぬままで、ただ、ルイへ向けるいくつもの視線は突き刺さるような鋭さを持っていた。
「……祈りましょう。御魂が清められる事を。わたくしたちは背負いきれない罪を背負いました、ですがそれはいつか救われるための布石に過ぎません。日々を正しく過ごすための枷がある事を感謝いたしましょう。わたくしたちはそれが無ければ徒に日々を過ごし、罪を重ねてしまう弱いいきものなのですから」
ルイが言葉を重ね、説教壇の上から聴衆へと視線を注ぐ。
「神の教えはこう説いています。わたくしたちはそれを知らなければ目も見えず、語る口も持つ事が出来ないと。祈りましょう。魂の救済を――いつかそれが神の手によって召される事を」
ざわざわっ、と、その時初めて聴衆が大きくざわめいた。
――魂の救済を
――救われるまで待たねばならないこの身を
――目も見えず
――口も利けず
――神に召されるまで
それは、謳うように。祈るように。ルイの言葉に共感したのか、それとも何かが自らを突き動かしているのか、次々と聴衆たちが言葉を重ねていく。
聖遺骸を――
聖遺骸を――
作らなければ。神へ捧げなければ。
『我らは目も見えず口も利けないまま。救いを誰に求めたらいいのか見る事も出来ず、救いを求める口を開く事も出来ず、ただ、ただ、ひたすらにその日を待つ』
視界がぼう……と広がっていく。闇に目が慣れたからか、いや……それは、目の前にいるものたちの存在感が一層濃くなったからで。
それは。
異教徒たちの、末路だったのか。
自分たちの信じるものを見る事を禁じられ、目に穴を穿たれ。
祈りの言葉を唱える事も許されないまま、口を潰され。
磔にされたためか、穴の空いた手から滴り落ちるそれが教会の床を真っ赤に染めて行く。
それでも、救われない。
――救済を求めても、異教の者へ差し伸べる神の手などありはしない。
ましてや。
救う者を選ぶ事も求める事も出来ないのだから。
「……」
ルイがはたりと口を閉ざす。
それは、恐怖の故などでは無い。目の前にいる者たちが、何を求めているのかがようやく分かったからだ。
彼らはただ、救われたかっただけ。
異教の聖職者を、一番神に近い存在を、神へ捧げる事で。
――神父たちは嫌がっただろう。恐怖したろう。泣き喚いただろう。
それでも、彼らを止めることなど出来はしなかった。
受難こそが神へ近づく尤も近い道――そう、神父たちは説いていたのだから。
「なるほど。よく分かりました。貴方様たちは、耳触りの良い言葉で満足する事はもう出来ないのですね。それならば」
――それならば、もうひとつの方法を使わせていただきましょう。
そう言って、ルイは、艶然と微笑を浮かべた。
目の見えぬ聴衆たちに向かって。
*****
りぃん――ごぉん……。
イブが過ぎ、聖夜となった事を知らせる澄んだ鐘の音がどこからともなく聖都全体へ響き渡った。
それが、遥か昔に毎年行われていたしきたりだと知る者は、今はもういない。
安眠を妨げると言う理由から行われなくなって久しいそれは、だが、今夜に限っては眠りに就いている者を起こす事は無く、まだ起きてパーティや娯楽に打ち騒いでいる者たちを我に返していた。
夜を徹して祈り続ける者へは、今までにない心の安らぎを与えたそれは、数度鳴って、そして永遠に沈黙した。
それをルイが知ったのは、次の日の朝の事。
謂れを誰も知らぬような古い教会――管理者もその教会で仕える者もいない教会に備え付けられていた、錆びだらけで使い物にならない鐘が鐘楼ごと崩れ落ち、教会をぐずぐずに崩してしまっていたからだった。
「……」
今にも崩れそうな壁を見上げながら、ルイは只一人そこに立っていた。
魂を喰らう事で救済と成す、それは確かに苦しさからは逃れ得るかもしれない。浄罪者へ自らの罪を押し付けて行くことに等しいものではあるけれど。
魂の紡ぎ返し。
その、本当の意味に気付いたのはいつだったのだろうか、そんな事を思い返しながら、ルイはくるりとその場から踵を返す。
「――」
聖なる日に。
嘗て、この地に於いて発生し、血生臭い事件をいくつも起こしつつ粛清された異教の、今はもう知る者もいない祝いの言葉を呟いたルイは、薄らと微笑を浮かべていた。
-END-
|
|