<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>
空穂なる人形〜想いを映す花〜
さぁ――
澄んだ風が花の群れを撫で、花弁がいっせいに舞い上がる。
光にうつろうそれはまるで虹色の波。
赤や青や緑、思い浮かぶかぎりのさまざまな色に揺れ、薄く青を刷いた天へと消えていく。
「ルベリアってンだ。なかなかお目にかかれないんだぜ」
鮮やかな猩猩緋の着物に巨躯を包んだ壮年の男が笑った。短い漆黒の髪は天を指し、色眼鏡の奥にある紅玉の双眸は穏やかな色を浮かべている。そこかしこに鈍色の金属飾りが下がり、冷たい風に重たげに揺れていた。肩には桃色の地に赤いハートを散らした風呂敷包みを担いでいる。
その男の傍ら、群れる花に埋もれるように雪色の子どもが立っていた。
圧倒的な男の存在感に対し、あまりにも希薄な幼子の気配――ともすれば幽鬼とも見間違えそうなほど。舞い踊る花弁を仰ぐその目はどこまでも幼く、淡い銀色に澄んでいる。
柔らかそうな毛糸のマフラーで口元まで埋もれ、あたたかそうな上着の裾が風に揺れていた。どれもオーマが見繕ったもので、可愛らしい模様が中性的な子どもの容貌を女の子のほうへと傾けている。
実際は、まだどちらにも分化していないのだが。
「どうだ、びっくりしたか?」
「びっく……り?」
オーマが笑いかけると、子どもがこくりと首を傾げる。子どもらしい幼い声は、だが、言葉を紡ぎ慣れていないような印象を抱かせた。
「そうだ。驚いたか?」
「……え、と」
「おう」
「きらきら、な、かぜ……いっぱい。いっぱい」
「そうだな」
腰を折って頭を撫でてやると、子どもがオーマの頬に手を伸ばす。浅黒い肌に触れた指はひんやりと冷たく、オーマの熱にすこし怯えたように揺れた。
オーマは太く笑い、そのまま逞しい腕で子どもを抱き上げる。
子どもは一瞬体を硬直させたが、オーマが宥めるように軽く撫でてやると体の力を抜いた。天を仰ぎ、ぽつりと呟く。
「……かぜ、ちかく…なった」
「おう。よく見えるだろ?」
「うん」
「上に広がってるのは空っていうんだぜ。光ってるのがお日さまな」
「そ、ら……」
「そうだ」
「……そらにも、るべりあ、あるの?」
尋ねてくる仕草があまりにもいとけなくて、オーマは目元を和ませる。同年代の子と比べればあきらかに感情に乏しく、ものを知らないのだろうが、それはこの子の出生を思えば仕方ないことだろう。
「そうだなぁ」
オーマは天を仰いだ。
この空の果てに――どこかに、あの懐かしい世界が漂っているのだろうか。遠くて近い、異なる世界があるのだろうか。
「――あるぜ。きっとな」
それは、多分にオーマの希望を込めたものではあったのだが。
「そう」
子どもがごく淡く、溶けそうなほどの微笑を浮かべたように見えた。
刹那の幻か現実か、オーマは思わず目をしばたたく。
「どう、したの……おーま」
色のない双眸で、子どもがオーマの顔を覗きこんだ。子どもの髪がオーマの頬を撫で、オーマははっと我に返る。
「あぁ、いや……うぅん、そうだな。どうしようかと思ってな。どこで弁当食べようか」
「ど――こ?」
「そうだなあ」
オーマは視線をめぐらせ、見晴らしのいい小高い丘を見つけた。そこにも偏光色のルベリアが咲き乱れ、優しい香りとともに風に揺れている。
子どもを下ろすと、オーマは足を踏み出した。
「よぉし、あそこにしよう。慌てなくていいぞ、足元に気をつけてついてこい」
「うん」
この子どもが色々なことに不器用なのをオーマは知っていたが、それは経験がないことからくるものだ、ということもわかっていた。転ぶだろうと思っても、自分の足で歩かせたほうがいい。危険なものが転がっているわけでもないし、実際に歩いてみなければ、どうやって足を運べばいいのかわかるはずもない。
「ゆっくりな、ゆっくり」
とはいっても、心配なものは心配だ。
オーマはすこし先を歩きながらも、頻繁に足を止めて子どもの足取りを見守った。転んで怪我でもしてしまったら、と内心はらはらして落ち着かないが、そこはぐっと堪える。
何事も経験だ、経験。
自分の心にそう言い聞かせ、危なっかしく歩いてくる子どもを待った。なにしろルベリアの海だ。転んでも優しく受け止めてくれるに違いない。
そう思う一方で、子どもがちょっとでも体勢を崩せば手を差し伸べられるよう構えてしまうのは甘さだろうか。
「おー、ま」
ひょこ、と追いついた子どもが小さな手を伸ばした。白い指がオーマの着物の裾を掴む。
澄んだ目に仰がれ、オーマは心がぐらりと揺らぐのを感じた。思わず屈んで抱きしめる。
「あーもー、ちくしょう、かわいいなー」
頬を摺り寄せると、子どもが不思議そうに目を開いた。
「おーま?」
「はっ! いかんいかん、いや、いかんことはないな、うん。いや、そうだ、もうちょっとで丘だな。うむ」
「あるく?」
「そうだ、歩くぞ〜。もうちょっとだからな、頑張ろうぜ」
「うん」
不釣合いなふたつの影が手を繋ぎ、丘へと歩いていく。
そのさまを見守るように、さぁ、と花弁が微笑んだ。
事のはじまりは数刻前に遡る。
昼よりすこし前のこと、エプロン姿のオーマは意気揚々と通りをスキップしていた。道行く顔に暑苦しい挨拶をしつつ、家路を急ぐ。
肌寒い風もなんのその。買い物で思っていた以上の収穫をあげたオーマの心は、冬を通り越してまさに春爛漫だった。
三角巾にフリルのついた可愛らしいエプロン、生活臭たっぷりの膨れた買い物袋。それが他の者ならいざ知らず、巨躯を誇る強面の男と一緒となるとなにやら異様な光景へと変貌してしまう。
だが、本人はそんなことにはすこしも構わないようだった。機嫌よく鼻歌を響かせ、足を運んでいく。
ふと。
ふらりと前に現れた姿に、オーマは慌てて止まろうとし――たが、一歩間に合わずまともにぶつかってしまった。
「――っ!?」
「おわぁ!?」
体格差だろう。オーマはその場に踏みとどまるも、相手は弾かれて舗装された道の上に倒れこむ。ふわり、と薄絹が虚空に踊り、淡い色合いの髪が視界に映った。
「ちょっ……おい、大丈夫か!?」
オーマは買い物袋を放り、駆け寄った。人命第一なあたりはさすが医者と言うべきか。
「おい!」
己と比べるとあまりに華奢な体を見下ろし、オーマは相手の状態を確認する。幸い頭は打っていないようで、小さく息を吐く気配がした。
十三、十四歳ほどだろうか。手触りのいい刺繍入りの衣服に身を包んだその姿は、オーマの記憶にはないものだ。
「……ごめ、……なさい」
両手をついて上体を起こした少女は、申し訳なさそうにそう呟いた。
「いやいや、無事ならいいんだ。俺も前方不注意だったしな。怪我はしてないか?」
「……平気、です」
オーマは立ち上がった少女の服についた埃を軽く払ってやる。
少女は俯き、なにかに怯えるように表情を硬くしていた。
「これでよし、と。……どうした?」
「…………」
「痛かったか? それともだれかに追われてるのか?」
思わずそう問いかけてしまうぐらい、少女の様子は尋常ではなかった。肉食獣に怯える小動物のような様子で、オーマは眉をひそめる――まさか、それが人見知りの激しい少女をさらに追い込む己の外見のせいだとは微塵も思っていない。
「い、いえ……」
「そうか? なんか嫌なことでもあったか?」
「……そ、の……」
「おう、なんだ。なんでもいいぞ、どーんと言ってみろ!」
少女の細い指がオーマの背後を示す。
「……あれ、あなたのですか?」
「ん?」
くるり。
少女の視線を追うように振り向いたオーマは、次の瞬間に「おぁあ!?」と奇声をあげた。
愛しい妻と娘のために、と買い込んだ服やら日用品やらが見事に路上にぶちまけられている。そういえば、記憶の片隅に買い物袋を放り出した覚えがあるような。
「いかーんっ! まいすうぃぃいいーとなハニーたちへの貢ぎ物がぁっ!!」
身を転じたオーマは、大慌てで散らばった品々を回収していった。土埃を丁寧に払い、ひとつひとつ疵がついていないかどうか確認していく。汚れたものでも渡そうものなら、間違いなく愛情たっぷりの刃や足蹴りが飛んでくるだろう。他人の命を救う前に自分が死んでしまう。
少女は、そんなオーマの姿に最初こそ呆気にとられていたが、やがて、我に返ると自らも屈んで散らばったものを拾いはじめた。
「おお、悪いなっ!」
「……わ、わたしも、悪かった……から」
少女から娘用の上着を受け取り、オーマは買い物袋の中身を確かめる。どうやら無事に全部回収できたようだ。
よし、と立ち上がったオーマに、少女はためらいがちに声をかけた。
「あの……子ども、いるんですか?」
「おうよ」
オーマはにぃ、と笑う。
「ちょうどおまえさんぐらいのがな。これがもぅ可愛くってプリティーでベリーキュートな胸キュン娘なんだな!」
「…………」
「我ながらあんなにラブリィ筋な娘はそういないぜ? まさに可憐な一輪の花! 花に群がる悪蜂どもがいるかと思うといてもたってもいられ……はっ! もしやこうしている間にも……!?」
「……あの……」
「あぁああいかんっ! いかん、いかんぞそんなことはっ! こうしちゃいられねぇっ! さっそく悪筋退治にゆかねばっ!」
「あ、あの……」
「よぉし、待ってろよッ!! 今助けに行くからな!」
「――あのっ!!!」
少女が勇気を振り絞って発した大声に、さしものオーマも動きを止めた。道行く人々はオーマがあらぬ妄想をしている時から何事かと見守っていたのだが、当の本人はそんなことには気づいていない。
少女は自分のしたことに気づくと、かぁ、と頬を染めて俯いた。
「す、すすすみません、ご、ごごめんなさい……っ」
「あー、いや、なんか知らんが悪かった。……なにか言いかけてたよな?」
「え、ええと、はい……あ、あの」
「おう」
「…………」
少女は口を噤み、思案するように押し黙る。やがて、決意したようにオーマを仰いだ。
「お願いが、あるんです」
「お願い?」
「はい。聞いて…くれますか?」
オーマは何度か瞬くも、構わないぞ、と頷いた。なにやら困っているようだし、助け合いは近所づきあいに必須の条件。腹黒主夫として見過ごすわけにはいかない。
少女は安堵したように息を吐き、呼吸を整えた。
「……わたしは星の花といいます。あるお方の使いでまいりました……」
星の花は言葉を選びながら、慎重に口を開く。
一風変わった名の少女が仕えている主人は、曰くつきの品を集めるのが趣味であった。
水を張れば恋しい人の姿を映すという水鏡や虹の滴で染めた羽衣、夜毎涙を流す絵画、死を招く宝石。
数え切れないほどの収集品のひとつに、こんこんと眠り続ける魔法人形の卵がある。
かつての名工が生み出したというそれは、身近にある人の想いを受けて成長する不思議な人形。
心も姿も、受けた想いによって色とりどりに変化するという――
「……その子を育ててほしいんです。成長しきったときに、迎えにいきます。その……お礼も、そのときに、必ず」
なかば嘆願するような眼差しで、星の花は両手を組んだ。引き受けていただけませんか? と自分より遙かに背の高いオーマを見つめる。
対するオーマの答えは簡潔そのもので、
「いいぜ」
とあっさりと請け負った。
あまりの返答の早さに、星の花は驚いたように目を丸くする。肯定されたというのに、心なしか声が上擦っていた。
「い、いいんですか?」
「おう。親代わりになってくれ、ってことだろ?」
「は、はい」
「なら問題ねぇよ。こう見えてもちっこいのは好きなんだ」
面倒見の良さには定評がある。なにしろ、家にはどこで引き取ってきたものやら、動物をはじめ怪しげな人外がうようよしているのだ。
間違っても親の鑑だ、などとは豪語しないが――かつて妻子を失ったと思い込み、悲嘆にくれた日々もあったのだ――少なくとも、誰の目から見ても世話好きな親馬鹿なのは確かだった。
「で、その子はどこにいるんだ?」
「あ、は、はい……ご案内します」
星の花はきょろりと視線をめぐらせ、適当な建物の扉に手をかけた。かちゃり、とノブを回す。
「おいしいか?」
不器用にポテトサラダを挟んだサンドイッチを頬張る子どもに、オーマは目じりを下げながらそう問いかけた。
ゆるやかな丘の上に陣取ったふたりの前には、広げられた風呂敷包みと家族サイズの弁当箱が置かれている。二段重ねだった弁当箱の一方にはサンドイッチが、もう一方にはサラダや揚げ物、炒め物などなど、さまざまな料理が少しずつ詰められていた。
どれも微妙に形がいびつだったり詰め方が下手だったりするのは、なにもオーマが手を抜いたからではない。なにもかも初体験の子どもと一緒に作ったからだ。
オーマの言葉に素直に耳を傾け、一生懸命手伝ってくれていた姿を思うと知らず笑みが浮かんでくる。
「おい……し、い?」
意味がよくわからないのか、頬にパンくずをつけたまま子どもが首を傾げた。食べること自体慣れていないのだろう。そうしている合間にもぼろぼろと具材を零すので、オーマが手を伸ばして助けてやる。子どもの胸元にはあらかじめナプキンが広げられており、服を汚すことはなさそうだった。
この子どもは外見こそ五歳ほどだが、中身は一歳にも満たない。あのとき、星の花が導いた部屋にひとりぽつんと座っていたのは他ならぬこの子だった。
人の気配がひどく薄く、体温がないらしいこと以外はごく普通の子どもと変わらないように見える。けれど、星の花はたしかに魔法人形だとオーマに告げた。
とはいっても、食事はできるし、新陳代謝もあるという。なによりこうして向き合っていると、”作られたもの”だとはとても思えない。
「おいしい、っていうのは……そうだな。俺はおいしいぜ。なにしろおまえと一緒に作ったやつだしな」
「おいしい?」
「おう、すっげぇおいしい。うまい」
言いながら、オーマはサンドイッチを頬張り、にぃ、と笑う。
その様子に子どもはこくりと頷いた。手に残っていた欠片を口に入れ、前もって言われていた通りにしっかり咀嚼する。頬も手も零れたパンくずや具材で汚れていたが、それらを気にしたふうもなく、サンドイッチを飲み込むとオーマを見上げた。
「――おいし、い」
「おう。そうかそうか」
オーマは嬉しそうに目を細め、やや乱暴に子どもの頭を撫で回す。
子どもはくすぐったそうに首を竦め、一瞬だけ微笑のようなものを過ぎらせた。その色の薄い目に、ほんのり朱色が滲んだのは気のせいだっただろうか。
「アイエル、たっぷり持ってきたからな。好きなだけ食えよ。俺が取ってやっから」
「うん」
アイエルと呼ばれた子どもは素直に頷いて、オーマが小皿に取り分けてくれた料理に手を伸ばした。スプーンもフォークもまだうまく使えないから、自然、オーマが手伝ってやる形になる。握り方を教えると、棒を掴むように柄を握ってそろそろと口に運んだ。
オーマ自身もアイエルのペースに合わせてゆっくりと昼食を進めていったが、どちらかといえば、やはりアイエルの世話が中心になる。ときには食べさせ、ときには料理を取り分け、ときには汚れたアイエルの頬を拭ってやる。アイエルが料理を零しても怒鳴ることはなかったが、取り分けてやった分を完食すると、これでもかというほどに褒めちぎった。
「おーま」
「おう」
時間をかけて綺麗になった弁当箱を片付けながら、オーマがアイエルへと目を向ける。
アイエルはちょこんと座り、風に散る花弁を眺めていた。風が吹くたびに髪が揺れ、大気に溶けてしまいそうに見える。
「うたが、きこえる」
「歌?」
「うん」
オーマは鳥でもいるのだろうかと耳を澄ますが、聞こえてくるのはさわさわと花園を撫でる風音ばかり。
首を捻るオーマに、アイエルは不思議そうに視線をやった。
「きこえない?」
「んー? どんな歌だ?」
小さな指が花の群れを示す。風がすいと吹くと、花弁がいっせいに空へと踊った。
「また、きこえた」
「んん?」
風が吹くたびに、アイエルは目を細める。
オーマは最初なんのことやらと首を傾げていたが、やがて、「あ」と気づいた。
さらり
さらり
うつろう色の花弁が揺れるたびに響く、涼しげな音色。
耳に心地よいそれは、まるで歌うよう。
「きこえた?」
「――おう。ばっちり聞こえたぜ」
そう答えると、アイエルはすこしだけ嬉しそうに――気のせいだとしても――見えた。
オーマは思わず小さな体を抱き寄せて、がしがしとその頭を撫でる。不思議そうに見上げてくるさまに目じりを下げた。
「よぉし。腹も膨れたことだし、遊ぶか!」
「あそ……ぶ?」
「おう」
オーマはアイエルを下ろして立ち上がると、まずは食後の軽い運動、とばかりに気合を込める。
「ふんっ!!」
勇ましいかけ声とともにポーズを決めれば、オーマを囲むように咲いていたルベリアが眩く輝いた。それはオーマを中心に波紋のように広がり、美しく煌めく。
「はっはっは、どうだ!」
オーマが胸を張ると、アイエルが「わぁ」と声を漏らした。
「きらきら、いっぱい。おーまがやったの?」
「ふっ、これくらい朝飯前だぜ!」
「? ごはん、さっきたべたよ?」
「お、これは一本取られたな! ははははは!」
機嫌良く笑うオーマに、アイエルが首を傾げる。
オーマはそんなアイエルの頭を撫でると、促すように背を押した。
「さぁて、なにして遊ぼうか?」
さぁ、と花が歌う。
軽く疲れた体にひんやりした風が心地よく、オーマは目を細めた。
遙かな天に雲が流れ、花弁が彼方を恋うように飛んでいく。
花の海に埋もれ、あるいは花弁を追いかけるように駆け回って。ルベリアの珍種を見つけては笑い、なにを見つけたのか、不思議そうな視線にぶつかれば言葉を返す。ことあるごとに小さな体を抱きしめ、ぬくもりのない体にせめて自分の熱が伝わるようにと祈った。
最初はただされるままだったアイエルが、自分から興味深げに足を踏み出したのはいつだったろう。なにを言わずともオーマを追いかけ、ときにはオーマの声も聞かずに不器用に走っていく。
おーま、と両手を伸ばしてきたそれが、抱っこをせがんでいるのだと気づいたのはつい先刻のこと。
表情はまだ乏しいが、それでも、目にはすこしずつ色が浮かんできたような気がした。
「いーぃ天気だ」
オーマが大地を背に空を仰ぐと、腹の辺りで小さく動く気配がする。オーマの鍛えられた腹に頭を預けたアイエルが身を捩ったのだ。
「おーま」
「おう。どうした? アイエル」
「おと、きこえる」
「音?」
「うん」
きゅるぅ、とアイエルが細く鳴くと、オーマは合点がいったように笑った。
「そりゃ腹の音だ。消化中だな」
「しょう……?」
「食べたモンがいい具合にエネルギーになってんのさ。おまえの腹も鳴ってんじゃねぇか?」
「? きこえないよ」
不思議そうな声に、オーマは笑って横臥したままアイエルの体を抱き込んだ。小さな体を胸板に置き、よしよし、と頭を撫でてやる。
アイエルは最初のように熱に怯える様子もなく、撫でられるたびにかすかに目を細めた。
「俺も自分の音はなかなか聞こえねぇなぁ」
「そう、なの?」
「そーゆーもんだ」
「ふぅん……」
興味を失ったのか、ほかのことに気を取られたのか。アイエルは視線を動かし、天を仰いだ。
「……うたってるね」
さらさらと聞こえる音。
「そうだな――この花、気に入ったか?」
「きに、いっ……?」
「うーむ……なんというかな。好きとか、嫌いとか、な」
「…………」
「……俺はこの花が好きなんだ」
偏光色の花――かつてはルナリアと呼ばれていた不思議な花。
人の想いをその色に映すその花弁は、もとはこの世界にはないものだった。オーマや、オーマに関わる人々がかの世界から流れてきた頃なのだろうか。ゼノビアからこの世界へと運ばれた花の種。それが、希少ながらもこうしてソーンに根づいている。
あの懐かしい世界で、この花を妻から贈られたのがまるで昨日のことのよう。
「この花を贈ると、その人とは永遠の絆で結ばれる――なんて伝承があるんだぜ」
「……?」
難しいか、とオーマは苦笑した。上半身を起こし、アイエルを膝の上に抱く形になる。
オーマは風に揺れていた一輪をそっと摘み、アイエルの髪に飾ってやった。オーマの想いを受けて優しい慈愛の色にうつろった花が、色の乏しいアイエルを彩る。
アイエルは不思議そうにその花弁に触れていたが、すこしすると手近な花を一輪、引っ張るように摘んで腕を伸ばした。オーマを真似ているのだろう。オーマの髪に、やや不恰好に花を飾る。
その花弁がどこまでも澄んだ清水の色なのを見て、オーマは内心苦笑した。
焦っちゃいけねぇな。
オーマは飾ってやった花を崩さないように、くしゃりとアイエルの頭を撫でる。
「ありがとな」
「……ありが、と」
「おう」
「……おーま」
「ん?」
アイエルがすこしだけオーマの裾を引いた。銀色の双眸が空を仰ぐ。
「いっしょ、だね」
「うん?」
アイエルの視線を追うようにオーマも空を見やった。風が吹くごとに美しい波が空を煌めかせ、繊細な旋律が流れる。
「あいえるも、おーまも、ここも、そらも、いっしょ。るべりあが――かぜがふくと、さぁ、ってなるから。ひとつ」
あきらかに語彙の足りない言葉に、けれど、オーマは意表を突かれたように絶句した。
”そらにも、るべりあ、あるの?”
”あるぜ、きっとな”
オーマがその言葉に込めた想いなど、アイエルは欠片も知らないのだろうに。
戻りたくても戻れない懐かしい場所――ソーンのように懐広く優しいわけでは決してない、かなしい世界。
この天の果てに、あの世界があるのならば、と。
「おーま?」
「…………」
「おーま」
「……あ、あぁ、いや、うん。そう、だな」
不審げに首を傾げたアイエルだったが、すぐに興味をなくしたのか、ぽす、とオーマにもたれかかった。
ねだられたような気がして、オーマは小さく笑う。アイエルを抱きしめてやると、案の定腕の中で安堵したように息を吐く気配がした。
「……おーま」
「なんだ?」
「――るべりあがうたうの、すき」
たどたどしい言葉。
意味を正確にはつかめていないのか、どこか慎重な物言いだった。
「こういうのも、すき」
アイエルが甘えるように頬を寄せてくるのを見て、オーマは思わず目元を和ませる。
「そうかそうか、俺も好きだぜ。あったかいだろ」
「……うん」
囁くような声で、アイエルが溶けるように微笑んだ。
それに呼応するように、ふたりを囲む花弁が淡く柔らかな色に輝く。
「お……」
「? るべりあ、ひかった?」
自分のせいだとは思ってもいないアイエルが、かすかに驚いたような、不思議そうな顔をした。きょろりと周囲を見回し、おそるおそる花弁を撫でる。
オーマは浮かんでくる笑みと喜びを隠しきれずに、口元に手をあてた。
「おーま?」
振り返ったアイエルを見て、その笑みはさらに深くなる。
うっすらと朱を刷いたような淡い桜色が、幼い双眸を染めていた。
モノから命へとうつろう、それはささやかな一歩。
いつか、美しく翼を広げて巣立つのだろうか。それとも。
「なぁ、アイエル」
「?」
「いつか――そん時がきたら、おまえにいいモンやっからな」
「……いい、もん?」
「おう。約束するぜ」
「やくそ…く?」
「約束だ」
「……うん、わかった。やくそく」
どちらからともなく微笑む。
一方は太く、一方は淡く。
オーマはアイエルの小指に自分の小指を絡めて、絶対だからな、と念を押した。
指切りの意味がわからないのだろう、アイエルはきょとんと首を傾げていたけれど。
「おーま、また、きたい」
すっかり日が傾いた頃、帰りがけにそうねだったアイエルに、オーマは「おうよ」と笑ったのだった。
fin.
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●登場人物
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1953/オーマ・シュヴァルツ/男/39歳/医者兼ヴァンサー(ガンナー)腹黒副業有り】
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●ライター通信
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参加PL様へ
大変お待たせいたしました。
参加希望していただきまして、ありがとうございます。
気づけばだいぶ長くなってしまいましたが、いかがだったでしょうか?
雰囲気がすこしでも出ていればよいのですが…。
今回、表面上にはわずかな変化となりましたが、精神的には大きな一歩かと思います。
どんな子に育つのか、私自身楽しみです。
よろしければ、またご参加ください。
度重なる発注、ありがとうございました。
雪野泰葉
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