<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


雪中のキオク


 ――俺のダチが雪原で少年を拾ったんだとさ。男一人の家に子供を置いておくのも難しいからさっさと家に帰したいらしいんだが、肝心の少年が記憶を失ってるらしいんだよ。どうにかならないもんかねぇ、エスメラルダさん。

「あ〜、くそっ。何だって今年はこんなに寒いんだ?」
 暖炉の前で縮こまっていた男は文句を言いながら、薪を投げ込もうと横に手を伸ばした。が、その手が薪に触れることはなかった。
 思わず舌打ちをする。
 あまりの寒さに大きな火をたいていたので、例年よりも早く薪を消費してしまったようだ。重い腰を上げると毛皮をふんだんに使った防寒服を着込み、えいやっと扉を開ける。
 とたんに、肌が切れるかと思われるほどに冷たい空気が頬をさした。
 ぶるりとひとつ、身震いをする。
 かれこれ30年はここに住んでいるが、今年ほど寒かったことは今までにもなかったように思える。
 家の裏にある薪置き場にも数本の薪しかない。男は呪詛の言葉を吐きながらも、吹雪がやんでいる今のうちに近くの林から薪を切り出してこようと手に鉈を持ち、大きなそりを引っ張り出した。
 葉が落ちた林には生き物の姿はない。いや、冬眠しない生き物も多いはずだから、姿を見せていないだけだろう。
 寒さを気にしないようにあれこれと考えながら作業していると、そりは木片でいっぱいになった。
 重いそりを苦労しながら引っ張り家へ向かっている途中、甲高い鳥の鳴き声が響いた。風が凪いでいる今、その声ははっとするほど鮮明に耳に響く。
 空を見ると、猛禽類らしき黒い鳥の影が旋回している。
 ……なにかの様子を窺っているように見える。こんなに寒い時に雪原にいる動物はよっぽど物好きだと思ったが、自分もその中に入るのだろうと思うと無性におかしかった。
 視線を地面に戻し……ふと、何かが目に付いた。こんなに寒いというのに、若々しい緑色の何か。
 そりを手放しそれに近づくと、それは緑色の防寒服を着た人間――しかも、まだ幼い少年であるようだった。
 うつぶせに倒れ、体の上には雪が積もっている。
 少年の周りに足跡がないことから、結構前からこうして倒れていたのだろうと推測できた。
「おい、大丈夫か?」
 身の切れるような寒さの雪原で倒れているのだ。生きているかも怪しいと思いながらも、一応声を掛けてみる。……が、返事はない。
 息をしているか確かめようと少年を仰向けにすると、今度は鮮やかな赤が飛び込んできた。

 少年を家に連れ帰った男は、暖炉の前に毛皮を何重にも敷き、そこに少年を横たえた。
 少年はまだ息がある。血に染まった服を脱がせ傷の治療をしようとしたが、軽い凍傷があるのみで、肝心の傷が見当たらなかった。……返り血なのかもしれないと想像して、思わず身震いをする。
「ッ!」
 小さな悲鳴を上げ、少年が目覚める。怖い夢でも見ていたのだろうか、明るい茶色の瞳に涙をため、天井を見上げている。
「大丈夫か?」
 先ほどの問いを繰り返す。……それしか言葉が見つからなかった。
 ゆっくりと男へ視線を移動させた少年は、そのまま沈黙していた。
 あまり大丈夫ではなさそうなのは、見て分かることだった。その沈黙が気まずかったのもあり、男は質問を変えた。
「名前は?」
 少年は口を開きかけ、そして呆然とした表情になって口を閉じた。
「……分かりません」。

 + + +

 わずかにウェーブがかかった青い髪は、その人物の感情を表しているかのように小刻みに揺れている。というのも、Angelica(アンジェリカ)は全く興味がないどころか、嫌悪さえ覚えるような依頼を押し付けられたからだ。知り合いの聖刻盤使いが急病で依頼を受けられなくなり、彼の頼みで代わりに依頼をこなさなければならない。
 ――以前に借りを作っていなければ、どうしてこんなことをやるというのだ。
 アンジェリカの苛々をさらに煽っているのは、彼の隣で酒を飲むオーマの存在だった。自分が不快だという表情を剥き出しにしているというのに、気にするようでもない。無神経なのか、それとも図太いのか……。
 ――分かった。答えは後者だ。俺のほうを見て、底意地の悪そうな笑みを浮かべている。
 それがますます癪に障ったので、エスメラルダに飲食代を支払いながら冷たく言い放つ。
「人生において時間とは何にも代えがたいものだ。それなのに俺は、こんなところでそれを浪費している」
 それを聞いて、エスメラルダは苦笑するしかない。彼の性格を知っているからそんなに気にならなかったが、今の発言では『黒山羊亭で過ごす時間は俺にとって無駄でしかない』という意味に捉えかねない。
 対して、オーマは余裕そうな笑みを浮かべて答える。
「そうカッカするなって。……俺たちには現場に行くための足が必要だ。それを待っている時間がそんなに無駄かねぇ?」
「無駄だ。俺には空を行く能力がある。それを、キミのために――」
「俺のために待ってるってか? 残念ながら、俺にも飛行能力がある。だが現地は強い吹雪に見舞われてるってことだ。その中を迷わず、正確に、大雪原の一軒家を探せると思うか?」
 彼らは、記憶喪失の少年をかくまっている男――ギャレムの家に行くために、手配した牛車を待っている。
 エルザードの都会部分では牛車などめったにお目にかからないが、今回の牛は寒さにとても強い種類なので厳寒の地域ではしばしば使われているようだ。
 アンジェリカの言うように空を飛んだ方が早いだろう。だが、今の季節にその行為は、強行軍に過ぎる。
 二人はそのまましばらく沈黙し、牛車が黒山羊亭の前に到着しても特に何を話すでもなく、静かに外へ出て行った。
「……あの二人、折り合いが悪いのかしら?」
 エスメラルダがあの二人に……正確には、オーマと、アンジェリカの知人に依頼をこなしてもらえないかと頼んだのだ。それは失敗だったのかと、彼女は心配しているようだ。
「俺はあれで意外と上手くいく気がするけどね」
 客が物知り顔に言ったものの、エスメラルダの心配は尽きなかった。

 + + +

 牛車は意外と速く雪原を突き進む。
 いや、それはそもそも牛車と呼ばないのかもしれなかった。何しろ、牛が引いているのは車ではなく、幌のついた大きなそりだったからだ。訂正するのであれば、それは『牛橇』といったところか。
 幌のついた橇の中は直接外気にさらされているよりはましとは言うものの隙間風が完全に防げるはずもなく、かなりの寒さだ。
 ギャレムの家には、翌日の早朝に着いた。
 そこは隣家など見当たらない、こぢんまりとした狩猟小屋のようなものだった。生活するのに最低限の設備しかない。
 そりから降りた二人は、飾り気のない扉の前に立ち、しばらく沈黙していた。
「アンジェリカ、だったな?」
 オーマの問いに、返事はない。二人は吹雪の真っ只中にいたので返答が聞こえないだけかというと、そういうわけでもなさそうだ。
「お前、少年の前では嫌でもそんな顔をするんじゃねぇぞ。それができねぇなら帰ってくれ」
「なら、俺は整形するか生まれ変わるしかないようだな」
 その答えに満足したのかは分からないが、オーマは扉のノッカーに手を伸ばし、風の音に負けないよう、強めに二度叩く。
 ほどなくして、細く開いた扉からひげ面の男が現れた。
「……入れ」
 小屋の中は寒風吹き荒ぶ外と違って暖かかった。狭い部屋の奥にはレンガでできた暖炉があり、今まで銀世界を通ってきた二人にとって、赤々と燃える大きな火は命そのものであるかのように鮮やかに映る。
 少年は、暖炉のすぐそばにある大きなベッドに、寝息も安らかに横たわっていた。部屋の隅には使ったばかりの寝袋が転がっているので、男が自分のベッドを少年のために明け渡したのだろう。
「スノウ、起きろ」
 ギャレムが少年を優しく揺すると、一拍の後、少年は大きく息を吸って目覚めた。
「……ギャレムさん」
 まずギャレムの顔を見た後、彼の後ろにいる男と少年を見て目を瞬かせる。
 ギャレムは少年を暖炉の前の椅子に連れて行くと、ひざに暖かい毛布をかけてやり、温かい飲み物を出そうと食器を取りに行く。
 そこで、オーマの疑問のまなざしに気がつく。
「何だ?」
「少年は名前も思い出せないんじゃなかったのか?」
「そうだ。『スノウ』ってのは俺が名づけた。名前がないんじゃ居心地が悪いだろう」
 金属でできた大きなカップを棚から出し、小さな実を入れた。それは乾燥させた赤黒い実で、暖炉にかけてあった鍋から湯を注ぐと、甘酸っぱくよい香りがたちこめた。
 スノウはそれを受け取ると、少し吹き冷まして飲んだ。
「……おいしい」
「そうか」
 ギャレムはそっけなく答えると、スノウから少しはなれたところにあるテーブルに二人を招き、座るように言った。
「で、具体的にどうするんだ? どうすればスノウの記憶が戻る」
 はるばる訪ねてきた二人に茶も茶菓子も出す気はないらしい。自分もどっかりと椅子に座り、二人に尋ねてきた。
「まずは、スノウが倒れているときに着ていた服を見せてくれ」
 ギャレムはスノウが自分たちの方を見ていないことを確認し、足元にある木箱から明るい緑色の防寒服を取りだした。
 それを受け取ったオーマは、わずかに目を細めて服に手をかざす。
 すると、血が付着した部分が陽炎のように揺らめいた。
「一体何が分かるんだ?」
「この血が、魔性のものであるか否か。いま具現波動を当てたら相反作用が起こったから、普通の血である可能性が高いな」
 服についた血痕をためつすがめつ見ていたオーマは。あるものに気がつく。
「スノウには、本当に傷がなかったのか?」
「俺の目が信じられないってか」
「……あるいはそうかもしれねぇな。『これ』を見たんじゃあ、疑いたくもなるってもんよ」
 そう言ってオーマが示したのは、防寒服に開いた大きな穴だった。血で固まっているので穴がふさがりかけていたが、服を軽く左右に引っ張ると、ぱりっという軽い音をたてて穴が露出した。
「美しい……真紅の薔薇の魔術だな。はてさて、獲物は刃物か獣の爪か……」
 赤黒く固まった血に魅せられたようにじっと見つめながら、それまで何も喋らなかったアンジェリカが呟く。
 彼の言うとおり、服の右胸から左腰にかけて開いた穴は鋭利なもので裂かれたものだった。血がその穴を基点とするように広がっていることから考えても、スノウがこの服を着たまま傷つけられたことは間違いがなさそうだ。だがギャレムは、その肝心の傷はなかったという。
「うっすらとでも、傷は残っていなかったんだな?」
「そんなに疑うんだったら、自分の目で確かめてみろ」
 念を押して訊ねるオーマに怒ったように言うと、あごでスノウの方を示す。
 オーマはアンジェリカを窺い見た。
「アンジェリカ――」
「外見年齢が近いから仲良くなれるという発想か? 俺は役者でも道化でもないんだがな」
 アンジェリカの実年齢が外見年齢の数十倍あるのは分かっていたが、ここまで厳しく拒絶されるとは思わなかった。
 軽く肩をすくめると、携帯してきたかばんの中からピンク色の包みを取り出した。
「少年! 腹が減ってたらまともにモノを考えるのだって難しい。ここはひとつ、俺お手製の『下僕主夫特製極寒もギラリマッチョモエモエ悶え筋弁当』を食してみねぇか?」
 二メートルを超える巨漢のオーマは、椅子に座ったスノウに合わせて床に座り込むと、やっと視線が合った。
 最初スノウは巨漢のオーマを怖がっているようだったが、彼が人懐こい笑顔を浮かべるのを見て、つられるように微笑んだ。鼻や頬の一部分が凍傷のために赤黒く変色しているのが痛々しかった。
 オーマが元気な掛け声と共に弁当箱のふたを開けると、そこにはファンシーワールドが広がっていた。
 唐辛子の馬が千切りキャベツの草原を駆け回り、りんごのウサギがブロッコリーの林に隠れている。……無論、それらは実際に動き回っているわけではない。
「味の方にも自信ありだ! ほら、遠慮せずに食え食え!」
 スノウがゆっくりとだが弁当を食べるのを、オーマは嬉しそうに見守る。
「……そんな手懐けるようなことをしなくとも、問答無用で服を捲ればいいものを」
 それを少し離れたところで、アンジェリカが不機嫌そうに見ている。だが、見ているだけで仕事をしないわけにもいかない。このままの調子では、いつエルザードに帰れるか分かったものではない。
「しかし、人間にはまだ分からないところがあるな。俺が死にそうな生き物を見つけたら、見殺しにするか傷を抉ってやるところだ」
 懐から聖刻盤を取り出すと、盤に集中しようと深呼吸を繰り返す。
 その様子をギャレムが興味深そうに見ているが、意識的にその存在を追い出した。
「聖刻盤よ。こいつの記憶を示せ」
 白木の枠に囲まれた黒色の石盤は、ゆっくりと表情を変えていく。次第に、黒い面にはミミズ腫れのような文様が浮かび上がり、文字となっていく。
「……兄弟の裏切り……血塗れた家からの逃亡劇……彼の地では時が一瞬で過ぎる……大切なものは苦痛に満ち、銀世界に埋まる……」
「……それで何か分かるのか?」
「すぐには読み取れない。が、聖刻盤は真実のみを描き出す。聖刻盤が真実ならざることを映すとしたら、それは太陽が西から昇ると同時だろう」
 ギャレムを適当にあしらいながらも、頭は聖刻盤に浮かんだ文字を理解しようと素早く回転している。
 服についていた血、そして鋭利なものによる損傷。
(兄弟に斬られ、そのまま家にいては危険だったので逃げ出した。だが、『彼の地では時が一瞬で過ぎる』はどういうことだ? スノウが気絶していたことを表すのか……それとも魔術による時間軸の歪みか……。『大切なもの』は家か、それとも記憶か。銀世界は雪のことだろうな……)
 そこまで考えたとき、家の中を冷たい風が通り過ぎた。
「っと、すまん。開けすぎたな」
 いつの間にか、オーマは外へ行っていたようだ。着ている防寒服には雪がついている。それを着たまま暖炉の前まで行ったので、雪はあっという間に溶けて床に滴った。
 それに気づいたのか、防寒服を脱ぐと暖炉の近くにかけ、再びスノウの横に座った。スノウに渡した弁当箱は空になっていた。
「うまかったか?」
「はい、とても」
「そりゃよかった。ところで俺は医者なんだが……やっぱりギャレムの診断だけじゃあ心配だから、ちょいと体を見させてもらっていいかね?」
「お願いします」
 暖炉の前とはいえ服を脱ぐのは寒いに違いないが、スノウはさしてためらいもせず、ギャレムの服をつめたものを脱いだ。アンジェリカはさりげなくオーマの背後に移動する。
 まだ筋肉がついていない華奢な体つきは、暖炉の炎に照らされて妖しく揺らめく。指先や顔などの末端には凍傷があるものの、服に守られていた胴体は滑らかで、きれいなものだった。
 だが――。
「光の加減かもしれねぇが……」
「俺にも見えている。やはり、痕があるな」
 スノウの体には、ごく薄っすらと――ギャレムは老眼が始まっているそうなので見えなかったのだろうが――右胸から左腰にかけて、軽く一本の爪で引っ掻いたような痕があった。
 それは、スノウが着ていたという防寒服の損傷と一致する。
「……このまま安静にしていれば、すぐに元気になるだろうさ。よし、診察は終わりだ。飯も食ったし、あとは寝て体力をつけなくっちゃな!」
 オーマはスノウをベッドに連れて行くと、毛布や布団を幾重にもかけてやり、よく眠れるようにと言って薬を飲ませた。
 ほどなく、スノウは安らかな寝息をたて始める。
「さてと。アンジェリカは何か分かったか? 聖刻盤を見たんだろ?」
「兄弟の裏切り。血塗れた家からの逃亡劇。彼の地では時が一瞬で過ぎる。大切なものは苦痛に満ち、銀世界に埋まる……と出た。解読するには何かヒントがないと難しいだろう。キミは何か掴んだのか?」
「お前が聖刻盤と格闘している間、雪原の動物たちと言葉を交わしてきた」
「それで?」
「スノウが雪原に倒れる前、傷口を押さえて苦しそうに歩いていたこと。倒れるとき、『母さん』と呟いたこと。そして……ここから歩いて五時間ほどのところにあった建物が、一昨日の夜に破壊されたこと」
 アンジェリカはオーマの話を聞きながら、あごに指を添えた。わずかに瞳の輝きが鋭くなったように見える。
 オーマの話は聖刻盤に出た文章ともある程度合致する。一昨日に破壊された建物というのは、聖刻盤に出た『血塗れた家』のことだろうか。
「そこに行ってみようかとも思ったんだけどな。残骸はすでに吹雪で埋まっているらしいから、それを掘り返すのも時間がかかるだろ? だからここは、具現精神同調でスノウの夢に介入してみようと思う」
「ハッ! キミのような人のことを、器用貧乏と言うんだろうな」
「かもな。ま、役立つならいいじゃねぇか。アンジェリカ、お前は入るだろ? ギャレムはどうする」
 話を振られて、ギャレムはぎくりとしたようだ。
「俺は遠慮しとく。人の夢に潜るなんざ、趣味がいいこととも思えんしな」
「それもそうだな。ちなみに同調時のリスクは全て俺が負う。スノウに負担がかかることはないから、安心してくれ」
 スノウに睡眠薬を飲ませたのは、精神同調の途中で彼が目覚めないようにという意味もあったようだ。
 オーマは眠るスノウの横に立つなりアンジェリカの肩を荒々しく抱いたので、アンジェリカは面食らったようだ。慌てて振り払おうとするが、力でオーマに勝てるはずもない。
「一体、何を……!」
「精神同調に誰かを同行させるときは、同調を解く瞬間までその者と接着していなけりゃならねぇんだ。お前の場合俺が掴んでないと、途中でスノウの精神世界の中で迷子になりそうだしな」
 アンジェリカはわずかに赤面したが、何も言い返さなかった。動器精霊であるアンジェは人の感情に同調することが苦手なので友人も少なかったが、オーマのように強引な性格の人物は嫌いでもないようだ。一番嫌うのは、優柔不断な者と、時と場合によってくるくると立ち位置を変える者なのではなかろうか。
「じゃ、行くぞ」
 オーマがスノウの額に手を置くと、二人の視界がじわじわと闇に飲み込まれていった……。

 + + +

 白で統一された、清潔感溢れる空間だった。いや、壁や天井のみならず、廊下にポツリポツリと置かれた椅子やカウンター、そして吐く息まで真っ白なのは、執念とさえ言えるかもしれない。
 長い廊下の両側には白い扉が規則的に並んでおり、扉に番号が振っていなければ、廊下を歩く者はそこが無限に続くと錯覚したかもしれない。それほど廊下は長く、変わり映えがなかった。
 それらを移す視点は、上下に揺れながら前進している。
 ――突然、正面から数人の男たちが走ってきた。彼らは同様の白衣を着込み、顔は靄がかかったようにはっきりしていない。
 だが慌てた様子の彼らの顔は青白いのが分かり、その白衣には、全てが白い空間の中では眩暈がするほど強烈な赤が散っている。
 彼らが横を通り過ぎた直後、これまた唐突に、目の前に廊下の終わりが現れた。大きな観音開きの扉は完全に閉まっておらず、扉の向こうから吹く風のせいで揺れる扉は、中に入ってこいと誘っているように見えた。
 扉は音もなく開いた。
 扉の中は研究所のようだった。白い机には液体が入った試験管が並び、何に使うのかは分からないが大掛かりな機械がいくつも並んでいる。
 『それ』は部屋の一番奥にあるベッドを起点としていた。
 『それ』の中心には狂ったように笑う少年と、ありえないような格好で倒れている幾人もの男たちがいた。
 『それ』はまるで、彼岸花のように鮮やかで、妖しく、そして毒々しかった。
 狂ったように笑う少年の手には血塗れたメスが握られている。
 ――いや、血塗れたと言うよりも、少年とメスは血そのものから生まれたとでも言うように、満遍なく赤に染まっていた。
「ははは……。ねぇ兄さん。僕たちは『失敗作』らしいよ。僕たちに、ここまですさまじい再生能力がつくとは思わなかったんだって。はは、笑えるよね。いまさら怖くなって、僕を刺し殺そうとした。何回も何十回も何百回も、全身満遍なく刺された。それでも僕は死なないどころか、気がついたらこいつら皆死んでたよ……。ははは、ハハ。……兄さん、痛いよ、どこもかしこも、痛いよ……あはは、あはハハは」
 狂ったように笑う少年は、血の海の中から生まれたての赤子のように血をまとい、ゆっくりと『こちら』へ向かってくる。
 気がついたときには胸に火傷のような熱を感じていた。そして熱は、体全身を包み込むまでになった。

 + + +

 あたり一面は闇だった。だがその中でも、アンジェリカとオーマは光に照らされたように浮き上がって見える。
「……嫌な光景を見ちまったな」
 アンジェリカの肩を強く抱きしめたまま、顔をしかめてオーマが言う。アンジェリカは喉が渇いたかのように何度かつばを飲み込むと、疲れたような表情で言う。
「今のが、スノウの記憶か」
「そうだ。だが、本番はこれからだぜ」
 そう言われるのを待っていたかのように、二人の目の前にスノウが現れた。緑の防寒服を着て、その胸は血に濡れている。そしてその血はとどまることを知らず、傷口からとめどなく溢れて足元の赤い池を広げていく。
「兄弟の裏切り。血塗れた家からの逃亡劇。彼の地では時が一瞬で過ぎる。大切なものは苦痛に満ち、銀世界に埋まる……か」
 兄弟の裏切り。それは、狂ったように笑う少年に刺されたこと。
 血塗れた家からの逃亡劇。それは、彼らを育て体を改造してきた研究所からの逃亡。
 彼の地では時が一瞬で過ぎる。それは、彼らの再生能力。
 大切なものは苦痛に満ち、銀世界に埋まる。それは、スノウの記憶のことであり、弟のことであり、研究所のこと。
「いっそのこと弟と死のうと思って研究所に火を放った。だけど……気がついたら、赤く燃え盛る研究所を見ながら雪原にたたずんでいた。そこでずっと待っていたけど、弟は来なかった。……僕らは生まれたときから回復力が発達していて、望んで僕らを生んだわけじゃない母さんは、研究所が僕らのことを高く買い取ってくれると知ると、何のためらいもなく売り払った。……僕たちは何のために生まれてきたんだろう? 研究所で体中をいじられて、最後には殺されるために?」
 スノウは悲しんではいなかった。
 怒ってもいなかった。
 ただ、とめどなく流れ落ちる涙をそのままに、問いかけていた。
 そして、アンジェリカが呆れたように言う。
「何のために生まれ、何のために生きるのか? それは多くの生きるものが抱える命題だ。十年そこそこしか生きていない人間に分かるのであれば、誰も考え苦しみはしない。その答えは永きを生きるうちに見つけるものであり、創りだすものだ」
「創りだす……?」
 きょとんとして問い返すスノウ。
「そうだ。……手始めに、残った研究員、それらを探して、自分たちは何のために研究されていたのかを問うてみるのはどうだ」
 すでに面倒臭そうな表情になったアンジェリカに対して、スノウは真面目に考え込んでいる様子だ。
 アンジェリカもオーマも、すでに何百年、何千年のときを生きてきた。それでも彼らが生きる意味を見出しているのかは分からない。
「でも僕……弟のことは忘れたい。あんな姿……思い出したくないよ……」
 再び俯いてしまう。
「今は忘れていいんじゃねぇか。いずれ、大人になったときに思い出してやれば」
 オーマがわしゃわしゃと頭を撫でると、スノウはオーマの胸に飛び込んだ。そうするとオーマの腹辺りまでしかない。あまりにも幼いと、アンジェリカでさえも驚くように見つめた。
「帰ろうぜ。あの寒い雪原に」
 頷く気配。
 そして世界は再び暗転する。

 + + +

 はっと目を開けると、そこはギャレムの小屋だった。
 オーマが大きく息を吐くと、暖炉前でうろうろしていたギャレムがそれに気がついたようだ。
「どうだった?」
 アンジェリカはオーマから身を離すと、ぶつぶつと呟く。
「動物というものは面倒くさいな。血縁関係がどうのこうのと……。豚や牛を食べるときは平気で親子を引き離すのに、おかしなことだ」
 それを聞いて、オーマは苦笑した。
 血縁関係。動器精霊であるアンジェリカには血縁関係がないので分からないだろうが、いまや妻も娘も持つオーマにとっては、血縁関係、強いては家族というものがどういうものか、身に染みて分かっている。
「スノウは一部分をのぞいて記憶を取り戻すだろう。だが、帰る場所はねぇんだ」
「どういうことだ?」
「スノウは母ちゃんに売られた。そして売られた先も、一昨日失った」
 オーマはわざとスノウの弟のことを口に出さなかった。そのことを他人から聞かされれば、スノウはこの上ないショックを受けるだろうと思ったからだ。
 思ったよりも深刻な話だったので、ギャレムは困惑しているようだ。視線はスノウの顔へ据えつつも、ひげをせわしなく撫でつけている。
「じゃあ、スノウはどこへ行きゃあいい?」
「そんなに心配なら、ここにおいてやればいいじゃねえか」
「それは……駄目だ」
 ギャレムは唸るように言った。
「なぜ?」
「俺は人間嫌いなんだ。だから三十年もこんな寂しい雪原で暮らしてきた」
「スノウを嫌っているようには見えねぇけどな」
「……無邪気な子供まで嫌いだとは言わない。だが、こんな辺鄙なところでは、スノウも可哀想ってもんだろう」
「そんなことはねぇさ。優しい大人が一人でもいれば、子供は明るく元気に育つ。な、ここに置いてやれよ」
 ギャレムは快諾こそしなかったのものの、断ることもなかった。頑固だが堅実な彼は、よい父親代わりになるだろう。
「……本当に、人間とは奇怪で面倒な生き物だ」
 アンジェリカの小さな呟きは、激しく爆ぜる薪の音にかき消された。

 + + +

 睡眠薬を飲んだスノウはしばらく起きないだろう。安らかに眠る彼をわざわざ起こすこともなく、二人は帰路についた。
 いつの間にか吹雪がやんでいたので、二人は牛橇を待つことなく、それぞれの翼を使って飛んだ。
 アンジェリカは背中に黒く硬質な翼を生やして。
 オーマはその姿を子犬サイズの、翼が生えた銀の獅子に転じて。
 上空は地上よりも寒かったが、美しい景色を見るとそれも吹き飛んだ。今いる雪原から遠くに見える山脈はきらきらと輝き、それはそれは美しかった。
『雪景色を見ると心が静かになるよなぁ』
「美しいのは認めよう。だが、今はとにかく寒い。ゆっくり飛んでいないで、さっさと帰って温まりたいところだ。こんなところでは熱くたぎる溶岩でさえ凍りかねない」
 銀色の毛が豊かに生えている今のオーマに対して、アンジェリカは毛皮のついた外套を着ているだけだ。裾がゆったりしているので、そこから寒風が入ってきて寒いのだろう。
『やっぱり人間はよく分からねぇか?』
「分からないな。雲のように掴みどころがない」
『そりゃあ、人間もお前に対して同じように感じているだろうよ』
「……掴んでもらおうとは毛頭思っていない」
 その答えにオーマは笑った。
 それもまた、人間も同じことを考えているだろうと思ったのだ。
「ただ……」
 眉間にしわを寄せ、あごに指を添えた状態でオーマのほうを向く。
「何を考え、何を大切にしているのかは、少しだけ分かった気がするな」
『それでいいんじゃねぇか? 少しずつ分かっていけば、上等だ』
 上空からでもエルザードはまだ見えてこない。だが、エルザードの方向に光の柱が見えた。
 雲の切れ間から斜めに差し込む、光の線。
 地方によっては『神の剣』と呼ぶそれに向かって、二人は空を進む。
 そして二人が雪原を抜けた頃、寂しい雪原を閉ざすように、再び雪が降り始めた。
 ――今度は静かに優しく。全てを優しく包み込むような雪だった。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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PC
【1953/オーマ・シュヴァルツ/男性/39歳(実年齢999歳)/医者兼ヴァンサー(ガンナー)腹黒副業有り】
【2774/Angelica/男性/16歳(実年齢427歳)/魔石錬師】

NPC
【スノウ】
【ギャレム】
【エスメラルダ】


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■         ライター通信          ■
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こんにちは、糀谷みそです。
このたびは『雪中のキオク』にご参加いただき、ありがとうございました。
思ったよりもグロテスクに仕上がってしまったので、びくびくしています(汗)。
そして、再び納品が遅れてしまい大変申し訳ありません……!

今回はオーマさんを『大人の男』として描写してみました。
が、シリアスな話だったので、嫌に説教臭くなってしまい、申し訳なく……(滝汗)。
個人的に、スノウやアンジェリカさんを抱いているシーンがオーマさんらしく書けたかな、と思っているのですが、いかがでしょう。

ご意見、ご感想がありましたら、ぜひともお寄せください。
これ以後の参考、糧にさせていただきます。
少しでもお楽しみいただけることを願って。