<東京怪談ノベル(シングル)>
恋せよ、乙女
カツ、カツ、とヒールを鳴らした。
もちろん本人にそんなつもりはないのだが、石畳の上を歩けば抑えようとしてもどうしても音が響く。
その音のせいではないのだろうけれど、時折すれ違う同僚が振り向いているような気もするが、それには気付かないフリを決め込んだ。
――だって一年に一度なんだし、これくらいやってもいいと思うのよ。
しゃんと背筋を伸ばして彼女は歩き続けた。
小さな紙バッグを一つ、片手に持ったまま。
◇
足を飾るパンプスの色はピンクゴールド。ワンストラップで、控えめに花の飾りがついて、トゥが尖っていて。
非常にフェミニンだけれど、どこかキリっとしたイメージのあるそれは彼女に――セフィスにピッタリのものであった。
けれど、それに合わせてスーツなど着てしまうと今度はかっちりしすぎてしまうから、服の素材は柔らかいものにした。
初春を謳うに相応しい、ヒラヒラと風に舞うスカート。足元のピンクゴールドに合わせるように、ベージュ系の花柄のものだ。膝よりもほんの少しだけ下の丈、足が一番綺麗に見えるラインを狙ってみる。
上は差し色に濃いピンクのキャミソールをチラリと見せるようにして、ニットのジャケットを羽織った。このジャケットはオフホワイトだった。ラインが綺麗に出るだけではなく、きちんと防寒対策も出来ている。
いくら初春だといっても、まだまだ風は冷たい。女として決めなければいけない大事な場面で、くしゃみなどして震えながら、この紙バッグを渡すなんてありえない。どうせやるなら、ニコリとはにかんだ笑みを添えて。
そう、服も態度も、決して、決して間違えてはいけないのだ。
時期を待った女性達は、皆が皆このポイントを抑えているはず。だから、それが出来てないとあっては『平均以下』の烙印を押されかねない。
いや――今向かっている先にいる人が、そんなことでそんな烙印を押すとは考えにくいけれど、出来るのなら、抑えていないよりも抑えていたほうが良いに決まっている。
「よし」
何が良いのか分からなかったが、とにかくセフィスは自分自身にそう言った。魔法をかけるのに似ている。自分を奮い立たせる呪文が、今のセフィスにとってはその『よし』だっただけにすぎない。
時は来たれり。攻めるなら今しか無い。
「よし」
もう一度、呟いた。次第に緊張感は高まってくる。
あれに、似ている。丁度出陣するときの、あの緊張感だ。今にも肌が粟立ちそうな、そんな緊張感。脈打つ心臓は、そのペースを少しずつだけれど確実に上げている。
けれど彼女は戦地に赴いているわけではなく――ある意味戦地ではあったけれども。
だれかと戦うわけでもなく――いや、ある意味戦いに行くのだけれど。
『バレンタインデー』という一年に一度の大イベントに、本命チョコを渡しに行こうとしているのだった。
「よし」
呪文は三度目。呟いた時に、自分を早足で追い抜く女性に気がついた。どうやら同じ方へ向かっているらしい。早足は焦りの表れだろうか。
無理もない。目指す人は、女性騎士の間では一番人気のある男性であったから。
見た目に怪我などしないけれど、恋愛は戦いだ。
だからこの緊張感は出陣する時のそれに似ているのだとセフィスは思う。
負ければ血を流す。涙だって出る。
目に見えなくても、心で泣く。もしかしたら見える怪我よりも心の怪我の方がずっと治りが遅いかもしれない。
油断なんて出来ない。
今、自分の隣を歩いていった女性だって、きっと同じことを思っている。
この戦いに勝つならば、先手必勝。
その上で、他の大勢よりも彼に覚えてもらわねばならない。それは相手が人気者であればあるほど、そうだ。
貰うチョコの数が多いということは、それだけ女性も多いということで、だから覚えてもらうには周りと同じではだめなのだ。
目指す人が近づけば、聞こえてくる女性の声も多くなってくる。
「よし。頑張れ」
今年こそ渡すのだ。本命チョコを。絶対に、絶対に。
紙バッグを強く握った。握り締めた。もしかしたら取っ手が切れてしまうんじゃないかしら。そんなことを一瞬思ってしまうくらい、強く強く握り締めた。
一歩近づく。もう一歩。
女性に囲まれているあの人を見つけた。
さっきまで聞こえていたヒールの音なんて、もう全然聞こえなくなった。代わりに自分の心臓の音が、体中に響くような気がした。
それらを振り切って、よし! ともう一度自分に気合を入れて。
そうして足を踏み出した瞬間――。
「え」
あの人が、チラとこちらを見たような気が、した。
はっきりいって気のせいだったかもしれない。
なんといっても女性に囲まれているのだから、こちらを見たのかどうか確認なんか取れるわけもない。
それなのに、もしかしたらあの人の目の端に自分が映ったんじゃないかと思うと、風船のように膨らんでいた気持ちは、途端に割れた。はじけた。
あの女性にまざってチョコを渡すなんて。
思わず足を一歩引いた。踵を返した。くるりと背を向け、今まで歩いてきた道を引き返し始めた。
いやだ、私、何してるの。こら、渡すんでしょ。渡すために来たんでしょ。
こんな服まで用意したのに。はにかんだ笑顔で『貰ってください』って渡すんでしょ。
そのはずだったのに――!
足は言うことを聞かない。戻ろうとしない。さっきとは別の意味でドキドキと胸が高鳴り始める。
紙バッグも強く握り締めたまま。もう、指先だって真っ白になるほど握り締めたまま。
もしも断られたら、どうしよう。
あんなに沢山の女性に囲まれている人なのに。
私が渡したからって、うまくいったり、する?
――もしかしたら見える怪我よりも心の怪我の方がずっと治りが遅いかもしれない。
だから。
怪我を負わないよう、敵前逃亡だって勝つための手段だと知っている。
あぁ、だけれど、これは。
こんなことはただの負け戦だって、それだってセフィスには分かっていた。
もしかしたら急に背を向けた自分を、あの人は何事かと見たかもしれなかったけれど。
それでばっちり印象にだけは残ったかもしれなかったけれど。
そんなことはもう、セフィスには確認さえ出来ないことだった。
◇
「で、結局残っちゃうのよね」
自室の机に置かれたチョコレートは、上品なラッピングを施されている。
丁度今日の服装に似ていて、ピンクゴールドのリボンが華やかに箱を彩っていた。
「毎年毎年」
去年は紙バッグまで入れたけど持っていけなかった。
その前はとりあえずチョコを箱詰めにはしてみた。
その前の前は……エンドレス。
けれど考えてみれば、毎年少しは進歩しているらしい。なんせ今年は、あの人の傍まで行ったのだ。
「……来年まで、恋人つくらないでいてくれるかしら」
相手が気付いていたかいないかはともかくとして、あそこまで歩いていくことが出来たのだから。
きっと、来年こそは。
今回の敵前逃亡は負け戦も同じだ。
けれど相手が変わらずその位置にいてくれるのならば、一年かけて体勢を立て直して、そうしてまた果敢に攻めるのも間違いではないと思う。
セフィスはラッピングを解くと、小さなトリュフを一つ取り出した。
放り込んだそれは甘く、そしてほんの少し苦くて、まるで今の自分みたいじゃない、なんて。
誰にともなく彼女はちょっとだけ笑ってみせた。
了
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