<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


東方の焔

 心臓の鼓動がかまびすしく聞こえる、そんな静けさだけがそこにある夜だ。息が上がっている。あれが近くにいるのだろうか? 少年は右腕をなるべく人目に晒さないよう、暗がりを選んで夜の街を歩いた。右腕が疼いている。痛みが意識と理性を呑み込もうとする。気分が悪かった。影の中で梟の目みたいな鈍色の光が、少年を見下ろしていた。見られている、そう思って何度も振り返る。遠くの方で弦楽器や打楽器の喧噪が、騒ぐことで覆い被さる夜をかき消そうとしていた。そうすることで、自分たちが夜の支配者だと主張するみたいに。
 痛みを和らげる、あるいは傷ついた羽を休ませる鳥のように、少年は酒を求めて彷徨った。どこもかしこも、仕事を終えたばかりの冒険者が集まっていた。その中で少年は身を隠す。闇に紛れて飛び交うコウモリを真似て。
「いらっしゃい」
 返事はしない。血の臭いに気付いたのだろうか。マスターが眉を顰める。カウンターの隅に隠れるようにして座る。マスターが注文を訊き、少年はなるべく度の強い酒を頼んだ。
「やるね。でもその服は見たことがない」
「そうかもしれない」
 声が震えていたのに気付き、語尾を濁す。利き腕ではない方でグラスを掴み、布きれに湿らせ腕に宛がう。視界が歪む、あるいは滲んだ。死んだのではないか、そう思う程の痛みが全身を駆けめぐり、腰の力が抜けた。その痛みを力で押さえ込むように、残った液体を喉へ流し込んだ。同時に吐き気がして口を抑える。
「腕、やられたのか?」
 心臓が締め付けられる。
「はい」
「理由は?」抑揚のない声でマスターが訊ねる。
「焔の影。山のように大きな。イマがそこに」
「イマ?」
「女性」
「丁度良い。そこにいる奴に訊いてみな」

【第三討伐隊二等陸曹より急募】焔の影〈ほむらのかげ〉
 東方の伝説に出てくる実体のない現象。水のある場所では魚の形をし、森のある場所では獣の形をとり、砂漠では鳥の形をとる。その体は一様に山を思わせる巨大な闇に包まれている。頭部には見る者を吸い込むような一つの目。何故、そこに現れるかといった原因は分からない。ただ、ときおり耳を塞ぎたくなるような大声で嘆き、動物を畏怖させ、空を轟かせる。ある一定の時期から各地に出没し、被害は後を絶たない。討伐を求む。

           ******

 その男は街灯の下に散らかった新聞紙を拾い上げてニヤリと笑った。
 瀟洒な看板を施した時計屋と、皮を剥いだばかりの牛をフックでぶら下げていた肉屋の間で、男は石畳に腰かける。幾分か痩せて見えたが、そういった生の物理的な変化から超越しているように思えた。あるいは影が薄いと言ってもいい。
 オセロットは男の傍らでポケットに手を入れる。午前零時の針みたいな自分の影が伸びる。しばらく考えあぐねて、黒革のコートから一つかみの紙幣を取り出し、男の足下へ放り投げる。
 男は煙草の火を灯して、ポケット仕舞いかけた手をとめる。煙草の箱を蝶みたいにひらりと揺すり、姉さん、一本どうだい、と勧めた。
 オセロットは男の勧めを断った。それは嫌煙家だからではなく、ただ単に男の吸う煙草の銘柄が古いのと、口振りが気に入らなかった、ということだけだ。
「つれないな」
 男は転がってきた空き缶を灰皿にして、吸い殻をもみ消す。そしてもう一度、つれないな、と呟いた。しばらく何もすることがなくなったのか、押し黙ったままオセロットが投げて寄越した紙幣をつかみ、煙草の箱と一緒にポケットへねじこむ。
 男は口笛を吹き始める。死んだ作曲家が弾いた鎮魂曲だった。
「何故、私にこの手紙を寄越した」オセロットは言った。
「なあ、あんたは親からバースデイカードをもらったときそう訊ねるつもりなのかい?」と答えた。
 オセロットは黙る。そして、
「私に親はいない」
 とにべもなく言い放った。
「そいつは偶然だ。俺もへその穴がないんだ」男は肩を竦めてから続ける。
「何せゴーストだからね」
 オセロットは小銃を取り出し、男の米神に突きつける。男は銃の方を見向きもせず拾った新聞紙に目を落としている。
「いつから私のプログラムに紛れていた」
「猿はいつから思考し始めたのか、そう聞きたいのかい?」
 引き金を引く。
 男は笑ったまま、さざ波のように揺れて、消え去った。

           ******

 午後三時、気怠い昼だった。
 いつもなら朝の鐘が鳴るころ、近所の孤児たちが教会の裏庭にある畑にやってきて出来たてのハーブや花の育ち具合などを話し合う声で起きるオセロットだったのだが、今日に限って寝過ごしてしまったらしい。どこか調子が悪いのだろうか、病気なんて随分ご無沙汰だったな、などとぼんやり思いつつ布団代わりにしていたコートを蹴り上げて、日焼けしたオーク材の安楽椅子から起きあがると、ペンキの剥げ落ちた床がぎしりと悲鳴を上げた。
 ブラインドの降りた窓を見ると、ヒマワリ畑の黄色い花が陽光に照らされていて、真夏の陽ざしが床に縞模様を落としている。その上を十一月の雪みたいに白いほこりが舞い上がっていて、なかば物置と化したこの修道院室がかつて戦中の病人やけが人を収容するために使用されていた、と誠実なわりには笑えない冗談をよく飛ばす神父が部屋を貸す際に説明していたのを思い出す。
 オセロットは心もち憂鬱な気分を追っ払うように、デスクの上に散らかった書類や本を手で払いのけて、銀色のシガレットケースの蓋を開き、刻み葉煙草の包みを取り出した。茶色い葉の屑を正方形の紙に手際よく移し、紙を丸めて今日の一本目を作る。
「猿はいつから思考し始めた……。そう言っていたな」
 紙巻の紫煙をくゆらせながら呟いたオセロットは夢のなかで、厳密にいえば頭脳内部の情報のやり取りの中で、話した男の声を思い出そうとするけれど、徒労に終わった。強力なセキュリティがかかっているのか、扉が開かない。その先に自分自身に関する重要なことが隠れている、ということだけ何となく分かっているのだが、それ以上進もうとすると焼けた地図の断片みたいに道筋が途切れていた。
 オセロットは深々と溜息をついて、裏庭のヒマワリ畑を眺める。
 手許で音がぱちりと鳴る。燻った灰が音を立てて崩れ、羽を失った蝶みたいに床へ舞い降りていく。
 しばらくしてから思い立ったように立ち上がり、シガレットケースをポケットに入れて、扉の取っ手に手をかける。その扉はオセロットにとって少しも重くもなく、蝶番が調子はずれな音を立てて開くだけだった。

           ******

「女もない、金もない」
 そう言ってから神父はウィスキィを流しのコップに注ぎ、テーブルに端にどっかりと腰をおろした。
「愛もない、夢もない」
 聖職者というにはラフな格好で、はだけたシャツ一枚に農業に使う麻製のスラックスをはいており、頭のてっぺんから足の爪先まで仕事の合間に飲んだくれて何が悪い?≠ニ書いた名札を堂々と首から引っ提げているような男だった。もちろん、律儀に教えを守ろうがこの男の生活が背徳的であろうが、オセロットには興味ないし、そんな名目は彼と付き合う上で、遙か遠い国の偉人が配る名刺と同じくらい関係のないことだった。
「あー」神父は鍋で揚げたばかりのジャガイモのチップスを口に挟みながら、相好を崩した。それから頭にひょいと手を掲げて、
「悪い悪い、お前さんは女だったな」
 と身も蓋もないことを言い出す。
 オセロットは足を組んだまま、適当に開いた聖書のページを下敷きにして銃弾に火薬の粉を詰めている。神父が話すとき、だいたい黙って聞き役に回っているのだが、オセロットがあまり返事をしないものだから彼が業を煮やしてあれやこれやと冗談を飛ばすのだ。呆れて返す言葉もないから、ときおり手を止めて、相槌を打ったり、片眼鏡から見えるだけの聖書の言葉を拾って意味を尋ねるのだけれど、すぐに忘れて作業に没頭することにしていた。
「銃に女ね。酒のつまみくらいにはなりそうだ」
 神父は食卓の片隅で、物言わない石膏像と語り合うようにして、うんうんと一人頷いた。
 オセロットは作り終えた銃弾をポーチにしまって、片眼鏡をテーブルの上に置いた。溜息をつきながら椅子の背もたれに仰け反り、紙巻に火をつけてから、勢いよく天上に吹き上げて、
「夢を見た」と言った。
 神父は虚を突かれたらしく、少し目を丸くさせる。
「珍しいことも言うもんだ。俺はお前さんが夢すら見ない重度の不眠症患者だと思ってたよ」
 と大袈裟に首を傾げて言う。
 オセロットは額に手を当てて嘆息する。
「心外だな」
「どんな夢だったんだい?」
「男が私に手紙を寄越すんだ。何故私に渡したのか聞くと、親からバースデイカードをもらったときそう訊ねるのか? と聞き返された」
「全くもってその通りだ。そういうときはこう返すといい。すごいでしょ、私の親は十二人いて親戚は三百六十五人もいるのよ、ってね」
「口調も雰囲気もあなたにそっくりだ」
 神父は一瞬表情を固まらせてから腹に爆弾でも抱えてるかのように手を当てて、豪快な笑いを一つ残らず喉から吐き出した。
「お前さんの夢の中で俺がお前さんを口説いたのか! しかもラヴレターだって? そいつは愉快だ」
 悪い冗談はよしてくれと言わんばかりにひいひいと喉を引きつらせて目尻に涙を浮かべる。ラヴレターとはひと言も言っていないのだけれど、彼に訂正しても無駄な労力を使うだけだと知っているので、オセロットは黙って首を横に振った。
 二口ばかりウィスキィを口に運んだところで、神父はおもむろにポケットに手を入れて探り始め、何を取り出すかと思ったら便箋を二本指で挟み、テーブルの上に放る。
「愉快ついでに渡しておく。お前さん宛のラヴレターだ」
 オセロットはテーブルの上に添えられた茶色い便箋を摘み上げる。片眼鏡に眉を寄せて、腰からナイフを抜き、封を切る。
『拝啓 キング=オセロット殿』
 几帳面な字でそう始まる手紙の内容はかつてオセロットがかつて傭兵を勤めていた兵舎の曹長からのものだった。手紙を読み終えると、オセロットは便箋と一緒にコートのポケットに仕舞った。席を立ち、コートを肩にかけてから、一通りの装備をせっせと片づけ、身支度をし始めた。驚いた神父が彼女の顔を見上げて、
「惚れた男か?」
 と訊いた。
「違う」
 オセロットはぴしゃりと言って、扉を閉める。
 向かった先は砂漠地帯だった。

           ******

 ときどき赤銅色の砂埃が、突風に煽られたシーツみたいに目の前を通り過ぎていく。砂海近辺の波止場にあるレストラン、そう聞いてもっと豪華なものを想像していたのだけれど、町から随分とかけ離れた僻地にあり、辺りの建物も疎らで、殆どの家の外装は見窄らしい平屋の木造建てだった。
〈ソード&フィッシュ〉と書かれたそのレストランは看板の代わりに巨大な魚の骨が掲げられている。店の前にはブリキ製のドラム缶が並んでいて、溜まった汚水の上に虫の屍骸が浮いていた。他にもオイルや清掃用のモップが所狭しと並んでいる。大分古い女優のポスターが張ってあったり、用途不明な廃棄物の上に漁獲用の網が被せてあったりして酷く猥雑な印象を与える店だった。
 オセロットは両開きの扉を潜ると、柔らかいピアノの音が出迎えた。内装は随分と洒落ている。五つあるテーブル席を囲うように中央にステージがあり、その上で、白いオープンドレスを着たエルフの女性が静かに歌を歌っていた。
 皆一様に歌に聴き入っていて、客の殆どはオセロットを見向きもしなかったが、カウンターの向こうで手を振る青年が見えたのでそこまで歩き、カウンター席の上に座った。青年は蝶ネクタイに黒いベストといった格好で、オセロットを見ると頭の後ろに手を当てて、妙に親しく握手を求めてきた。
「やあ、あなたがキング=オセロットさん?」
「そうだが……」
 オセロットは青年の手を取ると、勢いよく上下に振られた。しばらく何も言わずに呆気に取られていると青年が、
「ああ、ここんとこの爺さんの孫だよ。手紙きてたでしょう?」
 と言った。
「失礼だが、曹長は?」
「うわ、曹長って呼ぶ人初めてみたよ。あ、でも残念だけど、爺さんはいないんだ」
「いない?」
「去年死んだ。まぁ、大分モーロクしてたからね。退役してからずっと魚ばっか捕っててさ俺は砂海の主をとるまで死なない≠ネんて粋がってたけど、急に倒れちゃってそのまま母なる大地に帰還、というわけ」
 青年が拳を振って雄弁に語るものの、何だか忙しない表情からだんだん曇ってしまい、ついには青年は押し黙った。オセロットはその場の沈黙に身を任せて音楽に聴き入る。
「……っつっても、うるさいのがいなくなって寂しかったから、ほら、あの子」
 青年は肩越しにオセロットの後ろを指差す。
 丁度歌い終えたところだった。ステージ上で長い睫毛を伏せたエルフの女性が礼をする。客たちが口笛を吹いたりして立ち上がり、拍手が沸き起こる。
「美人だろう? そうそう、キングって聞いてさ、爺さんみたいなごつい男だと思ってたんだよ。とびきりの美人のお姉さんが拝めるなんて想像してなかったから。いや、驚いたよ、ほんと」
 この青年の物言いは滑舌こそいいが、喋りだしたら止まらない性格らしい、口の中でプロペラでも回しているんじゃないだろうか、そんなことを思いながらオセロットは隣の丸椅子にかけてあったコートからシガレットケースと手紙を取り出す。紙巻を銜えると、青年がここぞとばかりにマッチを取り出して、火を寄越す。
「親父がね、その手紙を見つけて、オセロットさんの名前があったから送ったんだ。亡くなった人間からの手紙なんて気持ちのいいものじゃないだろうけど。まあ、ここまで来てもらったし、爺さんが世話になった礼も兼ねて、一杯傲るよ」
 そう言って青年はカクテルを作りにかかる。オセロットは手紙をカウンターに載せて、その上に銃を置く。
「その砂海の主という魚の話を聞かせてもらえないか?」
 青年はシェイカーを振ってからオセロットの目の前にコップを置き、流れるような手付きで注ぐ。なかなか慣れた仕事捌きだ。
「止めた方がいいよ。手紙に何が書かれてあったのか知らないけど、老人の戯れ言だ。それにアレはやばい。魚なんかじゃないから」
 オセロットはコップに手をつけず、青年の瞳に目を凝らす。視線に気付いたのか参ったな、と言わんばかりに息をついて、腰に手を当てる。
「爺さんそっくりだね。気に入られる理由が分かる気がするよ。とにかく折角作ったんだ。呑んでみてくれよ。話はそれからだ」 
 層になった青と赤の液体がコップの中で綺麗に並んでいる。オセロットは少し口をつけてから、ゆっくり呑み、正直な感想を告げた。
「美味しい」
「まあね。一応、オセロットさんをイメージしたんだ。で、話だけど。その主は魚じゃない、ってところまでは言ったかな?」
 オセロットは呑みながら頷く。
「俺も調べてみたんだ。お情け程度に。うちは漁業で切り盛りしてるから、商売仲間に聞いて回ってみたけど、誰も見た人なんていないんだ。その主ってやつ」
「でも、あなたには分かった」
「そういうこと。王都の方で騒ぎになったらしい。〈東方の焔〉って妙な化け物さ。死人も何人か出てるらしい。そんなのが砂海に出るって聞いたらみんなビビっちゃったりしてさ、うちの爺さんのことをオオボラ吹きなんて言い出す連中も出てきたから、困ったもんだよ。まあ、事実かどうかは置いとおいて、俺が言いたいのはそんなことに首を突っ込むのはよくないってことさ――どうだい? もう一杯?」
 オセロットは首を横に振り、青年の勧めを断った。それから席を立って、銃と手紙をしまい、コートを肩にかける。
「ちょっと待ってくれ。本気で行くつもりなのか?」
 オセロットは答えない。レストランの出口へ歩いていく。
「待った。いいから聞いてくれ。親父が船を出すところだ。そいつに乗っていけばいい。こっちもそれなりの準備はしてあったんだ」
 振り返るとはにかみ笑いを浮かべる青年がキーホルダー引っ提げて後を着いてくる。オセロットの金色の髪は荒野の風が吹き荒ぶ扉の向こうへ吸い込まれていった。

           ******

 着火音が軽快に鳴らされる。
 もうもうと吐き出される黒煙が甲板を包み込み、オセロットは目を瞑って咳き込んだ。合計八本の筒からリズミカルに上下し、噴煙がネズミの子供たちみたいに次々と筒の穴から飛び出ていく。ゴーグルを被った青年がシートに乗り、グリップを回して調子を確かめるが、機嫌がいいのか悪いのか分からない音だけが闇雲に周波数を上げていく。
 青年はエンジンを切り、鍵をオセロットに手渡す。
「エンジン調整は終わったけど、急なもんだからショックアブソーバの調子がいまいちなんだ。大分揺れるかも知れない。あとスロットルを急に絞ると派手に宙返りするから、注意して」
 鍵を受け取ったオセロットは、その魔道具をつぶさに観察する。流線型になったフロントから透明の風防が覆い被さるように流れ、その中央に配線剥き出しの計器が収まり、ハンドルグリップが真横に伸びている。低い車体のシート後部にはサンドボイラーとマフラーが不格好なまま突き出ていて、全体のバランスの悪さが伺える。両サイドのステップから羽のようなエッジが弧を描き、段を重ねるごとに上へ角度を上げていて、飛び立とうとしている巨大な甲虫にも見えた。
「すごいだろ。ストライダーつって魔力を動力にしてるんだ。ハイテクなわりには乗り手を選ぶのに難ありってとこかな。おっと」
 船首が右に傾く。砂の波が左舷に追突して、甲板が揺れた。青年は慌ててへりを掴む。
 流砂がところどころで複雑な流れを作っていて、遠目に見ると砂丘にも見えるが、ゆっくりうねを作ってうごめいていた。風は乾いていて、陽射しも強い。空は雲一つ無く澄んだように青かった。
 キャビンの方で、タオルを額に巻いた筋肉質の男が、無理すんじゃねえぞ、と叫んだ。オセロットは軽く手を挙げて応える。
「もうそろそろ着くころだ。この辺の海域は漁師仲間じゃ滅多に近づかない屍の砂海さ」
 青年がそう言ったとき、お腹の底に響くような地鳴りが突き上げる。青年はうへ、と声を漏らし、慌てて梯子を登っていく。
 遠くの方で砂塵が巻き起こる。リズムを踏むように曲線上で次々と砂埃の塔が立っていく。船が減速し、静かな風が戻ってくる。
「いたいた。でけー、なんだありゃ! そこのシャフトを回して! レールで着水するから」
 見張り台の双眼鏡を覗き込んでいた青年が叫ぶ。
 オセロットはストライダーに跨り、キーを回す。ゴーグルとマスクを被り、固定されたバルブの取っ手を捻るとレールが後ろの方向へ傾いて、降下していく。しばらくしてから腰が浮き、宙に放り出される。船尾の砂が勢いよく噴き上がった。

           ******

「オーライ、こっちは離れる。後は任せた」
 青年が叫ぶとあっと言う間に船は砂海の地平線へ吸い込まれていった。
 乗り心地はそれほど悪くはない。空気の上に浮いているような感じだった。オセロットはスロットルグリップを回してエンジンを吹かし、右足で手際よくギアを変えていく。お尻の下に収まったエンジンの震動音が力強くシフトする。
 急に仰け反り、勢いに肩を引っ張られた。
 驚き、興奮、快感、それらをない交ぜにした感覚。
 風と砂がゴーグルをぱちぱちと叩く。
 汗ばんだ髪の毛の隙間に風が入り込み、乾いていく。
 スカイブルーの空を仰いで叫ぶ。
 気持ちいい、そう思った。
 エンジン音と共に砂が後ろから吐き出される。
 上半身をシートに密着させて、車体を安定させる。
 慣らし運転程度にスピードを上げていく。
 計器の針が軒並み右へ傾いていった。
 視界がバウムクーヘンみたいに中心に寄ってくる。
 キャメルブラウンの砂海が二方向へ流れていく。
 地鳴り。
 こちらに気付いたのだろうか。
 体を傾け、重心を移動させつつカーヴ。
 砂が綺麗に波を作っていく。
 太鼓を叩くような地響きがすぐ傍まで近づいてくる。
 後ろを振り返ると砂の柱が幾つも噴き上がる。
 咆吼。
 Sの字に曲がった黒い影がやや後ろでぬっと顔を出す。
 大きな一つ目と視線が行き交う。
 すぐに砂の中へ潜り込んだ。
 スロットルを全開にしていスピードを上げていく。
 淡い黒の背中の一部が砂上から見え隠れする。
 地竜のような軟体の環形動物を思わせた。
 失速しつつ体を左に倒して、カーヴの中間地点でスピードを上げる。
 餌を見つけた魚みたいに影がオセロットの背中を追う。
 車体が痙攣したように小刻みに震えて砂上を跳ねる。
 オセロットはグリップを捻ったまま、銃を左手で握る。
 安全装置を降ろして、二発。
 ヘドロ上の水玉が敵の表皮で爆ぜる。
 口を真っ二つに裂いて怒り狂う影。
 舌打ちをして、左へカーヴ。
 追い打ちをかける地竜の影がストライダーの後尾に食らいつこうとする。
 急角度のカーヴ、砂上すれすれまで顔を近づける。
 脇越しにもう二発。
 ハローポイントの銃弾が相手の肉を削いでいく。
 それでも勢いを止めない黒い影は執拗に後を追う。
 スピードを上げて失速、Uターン。
 不意を突かれた影が通り過ぎる。
 背後に回って背中に三発。
 沈黙。
 地面に潜ったか、あるいは死んだか。
 オセロットは減速させ、後ろを振り返る。
 咆吼。
 しまった。
 弧を描くように地中から空へ飛び出す。
 グリップを握り直し、スピードを上げる。
 エンジンが唸り、車体が後ろへ傾く。
 揺れが収まらない、体重を前に押し込み、バランスを取る。
 敵が着地、左斜め後ろで砂塵が巻き起こる。
 そのまま一直線に迫ってくる。
 オセロットは諦めて、減速、方向転換。
 真正面から地竜の影が飛び込んでくる。
 グリップに力を入れ、何度も吹かす。
 燻った噴煙がマフラーから吐き出される。
 ブレーキを解除し、一気にスロットルを絞る。
 砂海にのめり込み、弾みをつけて、跳躍。
 空中のロディオ。
 背面、空が真っ逆さまに変転する。
 地竜の影が頭上を縫っていく。
 両手に収めた銃を背びれ目がけて撃ち込む。
 タン、タタン。
 薬室の中の爆発が肘を通って肩へ突き抜ける。
 太陽と青い空が戻ってくる。
 着地、車体の底で砂が荒波を吐き出す。
 体が軋み、頭を計器に打ち付ける。
 額の汗がに瞼に滴る。
 咆吼。
 まだ生きている。
 グリップを握り、スピードを上げる。
 捨て身の攻撃か、一直線に向かってくる。
 オセロットはステップを踏んで立ち上がり、トリガーを引く。
 弾切れ、撃鉄がかちりと虚しい音を立てる。
 舌打ちして、太腿からナイフを抜く。
 スナップを効かせて地竜の眼球にスロー。
 沈黙、口を開けたまま影が静止する。
 生唾を飲む。
 地竜の顔面からひびが入り、ばらばらに崩れ落ちた。火をくべたポップコーンみたいに黒いヘドロが辺りに散らばる。地竜の影の残滓が砂に混じって溶けていく。呆気ない最後だった。
 オセロットは乱れた前髪を払って汗を拭った。
 しばらく放心状態のまま項垂れる。
 シガレットケースから紙巻を取り出しから、火を付ける。
 空を仰いでから、ようやく肺の底から深呼吸した。

           ******

 その男は街灯の下に散らかった新聞紙を拾い上げてニヤリと笑った。
 瀟洒な看板を施した時計屋と、皮を剥いだばかりの牛をフックでぶら下げていた肉屋の間で、男は石畳に腰かける。幾分か痩せて見えたが、そういった生の物理的な変化から超越しているように思えた。あるいは影が薄いと言ってもいい。
 オセロットは男の傍らでポケットに手を入れる。午前零時の針みたいな自分の影が伸びる。しばらく考えあぐねて、黒革のコートから一つかみの紙幣を取り出し、男の足下へ放り投げる。
 男は煙草の火を灯して、ポケット仕舞いかけた手をとめる。煙草の箱を蝶みたいにひらりと揺すり、姉さん、一本どうだい、と勧めた。
 オセロットは男の勧めを断った。それは嫌煙家だからではなく、ただ単に男の吸う煙草の銘柄が古いのと、口振りが気に入らなかった、ということだけだ。
「つれないな」
 男は転がってきた空き缶を灰皿にして、吸い殻をもみ消す。そしてもう一度、つれないな、と呟いた。しばらく何もすることがなくなったのか、押し黙ったままオセロットが投げて寄越した紙幣をつかみ、煙草の箱と一緒にポケットへねじこむ。
 男は口笛を吹き始める。死んだ作曲家が弾いた鎮魂曲だった。
「何故、私にこの手紙を寄越した」オセロットは言った。
「なあ、あんたは親からバースデイカードをもらったときそう訊ねるつもりなのかい?」と答えた。
 オセロットは黙る。そして、
「私の親は十二人いて、親戚は三百六十五人いる」
 と言った。
 男は肩を竦める。そして壊れたように腹を抱えて笑い出した。
「理解不能、理解不能、エラー、エラー、ははははは」
 オセロットは銃を取り出し、男のこめかみに突き付ける。男の形相は歪にゆがみ、怒りや悲しみ、笑いや嘆きが入り混じっていて、その表情は見るに堪えなかった。
「いつから私のプログラムに紛れていた」
「猿……。ハいつカ……ら思考し始め……タノカ、そう聞きたヒ……のかエ?」
 オセロットは微笑む。
「いや」
 引き金に指を当てる。
「答えはもういらない」
 銃声。
 男は苦悶の表情を浮かべ、撃たれた箇所に手を当てる。やがて血の気を失ったようにその場に倒れ込む。
 オセロットは溜息を吐いて踵を返す。
 そこにはもう自分の影は見当たらない。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
2872/キング=オセロット/女性性/23歳/コマンドー

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、吟遊詩人ウィッチです。設定を見て、オセロットさんはどこか放浪しつつあちこち事件に首を突っ込んでいるのだな、教会にたどり着いて偶然泊めて貰っているのだな、と勝手に妄想してしまいました。サイボーグということなので、感情表現をどう出すか難しかったのですが、全体的にハードボイルド風に仕上げてみました。また変な乗り物(ストライダー)に乗って、暴れて貰いました。ファンタジィらしくないかもしれませんが、楽しんで頂けたら幸いです。ではでは。