<東京怪談ノベル(シングル)>


目覚めし心、波打つ

 千獣は不意の出来事に、大きく心を乱していた。
 なぜか記憶がよみがえった。
 よみがえった記憶が――

「………」

 少女は街はずれ、人気のないところにあった山積みの箱の上に腰をかける。
 記憶は閉じる。閉じた記憶。
 ――閉じた?

「そんな、はず、ない……」

 千獣は天を仰ぎ、目を閉じる。
 眉間のあたりに自然と力がこもった。
 ――閉じるはずがない。
 あれは、
 決して忘れることのできない――キオク。

     **********

 何も知らずに生きていた時期があった。

 森で獣たちと過ごした日々。
 何を区別するでもなく喰らっていた日々。
 喰らえば自分の姿が変化することを、まったく気にしていなかった日々。
 「時間」というものを知らず、太陽が昇って沈んで、ただそれを繰りかえすだけだと思っていた日々。
 知っていればいいのは暑い日と寒い日、美味しいものはどれで、まずいものはどれかだけ分かっていればいいと思っていた……

 すべてが一変したのは――「それ」と出会った日。

 日差しの強い日だった。「それ」は、
 赤い血を流していた。
 「それ」の手を見たとき、初めて「食べるもの」以外として興味を持った。
 ……自分と同じ、前脚の形をしていたから。
 今まで見た獣たちに、そんな獣はいなかったから。

 流れていた血を必死で舐めて、介抱した。
 獣仲間に教わった薬草を口移しで飲ませてみたり。
 そして、思った。
 ――血の味が、自分の血と同じだ――と。

 「それ」はやがて元気になった。
 こちらの姿を見て、なんとも言えない表情をして――
 その表情が、何を示していたのかは知らない。ただ、
 不愉快では――なかった。

 +++ ++

 千獣は彼の表情を思い出しながら思う。
(今、は、分かる……あのとき、彼、は、「哀れんで」いた……)
 そう――
 獣も魔も区別なく喰らい続け、半人半獣となってしまった少女を見て、「哀れんで」いた。

 +++ ++

 「それ」はそのまま――自分とともに、森に住み始めた。

 「それ」は、自分をいつも決まった音、声で呼んだ。

 +++ ++

(……せんじゅ。千の、獣の、主……)
 最初の頃はそれさえも聞き取れなかったけれど。
 こんな名前つけるなんて、と千獣は少しだけ笑う。
 ――彼は、どんな気持ちで自分の姿を見ていたのだろう?

 +++ ++

 元気となった「それ」との日々。分からないことだらけ。いつものように獲物を捕まえようとすると怒られた。食べようとしても怒られた。
 きょとんと「それ」を見返していたら、「それ」は……怒った? 違う、困ったような顔をして。
 「それ」は獲物を爪も牙も使わずに、不思議な「道具」と言うモノで裂き、少女に「前脚」を使って食べるように教えた。

 +++ ++

 千獣は自分の体の中に収めてある、護身用の武器を服の上から撫でた。
(……今なら、分かる。あれは、ただの、ナイフだった……)
 両手を見下ろす。
(……今なら、分かる。彼は、ただ、「手」で食べる、ことを、教えようと、してた……)
 呪符を織り込んだ包帯に巻かれた両手。
 あの頃は――
 まだ血まみれ、だったけれど。
 捕らえた獲物を「前脚」で裂いていた、そのために血まみれだった、けれど。

 +++ ++

 何より一番分からなかったのが、声。
 ――「それ」は、獣とは違う音を使った。声を使った。
 聞き取れない声で。
 けれど、何度も何度も「同じ」声を自分に聞かせた。

 +++ ++

 千獣はその頃の彼の表情を思い出す。
(……真似、させようと、したんだ、よ、ね)
 彼は……必死だった。

 よく分からなかった。
 でも……なんだろう。
 「それ」はどこか懐かしい匂いがする……
 あったかくて、懐かしい匂いがする……

 ぎゅっと己の体を抱いて、
(……ずっと前に、こんな匂いに包まれたことのあるような……)
 目を閉じたまま、その感覚を思い出した。

 +++ ++

 だから。
 自分は「それ」が繰りかえす「声」を自分でも言えるように頑張った。
 「それ」が自分の目の前にいないときも、言えるように練習した。
 「それ」は、いつも少女が口をつけてごくごく飲んでいたものを示しながら、何か二つの音を口から出していた。

 たった二つの音を。声を。

 「それ」と同じ音を出せるように、自分は頑張った。
 そして、
 ある日――「それ」がいつもの「飲むもの」を示す前に、自分から前脚でちょんちょんと「飲むもの」を指して、自分は言った。

「み、ず」

 +++ ++

(――とても、喜んでくれた……)
 千獣は耳元に触れる。
 しゃらりと耳慣れた音がした。
(ご褒美、だって……)

 「それ」は、彼女の耳に光る石を飾った。
 よく似合うと笑顔で言ってくれた。

 +++ ++

 「それ」が頭を撫でてくれる。
 よく分からない。
 ――けれど、何だか……

 +++ ++

(嬉し、かった)
 千獣は長い黒髪に触れた。
 かつて……この髪を、優しく撫でてくれた、人がいた……

 +++ ++

 一度コツを覚えると、自分は次々と「それ」の教えようとする「コトバ」を口に出来るようになった。
 「それ」は、言った。

(「お前は、ニンゲンなんだ」、って……)

 +++ ++

 ニンゲン。意味は分からなかったけれど。
 「それ」にそう呼ばれることは、不愉快じゃなくて。

 自分のことを、「私」と呼ぶようになった。

 「前脚」は「手」となり。
 私は「手」でものを食べることを知って。
 奇妙な「道具」は「ナイフ」となり。
 私もナイフを使って、獲物を裂いて食べることを知って。
 「飲むもの」は「水」となり。
 直接口をつけてごくごく飲むのではなく、入れ物に入れて飲むものだと知って。
 四つ足で歩くことの多かった私。
 いつの間にか、「それ」と同じように二本足で立つようになって。

 二人で森の中を駆けた。
 競争した。いつだって私が勝った。
 「それ」は笑いながら、私の頭を撫でた。
 私はぺろぺろと「それ」の頬を舐めてお返しし、「それ」はくすぐったそうに笑った。

 「水」がたくさんたまっているところを見つけると、私はそこへ飛び込んだ。
 「それ」は少し考えた後――
 ざぶん、と自分も飛び込んできた。
 二人で水のかけあいっこ。
 ざばざばざばざば、水がなくなってしまうのではないかという勢いで二人で遊んだ。
 一度、深すぎる水の溜まり場へ飛び込んで、「それ」がごぼごぼと沈んでしまいそうになったことがあった。
 私は慌てて、「それ」の襟首をくわえて引き上げた。

 +++ ++

 千獣は思い出して笑う。
「泳げなかった、んだよ、ね」

 +++ ++

 木の実があった。
 木の実、なんてものは、それまで肉食だった私には縁のないものだったけれど。
 「それ」は器用に木を登って行って、枝葉を揺らした。
 真下にいた私に木の実が降ってきて、こつんこつんと頭に当たった。
 私はお返しとばかりに木の幹を揺すってやった。
 「それ」は慌てて木にしがみつき、必死に謝ってきた。
 二人は、揃って笑った――

 木の実ではなく果物のときは、木を登った「それ」はちぎった果物をぽいと私に投げてよこす。
 私は器用にすべて受け止めていたが、
 ある日我慢ができなくなって、自分で木を駆け登ろうとして――落っこちた。
 全身を強打した。「それ」が大声を上げて私を呼んだ。
 そして木から急いで降りてくると、私を抱えあげて、急いで家に帰る――
 抱えられてあったかくて、心地よく揺れるその感覚が千獣を眠りに誘う。
 眠りかけてしまったことを、気絶しそうだと勘違いした「それ」がますます悲痛に私の名を呼んだ。
 私はいたずら心で、目を閉じてやった。
 そしたら「それ」は、森の中に作った二人の家のベッドに私を寝かせると、必死で看病した。夜の間も眠らずに、ずっと傍にいてくれた。
 私がそろそろと目を開けると、泣いて喜んだ。
 いたずらだったのだけれど――
 それを忘れてしまうほど、喜んでくれた「それ」の笑顔が、私の胸にぽっと火を灯す。 

 今までは名もないケモノ。何の区別もなく喰らい続けたケモノ。
 けれど、その頃には私も分かっていた。

 +++ ++

(私、は――)
 耳飾りを指先で弾いて、彼女はつぶやいた。
「千獣という、ニンゲン」


 ――そう思った。
 思えるようになった。
 「それ」と同じ種族だと分かって、嬉しいと思った。
 思えるようになって――
 そう、きっとあのときの自分は、

(あれが、“シアワセ”、だった、きっと……)

 それなのに――

     **********

 ああ――
 そうだった。……そうだった。
「だから、キオク……閉じたのか、な」
 この先を思い出すことは……
 ああ、胸が苦しい――

 どくん、どくんと波打つ鼓動。
 苦しくて苦しくてたまらない。

「それ、でも……」
 千獣は天を仰いだまま、閉じていた瞳をそっと開いた。
 赤い瞳に、夕焼けが映った。
「忘れては、ダメ……」

 ――その先に、起こった出来事を。