<東京怪談ノベル(シングル)>


心のふりこ、揺れて響いて

 千獣は走っていた。
 逃げるように走っていた。

 ある場所から、最近よく通うようになった場所から、逃げるように出てきて。
 その場所が見えなくなるまで走って――

「……っ……っ」

 人気のない路地に入り、ふう、とため息ひとつ。
「最近……逃げて、ばっかり……」
 以前にも、衝撃を受けてある場所を飛び出してきたことがあった。
 今回も。
「何で……逃げ、ちゃった、ん、だろ……」
 思い出すのは彼の瞳。
 いつも穏やかだと思っていた――彼の瞳。
「何で……見つめ、られる、のが……怖、かった、ん、だろ……」
 ああ、と一瞬くらりとめまいがする。
 彼の瞳。いったい何色だったっけ?
「あの、目……あの……目、が……」

 自分を――優しく見てくれていた、瞳。
 眼鏡をかけたその奥の瞳。何もかも見透かすようなその瞳が。

「今、まで……」
 千獣は自分の体を見下ろした。
 幾重にも巻いた、呪符を織り込んだ包帯……
 それによって押さえ込んでいるのは、自分が体の内に『飼って』いるものたち。
 ……実際には、『飼って』いるつもりなどないのだけれど。
 魔も獣も問わず喰らってきたら、こうなってしまっただけなのだけれど。
 時に――
 自分の姿さえ、獣のようになることがあって、
 獣を超えた、魔のようになることがあって、
 物心ついた頃からそうだった。だから気にしたことはなかった。
 時に――
 力を借り。
 時に――
 自分を内側から喰らおうとするのを、抑えこんで。
 それが当たり前となっていた。

 それが当たり前、となっていたから。

 気にしなかった。人の目など。
 獣へと変化した姿を見られたとき。まるで魔、そのものを見るような目で見られても。
 自分が魔物や盗賊から命の危機を救った相手から、そんな目で見られた時さえも。
 気にしなかったのだ。人の目など……
 自分が人間ではないような姿形をしていることに、自分で抵抗がなかったから。
 そして――ひとりでいることに慣れていたから。
「ばけもの、とか……呼ばれ、ても……そんな、風、に……見られ、て、も……」
 千獣はつぶやいた。
「平気、だったの、に……な」
 平気だった。
 平気だった……はずなのに。

 千獣は彼の瞳を思い出す。
「何で、だろ……彼に……だけ、は……そんな、風、に……見られ、たく……ない……」
 あの優しい声で。
 『ばけもの』だなんて言われたくない。
 あの優しい目つきで。
 ――自分の異形たる姿を、見られたくない。

「見られ、る、のが、怖くて……」

 そう、思った。
 自分でも分からない。理由の分からない心。
 今さら、見られるのが怖い――なんて、思う日が来るとは思わなかった。

「どう、して……」

 千獣は耳元に触れる。
 いつも癖のように触れるのは、右耳にある耳飾りだった。赤い石の……大切な大切な耳飾り。
 けれど今日は、その反対の。
 ――何もない、そこに耳さえあればよかったはずの――場所。

「どう、して……?」

 熱い。
 自分を抱き寄せた、彼の腕。
 彼の唇が触れた、左の耳元。
 熱くて。どうしようもなく熱くて。

「触れ、られる、のが……熱く、て……」

 千獣は大きくため息をついた。
 しばらくの間、呼吸を忘れていたような気がする。

「……本当……何で……かな……」

 この熱さの正体は何だろう?
 まるで心にまで染み渡っているような、この熱さは何だろう?
 心が揺れた。どこに行ってどこに返ってくるのか、分からないふりこ。
 今までに経験のなかった思い。
 何もかも分からない――

 でも。
 ひとつだけ分かっていることがある。

「嫌われ、る、のは、いや……」

 『ばか!』と言って逃げてきてしまった自分のことを後悔していた。
 彼は今どうしているだろう?
 自分に怒っているだろうか?
 ああ、そうだ、

「嫌われ、る、のが、いや……だから、」
 彼にすべてを見られるのが、いやなのだ――
「ケイベツって、言う、ん、だっけ……」
 どうでもいい言葉だと思っていたから、よく覚えていなかった。そんな言葉が今急に重い。
「ケイベツ、され、る、のが……いや……」
 ――でも。
 それだけじゃ……ないような、気もした。
「なに? この、気持ち……なに?」
 熱い?
 それだけじゃない。
 時間が経てば経つほど熱さが強くなって、
 それは理由の分からない高揚感――
「私、私……」
 理由も分からない……この熱さは嫌なもの?
 それとも、嬉しいもの?
「分から、ない……」
 そうつぶやいてみるけれど。
 嫌なのか嬉しいのか、本当は分かっていたような気がした。
「……マケ、オシミって、何だ、ろ……」
 彼が言った言葉。
 千獣の右耳の耳飾りを示しながら、
 いたずらっぽく舌を出して言った言葉。
「彼、は……、何、に、負け、たの……?」
 分からない。
 ……ねえ、
「教え、て……」

 知りたいと思った。
 何を思って、自分にこんなことをしたのか。
 何を思って、自分にそんなことを言ったのか。
 そして、
 自分はなぜ、こんなに……心揺れるのか。

 会いたくない。
 でも、会いたい。
 聞きたくない。
 でも、聞きたい。

 揺れる揺れるふりこ。
 心に響く熱さ。

 ねえ、もう一度会ったときには、
 また穏やかな目で私を見てくれる?

「………」

 左耳が熱い。唇を触れられること。
 そう、ただ唇を触れられただけ。それだけのこと。
 そんな単純なことが、どうしてこんなに……?

 ――かつては、自分であろうと他人であろうと、怪我は舐めて治すものだと――思っていた頃もあったのに。

 そんな自分が唇を触れられたくらいで。
 どうしてこんなに、どうして心揺れて。

 ねえ、教えて……

「本当に……何で……な、の……?」

 彼の顔を思い出すことさえ恥ずかしい気がして、千獣は頭を振った。

「今度……会う、とき、は……」
 ちゃんと顔を見られる?
 その瞳を、怖がらずにいられる?
 その声を、怖がらずにいられる?

 自信が――ない、けれ、ど。

「会わ、な、きゃ……知る、こと、が、でき、ない……」
 知るのは怖いけれど。
 知らされるのは怖いけれど。

「でも……」

 そうだ。もうひとつ分かっていることがある。
 彼のこと、何もかも分からないけれど……信じることは、きっとできる。
 彼の瞳が、自分を絶望のどん底に落としたりしないと。

「だって……私の、こと……怖く、ない、って……言って、くれた」

 彼の言葉が、自分を失意の底に立たせたりしないと。

「同じ、思い、の……」

 彼と自分は同じ思いを抱いていると思った。
 だから、彼が苦しむのは嫌だと思った。
 そうだ――そうだった。

「だから、信じ、られ、る……」

 まっすぐ顔を見ることは難しいかもしれないけれど。
 千獣は顔をあげた。
 左の耳元に触れたまま。

「信じ、させ、て……」

 そして――そっと耳元から手を離した。
 すうと息を吸い、そして吐いた。

「もう、大丈、夫……」

 ――本当はまだ胸が熱い。
 揺れたままのふりこが、心に響く。
 けれど――

「しば、らく……この、ままで、いい……かな……」

 何となくそう思った。
 胸の上に手を置くと、いつもより早く打つ鼓動が伝わってきた。
 少し苦しい。でも心地いいリズム。

 初めてだから。
 ふりこを揺らしたまま、それを感じてみようか。
 ふりこの響きを、感じたままでいようか。

 千獣はそっと目を閉じた。
 胸に当てた手から伝わってくる、鼓動のリズムを感じながら――


 ―Fin―