<東京怪談ノベル(シングル)>
■たゆたう日々■
微睡みとはあまり縁がない。
意識が鮮明になるのと先を争うようにして五感が周囲の情報を集めていく。
生身ではない以上それは機械的なものであるのかもしれないが、活動を始めた人々の声を遠くから拾い上げたり窓辺で囀る鳥の多様な歌を掬ってみたり、その集められた情報はけれどただ処理する対象としての認識からは受け取る当人によって遠ざけられる。
鼓膜をやわやわと揺らす葉擦れの音に合わせて一度瞼を下ろし、開く。
音は建物の外から入るばかりの静かな室内で、ゆったりと、しかし鈍重にではなく彼女は身を起こした。
「今日も、いい天気になりそうだ」
差し込む陽光の鮮やかさに瞳を眇めて片眼鏡に手を伸ばす。
こつ、こつ、と規則的な靴音が床で踊る。
黄金色の、陽の光に更に眩しく揺れる束ねた髪。
皺のない何処かの軍装。伸びた背筋。
いつもと変わらずぴしりとした目覚めの後の洗顔、更衣、それらの仕上げのように汚れとは無縁の片眼鏡を目元に納めればそこで、彼女の一日は外界へと扉を開いた。
キング=オセロット。
数多在る異世界からの来訪者の一人である。
** *** *
かつての職が職であるし、彼女自身の気質もあってかオセロットの行動は弛みがない。
だからといって常に張り詰めているのでもなく、緩急の付け方を心得ている。そんなところだ。
陽の色もまだ薄い早朝に目覚めれば、部屋を出る前に煙草を一服。入手がいささか難しくなった好みの銘柄だが、それでも似た味だとか、逆に新しい銘柄を試してみたりだとか、それらを織り交ぜつつ今も吸っている。
外を歩きながら喫煙などという、マナーの悪いことはしない。
口内にあったその馥郁と豊かな厚みのある紙巻の香りを頭の隅で思いながら、同時に汲み上げたばかりの水に似た清々しい朝の空気を満喫する。
特に頼まれ事もない。
つい先日に依頼を請けていたばかりであるし、積極的に引き受ける程に懐が貧しくもない。
動き出す人々が増えていく中を、石畳を静かに蹴りながら歩いていく。
川面を滑る小船の上に、荷を積み込む男達に混ざって少年が居る様に目を細める。怒鳴られながらも元気良く返事をして駆けては荷を取る姿。
かつての世界よりも人々の空気は長閑で、黒の公国のような相応の危険もあるというのに警戒心も少ない。あくまでもオセロットの生きてきた元の世界と比較して、だとしてもだ。
「あ――っと、ごめんなさい!ありがとう」
「いや」
荷台から落ちた果実が足元に転がって来た。
それを拾い上げ、若い娘に渡して再び歩き出す。
オセロット程の技量であれば宮仕えなりとも容易く望めるだろう。けれど日々の流れ行くままに、ときに依頼を請け、ときに誰かを助け、興味の向いた本を取り、そんな生活を彼女は繰り返している。
ソーンで生きる人々のまとう空気は、その生活にひどく似合っていた。
足を止めて賑わっていく通りを見る。
子供達が駆け、女達がさざめき、男達が重たげな袋を抱えて歩き去る。そんな風景。
季節の移り変わりも様々な場所に小さく現れる。街を散策してはそれを見つけ出すのも楽しいものだ。
人を、街を、自然を、様々なものをただ鑑賞して歩く。
ときにその途上で遭遇する騒ぎを助けたりもするが何事もないまま広場に辿り着いて。
「今日は開いているだろうか」
噴水の近くで携帯灰皿片手に紙巻に火を点けて、しばし風に流れる紫煙を見ていたオセロットはそれが半ば灰になったところでぽつりと言葉を吐いた。
昼には早い。
日によっては読書に費やす分も散策に回した今日は、多少足を伸ばしても良さそうだ。
思い立って向かった先、古い造りの扉はけれど錆び付いた音一つ零さない。
いつだったか、同じように読みかけの本もなく、約束も依頼もなく、ただ世界と人を眺める楽しみに満たされて歩いた日に行き会った店がある。常人ならば曖昧過ぎる記憶に沈んだだろう場所を、オセロットは正確に覚えていた。
弱々しい灯りが店の中心だけを照らし、隅は小さな窓から入る光だけ。
店主と思しき老人が、以前と同じようにランプを手元に置いて細かな作業をして。
「失礼するよ」
静かなオセロットの挨拶にも老人は一瞬瞳を向けるだけで、小さく頷くとまた作業に戻る。
気に留めず、汚れのない床を踏んで足を進める先には大小様々な細工。装飾品。片眼鏡もあるが硝子部分についてはオセロットのものより質は悪い。だがその螺子だとかについては丁寧に留められ磨かれていて、それが老人の手によるものだということを知っている。
孫と思しき子供が以前に訪れたときには掃除をしていた。
危うい手付きながら丁寧に埃を払っていたものだが、それは日常的なことなのだろう。
眺める店内は塵一つなく、とまではいかずとも充分に清潔だ。
片眼鏡を手に取ってみる。
やはりきちんとした仕事振りで、口元が自然と綻ぶのを自覚する。
見るだけで信頼出来る職人というのも嬉しいものだ。
万が一、片眼鏡が傷んだときには駆け込めるな、などと考えながらゆるやかに足を動かして広くもない店内を回る。
静かな空間は、屋外とはまた異なるゆるやかさを感じさせてオセロットの胸の内を安らがせた。
読書に熱中するのとどこかしら通じる寛ぎのあと、扉を開く。
「またお邪魔する」
挨拶を残して去るオセロットの背にしわがれた声で「はいよ」と小さな声。
知らず、それを聞いて微笑んだ。
そうして気に留めた店を再度訪れて、間違いなく良い店だと満足しながら街路を歩く頃には日は中天に。
一分一秒という細かなタイムテーブルはないが、三食きちんとある程度時間を定めて取るオセロットの習慣は、きっと肉体が覚えているのだろう。機械的な意味でなく、感覚として。
雰囲気の良さそうな店を選んで入り昼食を取り、紙巻の味を堪能する。
吸わない人間には解らない、吸う人間には言うまでもない、その充足。
微かに見える橋とその上の人々。立ち止まる者、走り抜ける者。
店員に飲み物を頼んでまた外を見る。ソーンという世界の、そこで生きる人々を眺めては何事かを思い、言葉を溜めていく。まるで日々を綴るように。
それは、かつて日々を送っていた頃にはなかった時間。
運ばれた温かな液体の、香りを楽しみながらとりとめもなく思索に耽る。
行動の時間、その枠組みは作っても内容は定めない。そのゆるやかな日々はオセロットの気質、時間の扱い方、その価値の見出し方にぴたりと当てはまったのだろうか。
縦横に走る大小の川のように流れていく日々。
そういえば河川をテーマにした本が入ると馴染みの店で聞いた。
午後は、それを読んでみてもいいかもしれない。
思い立って茶器を置くとオセロットは席を立った。
** *** *
温かな食事を喧騒の中で取り、戻る頃には道の向こうを流れる川面には月。
囁きのような水音とその揺らぐ月の姿が流れを教える。
自室で寛ぎつつの喫煙もいいが、一日を終えて笑う人々の中でそれを見守りつつの喫煙もいい。外の自然を眺めながらの一服も悪くはない。
そう、悪くない。
この世界の日々、人々を思えばオセロットの表情は優しくなる。
それくらいにはソーンという世界に馴染み親しんでいるのだ。
食事の前に買った数冊の書籍を片手に提げて歩く街路は暗い。けれどオセロットは単なる一般人ではなく、幾つもの依頼を請けては解決している身であるからちょっかいをかける愚か者はいなかった。
むしろ絡まれている娘をさり気なく声をかけて助け出す側だ。
そうして女性が仄かな好意を抱いたりするのだけれど、まあそれは余談だろう。
「――こればかりは、な」
何事もなく帰宅して、また一服。
室内に溢れる香りと灰皿から零れ落ちそうな吸殻の山。
片付けても片付けても築かれるそれだけが、オセロットの生活の中で唯一だろう『だらしなさ』ともいえるものだ。喫煙量に苦笑しながらまた新しく火を点ける。
きりの良い所で栞を挟んだ本を置いて窓際に腰掛けて月を見上げれば、遠く獣の声。
静かな世界は多くの住人を眠りの泉に誘う。
白いながら濃い色味を感じさせる月を見ながら紙巻を一本吸いきると、無造作に灰皿の山に追加した。限界だったらしく崩れ落ちたが、オセロットは再び窓へと顔を向けてから片眼鏡を取り灰皿には意識を戻さない。
――本当は、不要なものなのだ。
柔らかな布で磨く片眼鏡は『伊達』で、サイボーグである自分には意味がない。
けれどそれはきっと、捨ててしまえない何かの一つ。
紙巻と同じで、そして僅かに違う種類の、人であった頃に繋がるもの。
やれやれと苦笑する。その様は困ったものだと誰かを微笑ましく見るのと近く、けれどこれも僅かに違う。確かなのは、そこに否定だとか後悔だとか、そういった色がないこと。
「感傷だな」
まあいいが、と唇を少し柔らかくゆるめてオセロットは呟くと手入れの済んだ片眼鏡も普段通りの場所に置く。きちんと片付けられた軍服。灰皿だけがランプの光の下で吸殻の山を見せ付けて。
明日片付けようと思いながら灯りを消す。
闇に沈んだ室内を窓の向こうから月が控えめに照らし、その中でオセロットは瞼を閉じた。
――頼みたい事があると、言われた。明日はまた食事を兼ねて訪ねて、それから――
外せない予定だけを確認して意識も閉ざす。
朝になればまた、微睡みとは遠い目覚めがあるだろう。
それは流れる川に似た、ときにさざめく穏やかな日々。
end.
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