<東京怪談ノベル(シングル)>


レイニィレイニィ・ブルー



 こんな時に限って、雨は降ってしまうのだ。
 
「……ァア、オ」
 どこから発せられているのかも解らぬ、切れ切れの声。目の前で崩れてゆく、ひとの形をしていた何か。
 どろどろと、ぐずぐずと、それは輪郭を失ってゆく。
 陽に晒された雪のように溶けてゆくそれは、元はここで人として生きていたものだ。けれど彼は本来人ではなく、オーマと同類にして異類、元来この世界には存在していなかったもの―――ウォズ、であった。

 ―――おかしなモノがいるよ。
 そう教えてくれたのは、自分たちもその『おかしなモノ』の仲間であろう、病院にたむろする異能たちだった。そう云われ、調べに行ったオーマが見たのは、町の外れにあるひとつの小屋に棲みついた、人間になりかけているウォズであったのだ。
 綺麗な蒼色の眼をした彼は、人間になりたいんだ、と云って、はにかむように笑っていた。それは何処から如何見ても人の仕草で、オーマは嬉しくなって一緒に笑ったのを憶えている。
 ウォズと人間は共存することが出来るのだと、信じさせてくれる笑顔だった。
 そうだった筈、なのに。
 具現の力を行使し、人間の姿をとった彼は、人であることの証を求め続けた。あたたかい体温を、体をはしる血を、そして最後は―――人が人である根拠、心を求めた。
 具現に具現を重ね、持った力の総てを己に向け、それでも足りることは無く、彼は心という実体の無いものを求めた。そうして理を外れた彼の体は、神に背いた昔話の塔のように、崩れてしまったのだ。
 ……これ以上無いほどの激しい苦痛と後悔の念を感じ取ったのは、ほんのわずか前のことである。駆けつけたオーマが見たものは、笑っていたあの彼の姿とはかけ離れたものだった。
「ア……ガア、」
 最早声ではない、ただ純粋な苦痛の音。フラッシュ・バックするのは―――救えなかった、世界。助けることのかなわないところまで失われてしまった彼に、オーマは、言葉をかけてやることすら出来ずに、まるで人形のように立ち尽くしていた。

 何が悪かったというのだ。
 何が、いけなかったというのだ。
 ―――ひとで在りたいと、希んだだけじゃないか。

 知らず、オーマは天を見上げていた。哀れな命が失われようとしているこの時にも、空はただ、無情なまでの蒼色をひろげ、静かに佇んでいるだけである。握り締めた手のひらに爪が食い込み、痛む。この痛みを彼は欲したのだと思うと、遣る瀬無かった。歯痒さも、後悔も、怨みも無い。
 ただひとつ、悲しみだけがオーマの意識を侵食していった。
「………、…。」
 彼が残した最後の音は、言葉にならぬ叫びに、ふ、と消える音だった。
 そこに彼が存在していたことなど虚構だったように、総てが消えた。オーマは再び天を仰ぐ。眼に焼きつくようなその蒼は、奇しくも、彼の瞳と同じ色をしていた。
「―――くそったれが、」
 そこに鎮座している筈の無能な誰かを罵ったとき、晴れている筈の空から、ぽつり、と雨粒が落ちた。
 まるで嘲っているような、雨が。

+ + + +

 髪を、上着を、その下に着たヴァレルを、雨粒は容赦無く濡らしてゆく。
 オーマはあてもなく、道を歩いていた。家へ帰る訳にはゆかない。今はきっと、酷い顔をしている。雨は一向に降り止まないが、オーマはそれを避けることもせずただ呆然と歩き続けた。けれど、歩き続けたからといって、沈んだ気持ちが戻るような気配があった訳でも無い。如何すれば良いのか解らなかった。
 昏い色に染まり、ぼやけて滲んだ空。雨は、止まない。
 ……どのくらいの間そうしていたのかは、解らない。晴れていた蒼穹は暗灰色の雲に覆われ、彼の瞳の色はとうに失われていた。うす昏い闇がそろそろとその触手を伸ばそうとしていた頃、茫っと歩くオーマに声を掛ける者が在った。
「もし、そこのあなた。」
 反射のようにそちらへ顔を向ければ、立っているのはひとりの少年であった。白い傘を差した彼は、手に大きなかごを下げている。
「花はいかがです、」
 どうやら彼は花売りらしい。かごに布が掛かっているため中に何が入っているのかは窺い知れないが、微笑を浮かべながら近づいてくる彼からは良い香りがした。
 けれどそれも、今のオーマを癒してくれるものでは無かった。
「あぁ……ごめんな、ぼうず。悪いけど今は、そんな気分じゃねえんだ―――」
 そう云った自分の声が酷く掠れているのに気付いて、オーマは自嘲した。無様だ。少年はそんなオーマの心の色を知ってか知らずか、にっこりと笑う。子供特有の、総てを見透かしているようにも思える、純粋な笑顔だった。
「ははぁ、解ったぞ。ねぇ、あなた、さては―――何か、大事なものを失くしてきてしまったんじゃあ、ない?」
 穏やかにゆっくりと、少年は云う。それが波紋となり、オーマの意識に漣がたつ。その水面に、彼の笑う顔、喋る声とことば、そして、綺麗な蒼い瞳が過ぎった。オーマは何も云うことが出来ずに、ただ少年の傘の白さを見詰め続ける。

 ざあざあ、と。
 雨が、雨だけが、オーマの視界を埋めてゆくけれど、彼のあの瞳の色が―――意識にこびり付いて、離れない。

「蒼色。」
 ぽつりと投げ落とされたそのことばに、オーマははっとなる。
 いつの間にか少年はオーマのすぐ前に立って、こちらの顔を覗きこんでいた。
「あなたの目にね、蒼色が映ってるんだよ。」
「蒼、だって?」
「何かを失くした、虚ろの色だ。」
 少年は、持っていたかごの布を取る。雨が降っているにも拘らず、ふうわりと、花の香りが強くなった。……オーマはその香りに覚えがあった。昔あいつに贈られた、あのうつくしい花の香りだ―――。
 かごに入っていた花は、たった一本きり。それはやはり、かつてゼノビアに咲いていたあの花、ルベリアであった。人の思念を感じ取り輝く偏光色の花、その花弁は、深い深い蒼色をしていた。
 まるでオーマの瞼に焼きついた、彼の瞳を映しとったように。
「……空虚でかなしいけれど、綺麗な蒼、だね。」
 少年はかごの中の一本を手にとり、雨の降り止まぬ空へかざした。大粒の雨がその花弁を叩き、茎を伝い、雫となって落ちてゆく。暗灰色の空にその蒼はひどく映えて、うつくしかった。
「あぁ。よく―――この雨に映える。綺麗なもんだ、」
「でしょう。この花はね、おじさん。絆を約束するものなんだって。何かと何かを、あたたかいもので繋ぎ止めておく花なんだ。だから―――ほら、あなたに一本あげるよ。」
 そう云って少年は、かざしていたその花をオーマに渡した。
 絆の花、ルベリア。
 オーマもかつて、妻から贈られた花であった。久遠の絆を約束する、その証にと。手の中に咲く深い蒼をオーマは少しの間見詰め、記憶に残る彼の笑顔と重ね合わせた。
「申し訳ないけれど、ルベリアは一本しか無いよ。ぼくはその一本しか摘んでこられなかったんだ。だって、あの場所からぼくたちがいなくなったら、あなたたちは寂しがるでしょう?」
 少年は微笑む。かごの中にはもう一本も花は入っていないはずなのに、彼からはルベリアの香りが絶えなかった。その香りは花ではなく、少年自身から漂ってきているよう―――な。
「……ぼうず、お前、まさか。」
「―――ぼくたちは、絆の花。繋ぎとめて、永久の絆を約束するもの。その綺麗な蒼色は、あなたの哀しみを映し取った色な訳じゃあない。ぼくたちが受け止めたのは、ここに居たいという、蒼く晴れた空みたいに穢れの無い思念だよ。」
 オーマは、その一本の蒼いルベリアを、先刻少年がやっていたように空にかざした。雨にあたり、雫を滴らせるその蒼い花は、まるで彼が泪を零して泣いている姿のようだった。

 ―――人間になりたいんだ。
 どんなにか素晴らしいだろう、そうしてこの世界で暮らすことは。

「ありがとな、ぼうず。」
 礼を言うと、少年は嬉しそうに一礼した。オーマはびしょ濡れのまま、ルベリアの花を握り締めて、踵を返した。あてどなく歩いてきた道を辿るあいだ、オーマの意識に浮かんでいたのは、彼の苦痛の叫びでも歪んだ表情でも無く、ただ純粋に笑うその笑顔だけであった。

+ + + +

「先生。町外れに、すっごく綺麗な十字架が立っているの、ご存知ですか?」
 シュヴァルツ病院、診察室にて。
 茶をすすっている看護婦の口から出たのは、町で噂になっている町外れの十字架の話であった。
「んー?……知らねえなァ。何だ、そりゃ?」
「何でもね、真ん中に蒼くて綺麗な輝石が嵌った、子供の背丈くらいある十字架なんですって。その石が町中の芸術家がこぞって見に来るほどうつくしいって云うから、私も見に行ったんですよ。―――そしたらこれが、ほんっとうに綺麗なんです。なんだか濃い蒼で、とっても晴れた日の空みたいな色なんですね。そしてね、驚いたんだけど、かすかに花の香りがするんですよ。周りにはどこにも花畑なんて見当たらないのに!」
 熱っぽく語る彼女は、最後に、いやあ不思議なこともあるもんですよねぇ、と締めくくった。オーマはただ微笑んで、そうだな、と返す。

「大方、心のキレーな奴が造ったんだろうよ。空みたいに純粋で―――一途な奴が、さ。」
 オーマは診察室の窓から、空を仰ぐ。
 天球には、穢れを知らぬ蒼が、そのうつくしい色をいっぱいに広げていた。


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ライタァより:

こんにちは、青水リョウです。ご無沙汰しておりました(^^)
お久しぶりに頂いたご発注、びっくりなつかし大喜び、でございます!
お忙しいなか私を選んでいただいた光栄を噛み締めながら、書かせて頂きました。

今回は不思議でうつくしい花、ということで御座いまして、オーマ氏にはシリアスに活躍して頂きました。
土砂降りの日か、思い切り晴れた日に読んで頂きたい…と思いつつ。
僅かでも楽しんで頂けましたならば、とっても嬉しゅう御座います。

では、この変で失礼いたします。ご発注、とても有難う御座いました。
異世界の花が繋ぐやさしい絆に、また会えることを願って。

  青水リョウ