<東京怪談ノベル(シングル)>


欠けた月、心にじんで

 森の中にいても、月光が差し込んでくる。
 今宵は月が明るい。

「………」

 太い樹の枝にのぼり幹に身を預け、欠けた月をぼんやりと見上げて、千獣は今日も物思い。
 ――まだ胸が高鳴っているような。
 ――まだ顔が火照っているような。

「なん、だろ、な……」

 人に触られることって、こんなに熱いことだったっけ。
 そっと唇に触れてみる。
 ――触れられたのは、お昼に近い時間だったのに。

「まだ……熱い……」

 そっと彼は触れた。この唇に。
 その指先が、なぞるようにこの唇を撫でた。
 ――ただ、それだけだったはずなのに。

「なん、だろ、な……」

 今まで多くはなくとも、何人かの人々に触れられてきた。
 けれど、何も感じなかった。平気だった。
 ――かつて一番大切だった『彼』にも。
 ――かつて自分を救ってくれた老士にも。
 触れてもらったことがある。優しく、いたわるように。
 そのときは、その二人には、触れられれば暖かくて嬉しかった。心地よかった。
 けれど、振り払わなければならないほど――熱くはなかった。

 何が違う? 何で違う?
 優しさは同じだったはずなのに。
 何が違う? 何で違う?
 ひとつだけ分かる――彼の視線の強さ。

 優しさ、だけじゃないあの瞳。

「なん、で、かな……」

 ――なんであのとき、彼の手を振り払ったのだろう?
 熱かったから。
 本当にそれだけ?
 熱かったのは、彼の指先? 私の唇? 私の顔?
 それとも、心?

 誰に触れられても、こんなことはなかったはずなのに。
 彼に――……
 彼に見つめられると、触れられると熱い。
 優しげに微笑みながら、彼は手を伸ばした。手を伸ばして、この唇に触れた。
 熱くて、どうしようもなくて、思わず払った、唇に触れた指先。
 それなのに、払ったその手は彼の背を求めた。
 追いすがりたいと、思った。その背にそっと抱きついて。
 けれどあのとき彼が振り向いたなら、自分はどうしていただろう?
 きっと顔をそらして。
 きっと知らないふりをして。
 火照った顔を見られたくないから。
 高鳴る鼓動を、聞かれたくないから。

「『キミを壊しそうだから』……」

 彼の言葉をつぶやいてみる。
 どういう意味だろう? ねえ、教えて……

「なん、なん、だろ、な……」

 見上げる空。
 欠けた月。
 ――今の自分の心のように、こうこうと照っているのに満たされない。

 何もかも分からない。
 それなのに。

 彼の瞳を思い出す。大好きな森と同じ色の瞳を思い出す。
 なぜそんな顔で私を見るの?
 なぜそんな風に――私の心をかき乱すの?

「……『また』……」

 再び会おう、と言外に彼は言った。
 その言葉を聞いたときの胸の高鳴り。
 また会える?
 また……会ってもいい?
 そう思ったとき、胸に広がったのは――

 見上げる月、こうこうと照る光は美しく。

「次は、ちゃん、と、会える、かな……」
 熱くて、熱くて、また逃げ出したいほど熱くて、どうしようもなくなるかもしれないけれど。
「今度、は」
 見上げた月が、
「もう、少し、頑張って、みよう……かな」
 ――応えるように点滅したような、

 同じ空の下。
 彼にも、この月が見えているのだろうか。
 ねえ、今頃何してる?
 いつもの小屋にこもってる? それとも、
 あの森の中から同じ月を見上げてる?

 こうこうと照るのは欠けた月。
 満たされない心、それでも彼が同じ月を見上げているのなら、何かが満たされる気がした。
 でもね、と千獣は思う。
「だめ……だよ、あんまり、夜、遅く、まで……研究、してちゃ」
 体壊しちゃう。
 そんなのは嫌だと。
 そして、ふと考えた。
 ――今自分が目を覚ましてることを知ったなら、同じことを彼は言うのかもしれない。
 眠りなさいと。疲れた体を休ませなさいと。
 くすっと千獣の顔に微笑みが浮かぶ。
「うん……寝る、ね」
 何だか、心ふわり。
 あったかく包まれた気がして。
 彼のあの瞳が、真剣に私をそんな風にさとしたとしたら、
 私は……

 見上げた月。
 欠けた月が自分を見下ろしている。
 ――何か、私に教えてくれる?

「今、夜は……月、の、下、で」

 ――あの欠けた月の下で。
 眠ろう。心にじんだあの月の下で。
 心重なるあの月の下で。
 もしも彼があの月を見上げているのなら、
 私は……

 火照った顔。高鳴る鼓動。
 なぜだろう。彼が「眠れ」と言うかもしれないと、思ったらおさまった。
 眠ろうと思った。暖かい心のまま。
 やわらかく揺さぶられるような心地。
 赤子がゆりかごに揺られると、こんな気持ちなのかもしれないと。

「ねえ……」

 夜闇に彼の名前をつぶやいた。
 どこにも残らない自分の声が、もしも彼に届くなら、
 今は眠ろう。彼に一言囁いて。

「ねえ……おやすみ、なさい」

 欠けた月が彼女を見下ろす。
 ゆりかごのような形の月が、彼女を照らす。
 ふわり、ゆらり、あったかくやわらかく。
 千獣は眠りの底に落ちていく。

 彼の瞳の色と同じ、森に心包まれながら……


 ―Fin―