<PCクエストノベル(3人)>
胎動に、還る 〜アーリ神殿〜
──冒険者一覧──────────────────────────────
【1953/オーマ・シュヴァルツ/医者兼ヴァンサー(ガンナー)腹黒副業有り】
【2079/サモン・シュヴァルツ/ヴァンサーソサエティ所属ヴァンサー】
【2080/シェラ・シュヴァルツ/特務捜査官&地獄の番犬(オーマ談)】
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■インザキッチン──優雅なる午後のティタイムを、台無しにしたのは誰が為、誰が
春、である。
木々の青葉は色濃く香りたち、けもの達はそれぞれの声で口々に、生の季節への賛美を歌い上げる。長く厳しい冬に終わりを告げ、短くとも慈愛に充ち満ちた今を、生きるもの達が己の全身で受け止める──そんな季節、である。
けもの達ですら、ぶかっこうに力強く歌い朗らう春に、俺が歌って悪い理がないのだ。むやみやたらに着用すると叱られる、白い縁取りの水中眼鏡は『たまねぎが目に染みちゃうから』と云う理由で着用を許可された。
申し上げたからにはぜひとも切り刻まねばならぬであろうと、オーマ・シュヴァルツはオニオン・ロスティを作るべくキッチンでナイフを揮っていたのであった。
一家団欒。
どんな酒にも勝る酩酊がそこにある。
アフタヌーンティを通して、親子水入らずで春の到来を喜び、語り合い、家族の絆をさらに深いものとしたい。
下僕主夫、オーマがナイフを揮う。
目を凝らせば、向こうが透けて見えそうなほどに薄くスライスされたたまねぎ。
それよりももう少し厚く切ったじゃがいもが氷水にひたされて、炒められるのを待ちわびている。
日差しを浴びてきらきらと光るスパイスラック。
隠し味にとカップに入れ、常温に戻しておいたミルクとバター。
特別な日だけに──例えば今日みたいに、春を祝う家族団欒の午後、なんて時──おろしている大皿は、昨日の夜から磨き込んだクリスタル製のもの。
完璧すぎるじゃないか、両目を眇めればすぐそこに、数刻後に展開されるであろう麗しい一家団欒の光景が浮かんでくる。
取り分けたロスティの皿を、にっこり笑って受け取ってくれる、愛らしい娘の姿が。
ふたりぶんの皿を盛りつけたあと、己のぶんの皿にこんもりとロスティを盛ってくれる、愛しい妻の姿が。
オーマ:「・‥…──ああ……」
うっとり。
感極まり、眩暈とともに小さく感嘆した下僕主夫の背後で、そんな妄想にも似た空想を完膚無きまでに打ち砕いてくれる来訪者が扉を叩くのは、そのすぐ数秒後のことである。
■ティタイム──崇高なる乙女の祈りは、果たして下僕主夫の大胸筋を打つか、否か
つい数十分前まで、『主夫』と云う言葉の響きに似つかわしい、乙女じみた拈華微笑を浮かべていたオーマの口許は、打って変わって力強く横にきっと引き結ばれたまま、言葉を発することなく黙りこくっていた。
諦めは悪いが、切り替えは早い男である。すでに調理どきを逃してふやけてしまっているであろうじゃがいもの事も、水気を失ってくったりと元気を失っているであろうたまねぎの事も、今の彼の脳裏には微塵もよぎっていない。
が、それは、それよりも重要な問題が彼の前に立ちはだかったからに他ならなかった。
シェラ:「……で、あたしとサモンは、明日の儀式が滞りなく終わらせられるように神殿まで馳せ参じれば良い、ッてわけだね?」
使いの巫女:「宜しく、お願いいたします。──1年に1度の、明日は大切な日、です。『彼ら』の声が、わたくし達に突然届かなくなってしまったこと自体が、神託なのか……それとも、凶兆なのか……それすら知ることができれば、わたくし達だけでいかようにもすることが出来たのですが」
サモン:「いい、よ、別に。……ユニコーンの赤ちゃん、……見られるかな」
使いの巫女:「春は、『彼ら』にとっても生と恵みの季節です。すでにいくつか、新しい生が生まれ落ちていると聞きました」
完全に、オーマは、部外者扱いされていた。
アーリ神殿からやってきた使いの巫女と、愛する妻と娘が、彼を差し置いて仕事の裏打ち合わせを始めたのだった。
男人禁制の地、アーリ神殿。
巫女と呼ばれる清らかな乙女たちと、彼女らが崇めたてまつる聖獣・ユニコーンの静謐なる遺跡である。1年に1度、ユニコーンの真言を聞き、神殿に上がる巫女を選びあげるべく──きわめて重要で、気高い儀式が執り行われることになっているのだが。
オーマ:「あのな。そういう──」
シェラ:「そうと決まれば、準備は早々に始めた方が良いだろう。発つのは夕方で良いかい? あたしらを待ってる時間の余裕があるなら、あんたも独り歩きはしないほうが良い」
使いの巫女:「助かります……『彼ら』の声を聴くことならないと云う事実が、わたくし達をこれほどまでに、打ちのめしてしまうなんて」
オーマ:「だろ? だろ? だから──」
シェラ:「あたしとサモンに任せておきゃ一発さ」
オーマ:「いやひとり忘れてな──」
サモン:「準備……してくる」
部外者どころか、存在そのものを忘れ去られている。一家団欒どころの話ではなかった。それぞれ、自分の度の支度を整えに自室へと戻っていくシェラとサモンの背中は無言で、冷たい──オーマに取ってはの話だったが。
ダイニングに残されるは、小さく華奢な四肢を申し訳なさそうに縮こめている巫女ひとりと、大胸筋ひとつ、である。
オーマ:「……判った。取りあえず、話を整理しようじゃないか」
使いの巫女:「はい……?」
オーマ:「明日アーリ神殿で、1年に1度だけ行われる、極めて重要な儀式がある。普通なら、部外者を招き入れることなく、巫女たちだけでひっそりと執り行われるべき儀式だ……それは良いんだな? 間違ってないな?」
使いの巫女:「……はい……」
オーマ:「だがしかし! そんな大切な儀式を行う予定の数日前から、巫女たちがユニコーンの言葉を『聴く』ことができなくなったと……その原因も、果たして儀式そのものが毎年と同じに行われるかどうかも判らないから、助けて欲しい、と。──そういうことで、良かったんだな?」
使いの巫女:「はい」
巫女は、ダイニングからシェラとサモンが出ていった瞬間に言葉少なになった。
オーマ:「なあ、俺にもおまえらの大危機を救う資格があるとは思わないか」
使いの巫女:「お心遣い、痛み入ります。シェラさまとサモンさまのお支度をお願いいたします」
オーマ:「ぬ……」
やはり、駄目なのかと。
オーマは地響きのようなうなり声を挙げ、何よりも愛しい妻と娘に課せられた任務への同行を諦めるより他はなかった。
オーマ:「──良いだろう。仕事とは云え、場所はアーリ神殿。せめて清らかに洗い上げた純白の衣を用意しようじゃないか」
諦め悪く、切り替え早い男の孤独な闘いは、今ここに始まったのであった。
■乙女の祈り──ともすればそれは悪夢の予兆にも似て不吉の香り
水を打ったように静まり返った、静謐の神殿内である。
その年1年より、アーリ神殿にあがる巫女を選び出すための儀式──漠然と、実技試験や、筆記試験のようなものがあるとばかり、ぼんやりと想像していた。
サモン:「・‥…──少し、緊張……した」
今日この日のために、ソーンの世界のいろいろな場所で、それぞれの祈りを捧げつづけてきた少女たちがずらりと一列に並べられる──その列の中には、薄手の絹に身を包んだシェラとサモンの姿もあった──。
そして神殿からは、その1年、もっともユニコーンの真言に深く耳を傾けたとされる数人の巫女が選び出されており、彼女らがひとりずつ、巫女を希望する少女たちの面持ちをじっと見つめて回るのである。その間、ものの数十分。
が、アーリ神殿の周囲に満たされた清らかな泉の流れのように静かな巫女たちの瞳は、その色で見つめられるサモンの心を少し落ち着かなくさせた。
あまりに静かで、慈愛に充ち満ちていたせいである。
巫女と呼ばれるだけの女の子たちは、これほどまでに心が穏やかになるものなのか。
これほどまでに人を──そしてユニコーンたちを、惹きつける魅力を持つものなのか。
何人かある中で、特に幼そうに見えたひとりの巫女と、瞳と瞳で対峙したとき、サモンはその色に吸い込まれていくような感覚を覚えると同時に、自分のとても深いところで芽生え始めている『女』の部分を覗き込まれたような気がした。
巫女たちが、慈愛を湛えた女としての完成形だとすれば、自分はまだ。
だから、自分の前をするりと立ち去った巫女のひとりが自分に微笑を残していった時、サモンにはそれがとても恥ずかしいことのように感じられたのだった。
視線を感じる。
母であり、女である──凛と骨太とを併せ持つシェラが、眇めるように笑みを湛えた眼差しで自分を見ていた。
そんな視線すら、今のサモンには、心を落ち着かなくさせ、眉間に皴を作らせてしまう。
──知らないうちに、女へと育っていく。
娘の仏頂面は、さして物珍しい表情というわけでもない。が、シェラにとって、アーリ神殿に到着してからサモンが見せるふとした表情は、いつもの彼女が見せる表情とは少し違ったもののような気がした。
始めは、居心地悪く感じているのかもしれない、と思った。
えてして、ヒトがヒトを嫌うには大きく分けて2種類の理由がある──自分と全く相いれない存在への怒りと、自分と同質すぎる存在への嫌悪、だ。アーリ神殿と云う場所は、身も心も『清らかな女』が、神の言葉を聞くために生きる場所である。サモンは見た目から察せられる年齢よりもずっと長く生きているし、長い時間を『男』として生きてきた。自分の中に男性性があると知りながら、何の疑いもなく女性性のみを尊重される場所──サモンの中の男性性が、彼女を落ち着かなくさせているのだろう、と。
だが、今はそれが、違ってみえる。
戸惑っているのだ。サモンの中にある、『女』の部分が。
シェラ:「親がなくても子は育つ……って事かね」
ごく一般的な価値観で云うところの、『母親らしさ』が、自分に果たして備わっているだろうかと、自問する。
自信を以て否、と応えられる反面、また自信を以て、是、とも応えられるだろう。
──そもそもが、『一般的な母親らしさ』すら、良く判っていないかもしれない。だが。
シェラ:(あったかな心を持った、人間としてまともなら──それが1番大切で、なによりな事だろう?)
とても澄んだ、穏やかな瞳をした巫女と視線を交したとき、シェラは心中、そう語りかけてみる。
巫女は彼女を少しの間、じっと見つめ──そして、口許に小さな笑みを浮かべ、去っていった。
──己は、己の道をしか持たないのだ。前にも、そして、後ろにも。
薄い純白の布を幾重にも重ねたすがしい出で立ちで、シェラが淡く微笑し、俯く。
彼女が、そんな自分をじっと見つめている……厚い、暑苦しい視線に、終始気付かぬままであったのは、そんな『母』としての思いを胸に過らせていたからに、他ならなかった。
──地獄の番犬も、ああしていればやはり、女だ。
己の妻の、心身共なる美しさに微塵の疑いも持ったことのない男は心中、そう呟いた。
彼女の視線の先には彼女の──そして己の何よりも愛する娘がいることは判っていたから、老若いりまじる巫女候補の中からサモンを見つけるのもそう難いことではなかった。ふと、目と目があったような気がしたので、思わず手を振ってしまいそうになった。が、如何、と。ピクリと動いてしまった右手を拳の形に握りしめ、オーマは紅を引いた口唇をそっと噛む。
オーマ:(これは、アーリ神殿と、愛する妻と娘を守るための任務なのだ。気取られてはならぬ……!)
桃色に塗り、ふっくらと肉感的に仕上げた口唇。
真っ白な薄絹は逞しい大胸筋の上で、恥じらう乙女の柔肌を包み込むかのような優しさを誇っている。
道すがら見つけた花売りの少女から(少女は薄衣をまとった大胸筋と決して目を合わせることはなかった)、ライラックの花を1本買った。それは堅い髪にそっと、忍ばせるように挿してある。
筋肉で出来上がった山のような体躯を持った男が、上質な女性衣に身を包み、巫女を希望する女性たちの列の1番最後で仁王立ちをしている。
どこからどう見ても、最終視覚兵器である。
アーリ神殿の危機を回避すること、そしてシェラとサモンを護衛すること──そのふたつを、己に課した任務とし、下僕主夫オーマ・シュヴァルツは男人禁制の神殿内に潜伏したのであった。
遠く仰げば、女。
右を見ても左を見ても、また後ろを振り返ろうとも、女ばかりの場所。
以前の──シェラと云う最愛の伴侶と巡り合うまでの彼であれば、こんな環境でただ女のフリをしていることなど出来はしなかっただろうが。
人は、変わり行くものである。
人の道にはさまざまな分岐点が存在する。はて、右に行くものか、左に行くものか。そうして幾度も立ち止まり、悩み、それぞれの人生を生きていくものである。
ここまでの長い半生の間、誇りも、蟠りも、明暗も、すべて等しく、彼の許に降り注いできた。が、それらを全て乗り越えてきたからこそ、彼は、シェラと出会い、サモンを成すことができたのだ。
云い方を変えるならば。
ここまでの、人生の分岐点において、1度たりとも選択を間違えなかったからこそ、今ここに、このオーマ・シュヴァルツは存在するのである。
そう考えると、オーマは己の目頭がツンと熱くなって来るのを禁じえない。
これは、奇跡だ。
何百分の、何千分の一に匹敵するほどの、愛と幸福の奇跡なのだ。
オーマ:「・‥…──良い……」
感極まると、ひとは言葉少なになるものである。ぼそり、と。さすがに隠しきれない低い声音で、己が男であると悟られぬようにと──悟られぬと確信しているのは彼ただひとりではあったが──呟いた。
が。
その声音に、ふと振り返ったひとりの巫女の姿があった。
他の巫女たちよりも、かなり年齢を重ねている、盲いた巫女である。小さな声音が震わせた、些細な風の香りを聞き当てるかのようにつと顎を上向け、目を閉じたまま面持ちをそっとオーマの方へ向けた。
オーマは微動だにせず、盲いた巫女の放つ穏やかなオーラを受け止める。良い──そう呟いた時のまま、くわ、と双眸を見開き、仁王立ちをしている。
それは、巫女の盲目を軽んじたからでは決してなかった。アーリ神殿を愛し、己の妻を愛し、そして己の娘を愛する気持ちを、そのまま真っすぐに巫女へとぶつけていたのだった。
しばし、ふたりの間には、ふたりのみの声無き会話が交されていた。
そして、しばらくの後。
盲いた巫女は満足げに微笑んで、漸く、オーマから視線を──厳密に云うならば、その気配を──そらし、彼が立つ列の端とは逆の方へ向けて歩を進め始めたのだった。
一通り、儀式と呼ばれるものの課程は踏み終えたようである。
一列に並んだ巫女希望者たちの前にまた、巫女たちも向かい合うよあに並び直った。先ほど、オーマと視線を交した巫女が最年長のようである。数人の巫女たちの真ん中に立ち、初々しく並んだ希望者たちの顔を眺めるように面持ちを動かしてから、口を開いた。
盲いた巫女:「・‥…──お待たせいたしました」
巫女の声音は淀みなく、老いたその外見からは想像もつかないほどに凛と張り、活気に満ちているものだった。自然と、希望者たちの呼気がひそめられる。今日までの、彼女たちの敬虔さが、今ここに試されるのだ。
盲いた巫女:「本日これより、このままこの神殿に残っていただくかたの、お手をお取りいたします」
彼女の言葉を合図に、それぞれの巫女たちが、つ……と、その足を踏み出した。
と、その時。
オーマ:「な……ッ」
シェラ:「・‥…ちょっ、」
サモン:「えっ──」
ざぁ──…‥・、と。
神殿宮の門の左右に位置していた一対のユニコーン像が音を立て、褪せた白磁から邪悪な漆黒に染まった。
そのふたつの像に背中を向けていた巫女たちは、すぐにはその異変に気付かなかったが、仰ぎ見る形で眼前にその像たちを構えていた希望者たちと盲いた巫女がはっと両肩を堅くさせた。
シェラ:「デカイよ、気ィ張りな!」
サモン:「う、うん……!」
盲いた巫女:「ああ──やはり、凶兆だったのですか……!」
オーマ:「見るな! あの黒いのの瞳、『持って行かれ』ちまうぞ!」
シェラ・サモン:「って、」
シェラ:「オーマァッ!?」
サモン:「──さいあく」
オーマ:「あッッ!」
見るな。
そんなオーマの言葉の意図を探るべく、『見てはいけないもの』を視線で確認してしまうのが人間と云うものである。『黒いのの瞳』──巫女たちの背後でなまめかしい漆黒に染まったユニコーンの石膏像が、その瞳を紫色に光らせる。
見るな。
そして、そう命じた声の主の性別に関して──最終視覚兵器でのみならず、状況によっては文字通りの最終聴覚兵器にもなりえる雄々しい声音であった──その場に居合わせた者たちが、はた、とそれぞれの目を瞬かせるのとは、ほぼ同時のこと、であった。
各々の記憶が確りと保たれていたのは、それを最後にしてのことである。
■不吉の香り──少女は胎動の頃の記憶をその胸によぎらせるか
──ごく浅い転た寝から目を醒ました直後にも似て、周囲を見回してすぐには、自分の置かれた状況をはあいすることができなかった。
辺りは暗闇で、ただ人々のりんかくだけがぼうっと何かに照らされるように浮かび上がっている。自分以外に目を醒ましたものはいないらしい。しばらくの間身じろぎひとつせずに、サモンは周りの気配をじっと伺う。
アーリ神殿に来ていた。儀式と云う名の面接を受けた。
その間には、異変らしき異変は何ひとつ起きなかったはずだ。そして例に倣って、巫女たちから、今年神殿に上がる新しい巫女を選び出されるはずだった。
そのとき、神殿が奉っている一対のユニコーン像が怪しく光り輝き、そこに秘められた膨大な力を暴発させた。
巫女や巫女の希望者たち、そしてシェラとオーマですら、その闇の力から逃れることができず──皆いちように、まだ意識を失ったままでいるらしい。
オーマ:『見るな! あの黒いのの瞳、『持って行かれ』ちまうぞ!』
その一言で、全員がユニコーン像の瞳に視線を注いでしまったのだろう。幸か不幸か、サモンはそのとき、最終視覚兵器よろしく全身女装づくめだったオーマの姿に視線が釘付けになってしまっており、それが彼女を救ったのかもしれなかった。
闇は胎動のように、規則的な速度で、のたり、のたり、と脈動している。
サモン:「……何が……」
起こったものであろうと。彼女の呟きが、脈動する重たい空気を震わせた。
その震えに刹那、闇が──声音の主を探るようにひときわもったりと揺らめき、サモンの肌を粟立たせる。
闇の声:「──サモン。サモン……シュヴァルツ──」
サモン:「……っ……」
闇の声:「おいで……おいで、可愛いあなた。サモン。あなたには権利がある」
サモン:「──…‥・、けん、り……?」
闇の声:「可愛いサモン、あなたには愛される権利と、進化の権利、が」
サモン:「………………」
愛される権利と、進化の権利。
本来ならば、聞く耳を持つ状況下にはない。今この瞬間、自分の置かれている立場や、周りの状況を鑑みれば、自分の心の中に直接響かすように語りかけてきた闇からの言葉などは魔境に過ぎない。おそらくこの闇は、選民意識をくすぐるような甘言でひとの心を惹きつけ、己の中に取り込もうとしている魔物の類だろう。──が。
サモン:「……愛される……権利……」
その言葉が、サモンの中にある『女』を揺さぶった。
自分を誘うための言葉であるとは判っている。底知れぬ闇の入り口に立つ自分を、その深淵──今まさに直面している、アーリ神殿の謎の真相へ導くための罠であると、聡明なサモンは理解している。
『それでも』と、云うべきか。『だからこそ』と、云うべきだったか。
サモンはただひとり、奥行きの知れない闇の中へと、足音をはばかるようにしながら、それでも真っすぐに歩を進めていった。
シェラ:「……ッ……ん……」
オーマ:「くっ……」
そして、シェラとオーマが揃って意識を取り戻したのは、サモンが闇の亜空間へと足を踏み出してから十数分ほど経ってからのことだった。
オーマ:「……シェラ、サモン……いるか……?」
シェラ:「ああ……あたしはここ、だけど──サモンは……?」
完全に意識を失ったままの巫女たちの向こう、ユニコーン像ふたつの丁度真ん中あたりの場所に、大きく口を開けた禍々しい闇があった。そこから零れ出ている重苦しい波動が、床の上に崩れ落ちている女性たちのりんかくを却って明確なものへとしていた。闇の只中で、闇が闇を照らす。ある種異様な光景である。
シェラ:「サモン……、まさか」
オーマ:「間違いないだろう──この中へ入っていったんだ」
シェラが渋面で舌打ちをする。額の上で散った燃えるような赤い髪をそんざいにかき上げると、あの子。小さく呟いた。
シェラ:「正義漢なんだか向こう見ずなんだか判らないったら……誰に似たんだいあの性格は」
オーマ:「愚問だ。そんなの決まってるだろう」
シェラ・オーマ「あんただ」「おまえだ」
闇の中、互いが互いの面持ちのあたりを怪訝そうに振り返った。二の句を告げようと、やはりまた互い、口を開きかけたのだが。
オーマ:「……、サモンの所に行くほうが先だ」
シェラ:「議論と説教はその後に、ゆっくりとね」
不穏な合いの手は、聴こえなかったことにする。
相手のりんかくから、互いの距離を確認しあいながら──ふたりはサモンの後を追い、闇の中を足早に歩み進めていく。
■胎動の頃の記憶──歪な翻弄に揺さぶられる、未来と過去と
暗闇は、自分の爪先すら見通せないほどの濃密な黒だったが、自然と、歩を進めることにとまどいはなかった。どの方向に進めば良いのかを闇は示していた。自分に語りかけてくる声が近く、明確なものになっていくことで、サモンはそう確信するようになった。
闇の声:「可愛らしい、聡明なサモン。あなたは『進化』を、その身に感じたことはありますか」
サモン:「進化……?」
それは、『成長』のことを指しているのだろうか──サモンは自問した。確かに、サモンや彼女の両親は、ごく一般的な他の生物に比べ、実際の年齢よりも若い、または幼い姿を外見としているかもしれない。が、それでも少しずつではありながら、外見は変化を遂げていくし、第一『成長』することと『進化』をすることは、似てはいるが別物なのではないかと思う。
闇は、そんなサモンの心中を汲んだかのように、妖しく笑いながら、言葉を続けていく。
闇の声:「そう、あなたが考えているように、年老いて変化する外見のことと、進化とは、また別のものです。生と死は常に表裏一体。生きて成長していくことは死に行くことと同義──それは進化とは呼びません。個体の淘汰です。……サモン、あなたは感じたことがある筈。あなたは常に、進化と退化を繰り返す」
サモン:「進化と……退化……」
それではまるで、言葉遊びである。成長でも、個体の淘汰とやらでもなく、進化と、退化。闇は確信を持って自分に呼びかける。お前は進化と退化を繰り返す、と。
……トクン。
身体の中心が大きく鼓動を打った。あ、と思う。鼓動が骨肉を震わせ、肌を震わせ、空気を──闇を震わせる。闇が戦慄する。感嘆の呼気から聴こえてくるほどに、喜びに打ち震えて。
闇の声:「そう、あなたは進化する。不安でしょう? そして不安を感じる自分が腹立たしいでしょう? もっと怒りなさい。そしてもっと不安に打ち震えなさい。そうすればあなたは、進化の道をまた一歩進むことになるのよ」
サモン:「──何を云って……」
トクン。トクン。
──あれが来る。サモンはそれを本能的に察知した。
ひと足、またひと足と歩を進めていくにつれ、足取りとは反して、自分の身が少しずつ軽やかになっていく。太股や腰回りに情け程度に貼り付いている脂肪が、しなやかな筋肉へと変わって行く感じ。骨が軋む。体温がほんの少し上昇する。
闇の声:「そう……そうよ、サモン・シュヴァルツ。それが進化です」
闇が自分の四肢を絡んで、ともすれば止まってしまいそうな歩調を前へ、前へと運ばせようとしている。
眩暈がした。咽喉の奥で乾いた風が吹く。呼気を整えようとしたその深呼吸の、空気を震わす音がつい数分前とは違う。
肉体が、少女のものから、少年のものへと変化し始めている。
闇の声:「子が母の腹に宿る間から、進化は始まります。無性の個体から、女性の個体へ。そこで進化を留めたものが、出生したときに『女』と呼ばれる個体になります。女性の個体から、男性の個体に『進化』すれば、それは『男』と呼ばれる個体となる──『女』は、『男』の、進化の過程に位置する存在なのです」
闇の中で、自分の両手を開く。その手の平に、サモンはじっと目を凝らしてみた。爪の形が違った。時間が許す折り、気ままに整えながら磨いていた爪が、そのままの質感でほんの少し大きい。
気持ちが昂ぶった。どうしたら良いのか判らない。薄衣の下、胸元に隠したネックレスのチャームが、心臓に近い。
どうしたら良いのか、わからない。
闇の声:「進化を望むことこそ、生命の義務ではありませんか。淘汰されるのは弱者の宿命です。サモン・シュヴァルツ、あなたは淘汰を望むのですか。あなたは弱者ですか。母の肚の中で、あの日永遠のものと出来なかった進化を──」
シェラ:「低級の魔境が偉そうにほざくんじゃないよ……ッ!」
サモン:「!」
閃光。
自分の頬の横を、殺気漲る乾いた風が擦り抜けていく。ただそれだけ──シェラの大鎌が闇の向こうで息づく『モノ』を捉えただけのことなのに、サモンは小さく息を飲み、その場にしゃがみ込んだ。
ひどく、不安定な心。
かき乱された心の理由が、『魔境』の罠だったからなのか、それとも自分自身の心の弱さのせいなのか、サモンには図れなかった。
闇の粘膜が鎌に屠られ、闇色の質量がさぁっと吹き出す。
サモンの中に入り込んできていた『それ』の気配が、彼女の中で大きく揺らぐ。揺らいでしまう。
不安と不愉快がないまぜになる。自分の外壁がもろもろと、魔境の霧散と共に崩れ落ちていくような感覚。
オーマ:「サモン…………!」
それを、力強く押しとどめる何かがあった。熱い腕だった。
自分をこの世界に──今この瞬間、自分が留まるべき世界に繋ぎ止めようとする、確信に満ちた父親の腕だった。
オーマ:「おまえの居場所は、此処ッきり無いだろうが……! 何を怖がることがある!」
サモン:「…………あ……」
オーマ:「悩め。そして、必要ならば苦しんで、自分の答えを探し出せ──だけどなァ、不安にだけはなるな」
サモン:「……──僕……そん、な……」
オーマ:「不安だけは、誰とも共有できない。伝播していくだけだ、どこにも進めなくなる」
緋い髪をした死神は──憤怒がその鮮やかさを更なるものとさせていた──、今なお自分が一斬した虚空を睨め付け、熱く深い呼気を整えていた。
娘を──そして、解りあえる『女』を揺らがせた低級なる魔境をその鎌に縊ったあとも、滾った血液が収まりそうもなかった。
その思いは、彼女の夫、オーマも同じものであるのだろうとシェラは思う。
母親らしさ? 自分の『それ』は、腹を空かせた犬にでも放って食わせてやれば良い。
自分は、自分なりの方法でしか、愛する娘を守ってやる術はない。なかった。
シェラ:「──サモン」
気がつけばサモンは、オーマの暑苦しい両腕にがっちりと抱きしめられたまま、いつもの気配を取り戻していた。
小さくて華奢で、ともすればかき消えてしまいそうな、頼りない身体つきの少女である。
己が身に課せられた全てを背負って生きていくには、あまりにも──哀し過ぎる少女、だ。
何かを云おうとした筈だった。
でも、オーマと同じ輝きを宿した、サモンの赤い瞳と対峙した瞬間、伝えようとした意図とはまったく違う言葉が、シェラの咽喉を突いて出た。
シェラ:「……サモン、あたしのお腹ん中に、もう一度戻ってくるかい?」
サモン:「………………」
見つめあった瞳が、ぱちくりと数度またたいた。
そのすぐあとで、
サモン:「……いらない。──逃げない……闘う」
たった三語。
応え終えたあとで、幼くとも美しい顔立ちが、ふわりと微笑んだようにシェラとオーマには、見えた。
逃げない──その言葉に秘められた覚悟と決心があまりにも清冽すぎて、ふたりはすぐにサモンに言葉を返すことができなかった。
揺らぐこともあるだろう。生きる道の先に、一歩たりとて足が出せなくなる瞬間もあるだろう。
そんな、どんな瞬間がサモンに訪れようとも、決して彼女をひとりにはしないと、決めた。
シェラ:「──行くよ。元凶は、コイツで真っ二つに切り裂いてやったからね──神殿の様子も、元に戻っているだろう」
■歪な翻弄──運命とはかく酷薄なもの
家族三人して、『来た道』を暗がりの中、歩いて神殿に戻った。
歪んでいた闇の空間は、時間と距離をあいまいにする。サモンも、サモンを追って闇を往ったふたりも、かなりの行脚を覚悟してはいたものの、闇の亀裂は案外近くで穴を開けたままであった。
巫女:「・‥…、あら……? お三人様とも、いつからそこに……?」
亀裂から足を踏み出せば、そこは一対のユニコーン像のちょうど半ばほどで、三人が現世の光りをその肌に受けた瞬間、彼らの背後で闇は音も無く『閉じ』ていった。
巫女たちや、巫女の希望者たちには、意識を取り戻してからと云うもの、その場所に口を空けていた亜空間への扉は見えていなかったようだった。
シェラ:「希望者の女の子たちの姿がないね……もう儀式は終わったのかい?」
巫女:「いいえ、まだです」
オーマ:「まだァ? 他にも何か問題が残ってるってのか?」
巫女:「いいえ、たった今、解決いたしました」
サモン:「……帰ろ……? 儀式の途中じゃ、迷惑……かかる」
サモンの提案に、シェラはすぐさま従おうとした。明るい神殿内の照明のもとで改めて見遣れば──そうすればするほど、ひどかった。オーマの女装姿が、である。見て見ぬふりをしているのか、巫女たちがオーマの姿を咎めることはなかったし、またオーマもオーマで当然の顔をしてその場に佇んでいる。ひどい。夫として、父親として……そして、血縁として、彼をそのままここに留めておくのは、とても心が痛む。
が、しかし。
巫女のうちのひとりが、にっこりと優しく微笑みながら、サモンの提案にそっとかぶりを振ったのだった。
巫女:「いいえ、どうか儀式には、最後までご出席なさいますよう」
変な話である。
もとはと云えば、神殿にあがる巫女たちのための儀式を、恙なく執り行えるようにと──云わば護衛の形で神殿に訪れたのだ。
云わば、正式な参加者というわけではないということだ。最後まで出席をと望まれる謂れはない筈だった。
巫女:「さあ、どうぞ、こちらに」
伴われ、他の巫女たちが立ち並ぶ前に、三人とも並んで立った。
中性的な美しさをもつ小柄な少女。
血の香りを漂わせる大鎌を持った人妻。
最終視覚兵器。
それぞれの手を、それぞれの巫女がそっと取った。
幼い巫女:「清らかな心をもったあなた、ようこそ、アーリ神殿へ」
穏やかな巫女:「慈愛の心に満ちたあなた、ようこそ、アーリ神殿へ」
盲いた巫女:「人を愛する強さを持ったあなた、ようこそ、アーリ神殿へ」
サモン:「え……?」
シェラ:「は?」
オーマ:「ハアアアァァァァァァ!?」
いつしか夜の帳は落ち、遠くで懇々と水の湧き出る音がする。
が、シュヴァルツ一家の一日は、まだ終わらない。
(了)
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