<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
恵みのもとへ
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「ほらソコ。踏むんじゃないよ、後味が悪い」
ゴツン、ゴツンと石畳を打つ男の安全靴の踵――倉梯葵の踏みだす足のすぐ先を顎で指し示し、ヴェルダはつまらなそうに呟いた。
葵は彼女の視線に促され、己の足下をつと見下ろす。
それはなんだかやけにぺたんこで、毛むくじゃらで、真ん中のあたりが小さな呼吸に蠢くように上下した焦げ茶色のかたまりだった。
猫だ。
自分の血に濡れたものだろう、毛の所々がざんばらに纏まり、黒く乾きはじめている。
「――、」
ああ、とも、うう、とも表現しかねる小さな声を上げて、葵は自分の上げた足の方向転換をする。母猫とはぐれて荷車にでも轢かれたものか、手のひらの上にすっぽりと収まってしまうほどの、ごくごく小さな猫――否、瀕死の猫、だった。
もう打つ手はないだろうことは、葵ではなくとも、たとえ素人目だったとしても容易く判断できただろう。虚ろに開けた口から垂れた薄い舌はざらざに乾いていて、今は酸素を求めてただ喘いでいるのみである。
それをよけるために大きく踏みだした葵の足は、留まることなく、死にかけた小猫をまたいで、通り過ぎる。
その横を歩いているヴェルダの歩調も、変わることはない。
「今日は葵の奢りで良いんだろう?」
猫が死んでいた。
「今日『は』というか何というか。比較的正しい言葉を使おうとするなら、今日『も』と言い表すのが正しいと俺は思う」
踏まずにすんだ。
「小さいことばかり気にしていると、婿の貰い手がなくなるぞ」
ふたりは馴染みのオープンカフェへ向かう。
「姐さんが嫁に行くことになったら心配することにするから」
ただそれだけの事だった。
■
たいていはどこのカフェでも、頼んだミルクの皿は葵の足下に置かれることになる。
が、彼とヴェルダがひいきにしているこのオープンカフェでは違う。
山葡萄のジュースと、ジンライム。
そしてミルクの皿は、ふたつのグラスの横に並べて置かれた。
「よ、と。ほら、お前も午後の気怠いティータイムに参加させてやる」
にゃむもー。
こまっしゃくれた鳴き声で葵に応じたのは、彼の相棒ともいうべき小さな白猫である。膝の上に乗せられると、爪を研ぐような仕草で四肢を彼の膝でぬぐい――決して行儀が良いとはいえないものであったが――、スタンとテーブルクロスの上に乗り立った。
鼻を鳴らして小皿を嗅ぐと、ぴちゃぴちゃと音を立ててミルクを飲み始める。
「あれ、いつの間にそんな芸当覚えたんだろうねこれは」
「さあ? 身だしなみが気になる年ごろなんじゃないか。お陰で俺の膝は砂まみれだ」
その声音だけを聞けば、大の男が小猫に向かって悪態をついていると取れなくもなかったろうか。
だがしかし、葵が小猫――ウォッカを見つめる目はどことなく優しいもので、彼らの間にある信頼と愛情の絆をありありと感じさせるものだった。
「葵はきっと子煩悩になるだろうね。憎まれ口ばかりたたきながらも、でれでれと子供に頬擦りするような父親に」
「その見解はどこから来たのか、きちんと訊いておきたいんだけど」
「ウォッカにお訊きよ。おまえが1番良くわかっているだろう?」
なあ、とヴェルダが同意を求めて首をかしぐと、ペロリと口の回りを舐めながら満足げに猫がまたたく。
「……まあ。可愛がらないことは、ないんじゃないかと思う。『俺の子供』だと思うとまったくもって想像力が働かないが、『愛しい女の子供』と考えると、なんとなく」
意味あり気ににまにまと笑んでいるヴェルダの視線には、この際、気がつかなかったことにしておく。
「今のところ、子供どころか、『愛しい女』ができる気配もないんでね。気長に構えるさ」
そう呟いた葵の手がグラスに触れた瞬間、大通りの向こうで高く、馬が嘶いた。
ピクンと耳を立てたウォッカが首を伸ばし、馬の声がした方向へといちはやく視線を投げる。
それとほぼ同時の早さで、葵とヴェルダの着いているテーブルのすぐ横を、しなやかな身体つきの成猫が走り去っていった。
「……馬車馬をびっくりさせた犯人が、逃げていったみたいだよ」
「犬猫が盛る時期だからな。別に珍しくもない」
春先は、哺乳類たちの繁殖期にあたる。オスがメスを求め、メスがオスを求め、昼夜問わずにさまよい歩く。
それが、思わぬ事故を招くこともある。
そう、例えば。
「猫の轢死ショーを見ながら山葡萄は、ちょっといただけなかっただろうねえ」
「そう? 姐さんはあまりそういうことを気にしないタイプかと」
「味が混じるじゃないか、なんとなく」
「『後味が悪い』か。なるほどね」
思わぬ小動物の飛びだしにすっかり怯えた馬車馬が、ようやく尋常を取り戻したのだろうか、その蹄を石畳に鳴らしはじめた。
1度は雑然と流れを乱した人通りが、また少し前とおなじように、緩やかな流れを取り戻していく。
その間、葵とヴェルダは、何とはなしに――ただ無言のままだったが、沈黙の幕を最初に下ろしたのは葵の方だった。
「――さっき逃げたやつが、シニカケてたのの親かもな」
「どうして」
「や、毛の質が一緒だったから」
「あんな血まみれでくちゃくちゃになってたの、毛の質も何もあったもんじゃないだろう」
「職業病――いや、元・職業病、みたいな?」
今でこそ、ジャンクを扱った便利屋のような稼業で生計を立ててはいるものの、もとは軍所属の科学研究班でもあった男である。凡そ、『科学』とまとめることのできるほぼ全ての分野に関して精通していた――無論、本人は『かじっただけ』と曰うかも知れなかったが。
「出血のわりには外傷が少ないように見えた。ってことは、『入り口か出口』からの出血ってことだと思う。――意味わかる?」
「『食べ物の』ってつけてくれたらもっとわかりやすいね」
「あれだけ小さな身体で、あれだけどっちかから血を吐いてたってことだろう。内臓破裂、しかもあれだけぺったんこになってりゃ肺は空っぽ。筋肉の弛緩も始まってたみたいだったし」
「助からなかっただろうね」
「助からなかった」
「可愛そうにねぇ」
「可愛そうにな。――ああ、ジンライム、もうひとつ」
そして、また、無言。
テーブルを擦れ違いざま葵にオーダーを申し付けられたウエイターがすぐに、瑞々しいカットライムを添えたグラスを持ってきて、葵の前のクロスにそっと置いていった。
グラスの端を口許に、山葡萄の香りを楽しみながら、ヴェルダは静かに雑踏を眺めている。
その眼差しは半眼、穏やかな慈愛を湛えているように見えながら、非道く静謐で――怜悧な尊厳の光を宿してもいる。
記録をするものの眼差しだった。慈愛、怜悧、尊厳。そのどこを切っても、私情はない。
その向かいで、彼女の後ろに拓かれている小さなガーデンを眺めている葵の眼差しもまた、似た類いの――もともとの彼の面立ちからして、慈愛という名の色は根こそぎ削ぎ落とされてしまってはいたが――光を帯びている。
その実年齢にそぐわず、多くの生と死、始まりと終わりを見てきたものの持つ眼差しだった。多くの祝福のもとに、この世に生を受けたものが、いとも容易くくびれる瞬間を。
合理的な生、合理的な死。
科学への貢献という名を与えられた神の真似事、機械の電源を切り替えるのと同じだけの尊厳で繰り返される命の、オン、オフ、オン、オフ、オン、オフ――。
哀しむべき別れと、そうでない別れとの間に、自ずから別をつけることは難しい。
「あれ、ウォッカがまだ物欲しそうだよ、葵」
猫が死んでいた。
「おい、そんないじましい目で俺を見るなよ――これか? お前はこれが欲しいってのか?」
踏まずにすんだ。
「肴もなしに、ふたりとも良くそうかぱかぱと昼間っから酒が飲めるもんだ」
ふたりと1匹は、馴染みのオープンカフェで気怠い午後を過ごしている。
「あ、俺が見てない隙にジャーキーとかやるのやめてね。ヒトサマの食いもんは塩っ気が多すぎて毒なんだと」
ただそれだけの事なのだ。
「葵、少し風が冷たくなってきたようだ」
傾けたグラス。
その縁に両手をかけた姿勢で、こくこくとジンライムを舐め取る小猫。
「そろそろ戻るとするか――おいウォッカ、満足したらココだぞ、ココ」
葵が空いたほうの左手で、己が羽織っているジャケットのサイドポケットをぽんぽんと叩く。
それを合図にするかのように、上機嫌な白い小猫は温かなそこへ――葵の人肌と守護の象徴でもあるポケットの中へと、するりとその身を滑り込ませていく。
「顔だけは、出して良し。飛んでる蝶を見つけても手は出すな」
「おお、恐い恐い。でも」
そこから転げ落ちることの方が、よほど恐い。
苦笑に両目を眇めながら、ヴェルダはウォッカに目配せを送る。
にああ、ご。
彼女の意図を知ってか知らずか、心地よさげにそう鳴いたあとで、ウォッカはすっぽりとポケットの中に収まってしまった。
春の午後、である。
ふたりと1匹は、散りはじめたサクラの花びらを見上げながら、宛てもないように緩やかな足取りでただ雑踏を歩いていく。
(了)
──登場人物(この物語に登場した人物の一覧)──
【1882/倉梯・葵 (くらはし・あおい)/男性/22歳/元・軍人/化学者】
【1996/ヴェルダ/女性/25歳(実年齢273歳)/記録者】
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