<東京怪談ノベル(シングル)>


はるかぜのおくりもの

 ウルギ神の息吹が世界を彩り、新しく芽吹いた命の賛歌が風に乗って大地を渡る──春。
 ベルファ通りの外れの小さなスラム街、その一角に佇む孤児院にも、春の訪れを歓迎しているかのような、常と変わらない賑やかな声が満ち溢れているはずだった──のだが。

「……こ、このあたしとしたことが、風邪ごときで倒れるとは」
 ベッドの中でか細い悲鳴にも似た声を漏らしたのは、その『賑やかな声』の最たる主と言っても過言ではない緑髪の娘、シノン・ルースティーンだった。
「お熱、あるから。今日はゆっくり休んでなきゃだめ」
 彼女が横になっているベッドの周りでは、子ども達が様々な顔を覗かせていた。いつもは好奇と喜びに満ちている眼差しが今日は特に不安で揺れているような気がして、シノンは意識を奮い立たせようとするが、視界がぐらついてどうにも力が入らない。
 風邪を引いたのなんて何年ぶりだろう。毎日が楽しすぎて、うっかり気が緩んでいた証拠か。それとも、何かウルギ様に怒られるようなことでもしただろうか。
 それを察した子どもの一人が、起き上がろうとしたシノンの身体にそっと手を伸ばしてくる。 
「そんなに近づいたら、みんなに伝染っちゃうよ……」
 ただでさえここにいるのは自分よりも幼い子ども達なのだ。自分の風邪が原因で寝込んでしまったりしたら、申し訳ないどころの話ではない。
「甘いな、シノンねーちゃん。おれたちは『風邪ごとき』でぶっ倒れるほど、やわな体してねーからな。たまには休んどけって」
「子どもは風の子だから、風邪を引いたりはしないのよ。シノンお姉ちゃん、いつもこう言ってるじゃない。ちゃんと外から帰ったら……」
「手洗いにうがい! ちゃあんと、守ってるもんねーっ」
「ねーっ!」
「そーそ、風の子は手洗いにうがいをきちんとしてるからな。ウルギ様も今日はシノンに休めって言ってるんだよ、きっと」
「風邪はまんびょーのもとってゆうの。だから甘く見ちゃだめなの」
 まるで予め打ち合わせでも済ませているかのように、子ども達は次々に口を開く。今日ばかりは彼らも、他でもないシノンのために一致団結しているようだった。それが嫌でもわかる彼らの――とても不安そうな、寂しそうな……けれど心配はいらないと言ってくれているようなそんな表情に、大丈夫だと意地を張ろうとした言葉が急速にしぼんで行くのを感じて、シノンは声を詰まらせる。
「シノンお姉ちゃんはいつも私達のために頑張ってるんだもの。たまには私達だって、お姉ちゃんのために頑張りたいのよ」
 ぎこちない手つきで絞られた濡れタオルの持つ冷たさが心地良くて、このまま眠ってしまえそうだった。相当の熱が出ているのだろうと、今更ながらに自覚する。
「とにかく、ぜったいあんせーなんだからな!」
「それに、お姉ちゃんが元気になってくれるのが、一番だもの。今日は私達に任せて、ゆっくり休んでね、お姉ちゃん」
「確かシノンが昨日採ってきた薬草があったよな。薬草って言うくらいだから風邪に効くよな? おれたちに任せとけよ、風邪に効く薬、つくってやっからさ!」
「よし、てっしゅー! おのおの、配置につけー!」
「がってんだー!」
「走っちゃ駄目よ、みんな。シノンお姉ちゃんは病人なんですからね!」
 ぱたぱたと遠ざかっていくいくつもの足音を、シノンはどこかおぼろげな感覚の中で聞いていた。

 ──昨日採ってきた薬草で、風邪に効く薬。

『昨日採ってきた薬草』は、チャイのスパイスにするつもりだったから、あの子達が味見をしてもお腹を壊さないものばかりだったはず……と、ぼんやりした頭の中で何度も確認して、シノンはようやく安堵の息をついた。懸念すべきはそこだけで、後は何が出来上がろうとも──少なくとも自分が作る何かよりはずっと美味しいに違いない。
「ねえ、あの子達、大丈夫だと思う?」
 いつの間にやらベッドの上で丸まっていた仔猫に、問いかけてみる。その返事はいつもと変わらない、にゃあ──という呑気な鳴き声だったけれど、大丈夫だと、そう言ってくれているような気がした。
「……そう言えば、こんなにゆっくりと休むのは、久しぶりかも」
 風邪を引いているとは言え、こんな時間にベッドの中にいることさえそれこそ久しぶりではないだろうか。確かに最近はあれこれと手を伸ばして忙しい日々を過ごしていたから、もしかしたらこの風邪も、ウルギ神からの贈り物だったりするのだろうか。何とはなしにそんなことを考えて、シノンは、小さく笑った。

 ウルギ神の祝福そのもののような、窓から差し込む穏やかな春の日差しと、咲き綻ぶ花の甘い香り。
 ──扉の向こうからここまで届く、子ども達の声。
 どんなに疲れて帰っても、おかえりなさいと迎えてくれる笑顔。抱き締めてくれるあたたかい腕。
 帰る場所。守るべき場所。かけがえのない大切な家。──家族。
 きっとどんな薬よりも効果的なのは、彼らの一杯の笑顔に他ならないのではないだろうか。
 薬作りに奮闘しているであろう子ども達の楽しそうな声が、やわらかな子守唄のように聴こえて──シノンは、いつの間にか眠ってしまっていた。

*

「おい……静かにしてろよ、シノン姉が起きちゃうだろ」
「こら、あなたも静かにしていなさ……あっ、お姉ちゃん」
 夢のほとりから意識を引き上げてくれたのは、やはりベッドの周りにずらりと居並ぶ子ども達だった。ついさっきまで明るかったはずの空は茜色に染まっていて──
「大丈夫? ぐっすりと寝ていたようだけど……あ、でも……まだちょっとお熱があるわ」
 ぴた、と額に添えられた手が冷たい。
「シノンお姉ちゃん、起き上がれるかしら。あの、あのね……お薬、みたいなもの、一応作ったんだけど」
 子ども達の目が一斉に、部屋にある小さなテーブルの上に向けられる。つられるようにシノンも目を向けて、そして、大きく瞬きをした。そこには見慣れた杯が載っていて──差し出されたそれはそのまま、シノンの両手の中に収まる。
「おれたちの特製、薬草ジュース! ……な、なんか効きそうな気がするだろ?」
 杯の中で今か今かと出番を待ち侘びているように見えるのは、薄い黄緑色の液体だった。鼻を近づけると、草が持つ独特の匂いに混ざって、ほのかに甘い香りがする。
「苦そうだったから……はちみつと、ミルクを混ぜてみたの。お口に合うかしら」
 子ども達の、『シノンが早く元気になってくれますように』という願いと、少しでも美味しく飲めるようにという試行錯誤の結晶──見た目からして何とも身体に良さそうなそれを、シノンは腰に手を当て一気に飲み干した。子ども達のあっと言う声が次々に鼓膜をくすぐり、牛乳の味や蜂蜜の甘さや、何よりもこれでもかというくらいに混ぜ合わせられた薬草の苦い味が、苦いと感じさせる間も惜しむように喉を駆け抜けていった。
「うん、とっても美味しい! ありがと!」
 子ども達の顔に、次々と笑みが灯されていく。やはり何よりも効くのは、彼らの笑顔。
 シノンもまた、満面の笑みで力いっぱい頷いて、我先にとベッドによじ登ってきた子ども達をしっかりと抱き締めた。

「……よし、明日はみんなでどっか、ピクニックにでも行こうか!」
 お日様のようなたくさんの笑顔を見やり、シノンは唐突にそう切り出した。子ども達のためにもう一日くらい休んでも、きっとウルギ様は許して下さるだろう。
「本当!?」
「本当、本当。そのためにもあたしは、明日の朝までにこの風邪を治す! だからみんなは──おいしいお弁当を腕によりをかけてこしらえること!」
「はーい!」
 きっと明日も晴れそうだと、そう思いながら、シノンは窓の向こうに広がる空を見上げる。
 茜から藍色に、夕焼けから夜に──色を変え姿を変えた空に、子ども達にも負けないくらいの笑顔そのもののような大きな月が浮かび、そして、宝石のようにきらきらと輝くたくさんの星が散りばめられていた。



Fin.