<東京怪談ノベル(シングル)>


A u t o l e s i o n i s m o


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 ジュディ・マクドガルは冒険者である。
 …もとい、冒険者のタマゴである。冒険者になりたいと希望しているが、冒険者だと胸を張って言うにはまだ経験は浅く、知識も薄い。冒険者だと吹聴することは至極簡単なことだが、ジュディの目指しているのは父のような立派な冒険者なのだ。ただ単に冒険をしているだけではない。豊富な経験、確かな知識、厚い信念。全てを兼ね備えなければ彼女の思う「冒険者」ではないし、それらを持たない冒険者の命が儚いことも知っていた。故に、彼女は「冒険者のタマゴ」を自称していた。
 だからと言って、「冒険者のタマゴ」に甘んじているだけのジュディではない。日々、経験を積んでいるのだ。比較的危険の少ない、ミニ冒険。それでも自分の至らないところはたくさん見えてくる。それを一つ一つ克服していって、いつか胸を張って冒険者だと言えるように。父に認めてもらえるように。
 ジュディは冒険者のタマゴとして軒並み優秀だ。冒険心に富んだ人間はつい自分の度量を越えた冒険に挑みたがりがちだが、ジュディは小さな冒険からでもこつこつと経験を積んでいる。
 だが、その彼女が一つだけ苦手としていることもあった。それが、座学。つまり机に向かっての勉強だ。
 座学と冒険者が結びつかないと思う人もいるだろうか。だが、冒険をしていて、知識ほど自分を救ってくれるものはないのだ。冒険者に必要な知識は何も、火の起こし方や野生動物に襲われた時の対処だけではない。遠い異国の地へ旅立つこともある冒険者には、各国の風習やしきたり、言葉、政治経済、歴史…そういった知識も必要不可欠だし、他にも知って置いて損をする知識はないといって過言ではない。…のだが。
 ジュディはどうしても座学が苦手だった。真剣に本と向き合うことはできる。だが、真剣になればなるほど、難しい文字の羅列に眠気を誘われる。どうしても居眠りをしてしまうのだ。
(…また…居眠りしちゃった…)
 月明かりの中、ジュディはため息をつく。
 母と夕食をとった後、今度こそはと決意を持って自室の机に向かったのは覚えている。だが、その後、本を読み進めた記憶がとんとないのだ。気づいて顔を上げた時、ランプはとっくに光を失っていて、自分がどれだけ長い間眠っていたのかを思い知らされた。
 きゅ、とジュディは己のふっくらとした唇を咬んで、反射的に枕にしてしまっていたそう厚くはないはずの本を胸に抱きしめる。この本を読もうと決めて、何度机に向かっただろう。だが、挿むしおりの位置は殆ど進まず、未だ始めから数ページの位置にある。
(…ごめんなさい、お父様。また居眠りしてしまいました…)
 今も旅の空の下にある父を思って、ジュディはじわりと涙ぐんだ。はやく父のような冒険者になりたいのに、気持ちだけが空回る。きちんとやり遂げたいのに、どうしてもできない。そのために焦りばかりが先行して、更に自分を追いつめてしまっていた。
(こんな時、お父様がいて下されば…)
 ジュディははっと顔を上げる。
 『お父様がいて下されば』。そう、お父様が…。

 カタ…ン…

 軽い音をたてて立ち上がる。そしてそのまま、おぼつかない足取りで部屋の扉へ。暫く扉を見つめて逡巡していたが、ゆっくりと扉に手を伸べて、錠を下ろした。カチリと小さい音がする。それを確認すると、またゆらりと動き、今度は部屋の隅にある姿見の前へと進んで観音開きになった鏡を開く。
 普通の人々は寝静まってしまった深夜のこと。窓の格子の外から覗く蒼い月だけが、その光景を見ることが出来ただろう。本当ならばカーテンもぴたりと閉じてしまいたかったが、真っ暗では鏡には何も映らないから。だから、月にだけは見ていて欲しかった。
 望み通り、鏡にはぼんやりと体が映し出されていた。普段は健康的な色をしている肌は月の朧気な光に照らされて青白く浮かび上がる。
 …まるで、違う自分がそこにいるみたいだ。
 でも、違う。ここにいるのは間違いなく、変わりない自分。変わりたい自分。これから罰しなくてはならない自分だ。
 覚悟を決めるようにすぅと深く息を吸い込んで、力無く垂れていた手をきゅっと握りしめた。

 パンッ!

 次の瞬間、部屋に軽い破裂音が響きわたる。
 …ジュディの手が己の尻を強く打ち据えたのだった。痛みに彼女の愛らしい顔が思わず歪む。だが、彼女は一度では満足しなかった。続けて何度か、力の限りに尻を打つ。目の端から涙が零れそうになる。けど、ぐっとこらえて、力を緩めずに。何度も何度も、ジュディは己の尻を打ち続けた。
(…!ごめんなさい…!ごめんなさい、お父様っ!)
 両親はジュディの躾にとりわけ厳しかった。小さいときから悪戯をしたり、言いつけを守らなかったりすると、両親…特に父はジュディの尻を叩いて叱ったものだ。だから、彼女は今、こうやって自らを戒めている。己の手を父の手だと思って。何度も何度も振り下ろす。
(お父様、あたし、頑張る!今度こそ居眠りしないで、勉強できるようになるよ!)
 体罰が良いとか悪いとか、そういった話にジュディは興味がない。ジュディに解るのはただ一つ。父も母も、愛しているからこそ、悪いことをしたジュディに厳しく接しているのだということだ。痛いのは打たれている尻だけではない。打つ手の方も、それは酷く痛むのをジュディは知っていた。だからこの行為はジュディにとって、罰を受けているだけではなく、愛されていることを直に感じることの出来る行為でもあった。
(だから…)
 この罰はとても厳しいものだ。だが、罰が終わってジュディが反省をすると、父はいつも優しく頭を撫でてくれる。決まって、『ジュディはいい子だね』と優しく微笑みながら、尻を打つと同じくらい何度も頭を撫でてくれるのだ。痛むのは頭ではなくお尻なのだけど、そうされるととても嬉しくて、どんなに泣きじゃくっていても泣きやんで微笑めた。

(だから…今度帰っていらっしゃったら、『いい子だね』って頭を撫でてね…)

 こらえていたはずの涙がぽろぽろと零れはじめるまで、ジュディは尻を打ち続けた。その頃になると尻は真っ赤に腫れ上がり、僅かな刺激にも激痛を感じるほどだった。だがジュディは荒い呼吸に合わせて大きく上下する肩をいさめ、胸に手を当て、激痛を堪えながら机に向かう。
 固い木製の椅子は腫れた尻に優しくなかった。でもぐっと堪えて深く座る。痛かった。でも、その痛みはジュディに父の声を届けてくれた気がした。

『しっかりしろ!お前にならできる!』

 ジュディはぐいと濡れた頬を腕で拭う。
 もう泣いてなんかいられない。
 その瞳はまだ潤んでいたが、確かな力と意思が見て取れた。


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 開け放されたカーテンの間から、優しい朝の光が降り注いだ。
 ほっこりと優しく、ほんの少しだけ埃臭いその光の中、ジュディは机にうつ伏せて気持ちよさそうに眠っていた。
 そのジュディが枕にしているのは、あのそう分厚くはない本。しっかりと最後のページにしおりの挟み込まれたそれにもたれ掛かりながら眠るジュディの寝顔は、どこか誇り高げであったのだった。


<了>