<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


はなぶさ


 紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る――

 ***

 歩みを追うように引き留めるように、藤野羽月の前をくうるり、ほんのり紅く染まった葉が舞い降りた。
 来し方の樹を辿ってみても、たしかに色づいてはいるが、ひとひらを追ってくる様子はない。葉はまだ寄り添いながら、そより、羽月を見下ろしている。ときおり気まぐれに強い風がやってくるのだろう。秋も深まる時分、ひと足先に衣替えたる庭の草木をいとおしく眺めやってから、廊下を進んで突き当たり、部屋の奥を覗きこんだ。
 名を呼ぶ。――それに応うる声はない。
 求めた声の主は、取りこんだばかりの蒲団に身を凭せて浅い呼吸を繰り返していた。その横で、ふっくらとした感触を一緒に楽しんで茶虎が丸くなっている。首に巻かれた赤いリボンが僅かに動いて、ふいと緑の眸が羽月を捉えた。こちらが口を開く前に、にゃあ、と紫の髪の耳許で鳴かれてしまう。羽月の表情でそれが失態だと察したのか、いちど振り向いてから、足音を立てずに室を出ていった。
 賢すぎる猫を見送って、羽月は膝を折った。
「――すまない。起こしてしまったか」
 幾度かの顫えのあと、リラ・サファトの瞼が上げられたのを見て、羽月は微かに苦笑する。いまだ焦点を結ばぬその澄んだ紫が、少しずつ色を明らかにしていくのをじっと待った。
「あ……おはようございます、羽月さん」
 首を傾けてそういうリラの声は夢の名残を曳いている。
「おはよう。こんなところで寝ていたら、風邪をひく」
 肩に掛けていた羽織でリラを包んでやる。おとなしくそれを着こむ妻の眼差しは、屈んだ羽月が傍に置いた箱に向けられていた。
「それ、なんですか?」
「なんだと思う?」
 珍しく素直に返らなかった答えに、リラはまた首を傾いで箱を見つめる。
 高さのある厚紙で設えられた箱には、金を塗した藍海松茶の和紙の蓋が被せられている。羽月の仕事場で似た大きさの箱をよく見かけた。「お人形……ですか?」
 ああ、と首肯した羽月にぱっと華やぐ表情を見せて、
「この間作っていたお人形、もうできたんですか」
「いや、あれとは違うんだ」
「他にも作っていたんですか?」
 完成の近い人形を並行していくつも手懸けているとは稀有なことである。羽月の人形作りの進捗状況をこっそり把握しているリラは、心底不思議そうに箱へ視線を注いだ。何もいわないということは、未完成でも、羽月以外の人形師が作ったものでもないのだろう。では古いものなのか。それにしては箱が真新しい。
 降参、と上目遣いに見られて、羽月は躊躇うようにふっと吐息する。傍らの箱を引き寄せた。そのまま畳の上を滑らせて、リラの前へと移す。
「見てもいいんですか?」
 ゆっくり、頷く。
「これは、リラさんのために作った人形なんだ」
 箱へ伸びかけた細い指先が止まる。落ちかかった紫色の髪が揺れた。
「私のため?」
「そう。リラさんに贈るために、作った人形だ」
 繰り返し、羽月は瞳を伏せてリラの手許を見つめる。それに促されるように、リラは両手でそっと蓋を持ち上げた。紙の擦れあう音は小さく、けれど静かな室内にたしかに聞こえる。
 蓋を外しきる。箱のなかには白い薄様が詰められている。人形を保護する紙だ。極薄いそれを透けて、色彩が存在を伝えている。近い色だ、とリラは思った。とても近い、もしかしたら等しいとさえいえる、いろ。
 自分にとても近い色。
「…………」
 紙を開き、そこにかたちを確認したリラの瞳は零れるほどに大きく見開かれた。
「本当は、誕生日に渡したかったけれど」
 羽月の言葉が降る。リラはその人形から目を離せずに、告白を聞いた。
「時期がずれてしまったな。……申しわけない」
 ゆるゆると顔を上げ、羽月をまっすぐに見返す。どこか困ったような、不安の覗く羽月の表情に、首を振った。
「そんなの、気にしないでいいんですよ」
 驚きに強張っていた頬を、リラはやわと解いた。呼気に潜ませた微笑は甘く気持ちを告げている。
 戸惑い。怪訝。含羞。――嬉しみ。
 人形を目にした瞬間のそれら気持ちとも呼べぬ揺らぎの断片を、羽月はそのままに受け止めた。
「でも……すごく、びっくりしました」
 やっと常の声音でそういって、静かな興奮の治まらぬ胸を抱く。華奢な肩が息を吐いた。
 名の表す花色の髪と瞳が、箱のうちと相対している。

 薄紙に身を横たえているのは、白き衣を纏う、リラの姿を模した人形だ。

 人形は同じようにリラを見つめて微笑んでいた。
 ゆるく流れを描く髪、その髪を幾分深くした色の瞳は、いったいどのような方を用いたのか、まさしくリラの持つそれと等しき色である。神の息吹を宿す傀儡師の技――だがどこか氷を想わせる凜とした空気はそこにはなく、雪融けの、春の兆しに歓喜し山を駈け下る水流の気が匂った。水はひどく冷えている。けれど在処さえ忘れるような透明と、万物へ新しき季を届けるせせらぎ、それら清浄で、どこか心浮き立つものを、リラの人形は具えていた。

 瑞祥を告げしもの。
 これから来る、二人歩む“先”を見守りゆくもの。

 リラは人形を抱き上げる。片側で軽く結われた髪が手の甲をくすぐった。
 間近で眺めて初めて、真白と思われた衣に細かな刺繍が施されているのがわかる。羽月の生まれた世の伝統的な衣裳。人形が着ているそれは、白かった。光の加減で僅かに知れるほどの控えめさで吉祥文様が縫いつけられている。
 ここだけは人形の身を示す硬い頬を撫で、羽月を見上げた。
「……どうして秘密にしていたんです?」
 決して責めるでなく軽く問われるのに、しかし羽月は答えなかった。
 ただ口許の微笑を深めただけだ。
「その人形に着せる衣の色を、どうするべきか随分と悩んだ」
 かわりに穏やかに、いう。
「リラさんが知らずにいたのも無理はない。その人形を作り上げるまでに、他に数体が完成していた」
「そんなに……」
「時間が掛かった」
 リラの後半の台詞を取って、悪戯っぽく笑む。
「人形自体を作るのにはそんなに掛からなかったが」
「この服……ですね」
 頷いて、懐かしむような眼差しを人形に向ける。純白の絹が射しこむ陽にさっとひかりを返す。
「染色を加えず、生地のままの『しろ』を、漢字でどのように表すか知っているだろうか」
 問いではなく語りかけ、羽月は空中にひと文字、指先で描いた。

 素。

「すなお。はじめ。もと。――そしてシロと読む。素材そのままの色をそういう」
「素直な色……」
 呟いて、リラも手許の人形の衣を見た。
「だが、手の加えられていない絹の素色は、そのように純白ではない。ほのかに黄味がある」
 お互いの間に置かれたままの箱を手繰り寄せると、羽月は人形の包まれていた薄様を掻き分け、底に敷かれていた白い布を取り出した。リラの人形と並べると、たしかに色づいているのがわかる。
「この黄色を精練して消すんだ。その精練方法と、そうしてできあがった絹の白を白練と呼ぶ」
「じゃあ、これはシロネリ色なんですね?」衣を指す。
「そういうことになる。――話は戻るが、私がシロイロを択んだ理由、」
 わかってもらえるだろうか。続く言葉は、唇に乗る前に消える。開きかけた口を結び、喋りすぎだと己に戒めて、羽月は妻の傍らへそっと移動した。
 わざわざ確認せずとも、リラは正しく、深く、解している。
 熱心に人形を見つめる瞳が、そう答えていた。

 シロイロ――素色。
 いまだ染まらぬ本来の、いろ。
 旅立ちのいろ。
 そしていつか、帰するところ。

 気づけば人形の面の陰影が濃くなっている。それにも構わず飽かず人形を眺め続ける妻の横顔をひっそりと確かめて、羽月は知られずに安堵していた。
 人形に何度も、生を与うるようにして、囁いた祈りの名をまた口にする。

「  」

 それは果たして、彼女の耳に音として届いたかどうか。
 それでも自然な動きで、驚いた様子もなく「祈り」は振り向いた。
「羽月さん」
「どうした?」
「私……このお人形に、服を作ってあげようと思うんです」
「ああ。和服でも洋服でも、リラさんの好きなように着せてやってくれ。そうしてくれると、私も嬉しい」
「はい。だから……」
「だから?」
「そのときは、羽月さんも一緒に、何色の服にしたらいいか、考えてください」
「また、私を悩ませるのか」
 苦笑する羽月に、甘える表情で笑みを返す。人形を羽月へ向けて、リラはその横で小さく言葉を紡いだ。
「一緒に、考えましょう」
 夕暮れの空から、戯れにつよい風が下りてくる。
 花の髪を揺らしてそれは、馨香を連れてきた。

 香の主は庭に綻びかけた金木犀。
 花の開きがようよう初めの頃らしく、こちらもまた、これから染まりゆくいろである。樹に黄金色を益して、他の草木に微笑みかけるまでそう掛かるまい。
 この空のようにさっと、染まりゆく。





 これから続いてゆく、しろのいろ。
 無でありながら無ではない。
 すべてを包む――そう、花を、花の蕾を、その身に包みこんで守る萼のような。
 そんなやさしく、つよい、いろなのだと。

 願いをこめた白は、紫に添うて、
 永く、在る。


 <了>