<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


数多の生物は、されど北竜族は

 数多の生物は渦巻き貝から生まれたのだ。
「ふうん」
羊皮紙の語るおとぎ語を、それまで影李はうわの空に字面だけ追っていた。春のほの暖かさに眠気すら誘われていた。だがその一言に視線を止めた一瞬後、ため息をついて中空を見上げた。
 崖の先端に、今にもぼろりと崩れ落ちそうな危ういバランスで建てられた図書館は岬の灯台に似ていた。さほど大きくもないくせにひょろりと背だけが高く、てっぺんに大きな鐘が二つついている。毎日三回、それは鳴らされるのだが影李が顎を浮かせたちょうどそのとき、昼の合図が鳴りはじめるのが見えた。
 なぜ、てっぺんの鐘が影李に見えるかというと、この図書館は一階から屋上までがまっすぐな吹き抜けになっているからだった。建物の中にあるものは壁に沿った螺旋階段と、その壁に直接はめ込まれたような本棚、本棚のないところには広々とした出窓。出窓には紺色の柔らかなクッションも置いてあって、利用者は踊り場にあるソファかその出窓に腰かけて本を読むのだった。
 小さなクッションとぬいぐるみのリュリュを抱え込むようにして空を見上げたままの影李の目に、やがて見慣れた輪郭が落ちてきた。薄暗い館内のせいで最初は黒一色にしか見えなかった服装も、近づいてくるにつれ白と青のタータンチェックのワンピースだとわかってくる。
「影李」
「姉さん」
四歳年上の姉、朱李である。どうやら、上の鐘つき台から入ってきたらしい。翼をたたみ床へ着地したあと、しばらく足がふらふらしているのは間近で時報の鐘を聞いたせいだろう。鼓膜が痺れているのだ。
「大丈夫?」
影李は姉を出窓へ座らせると、自分の翼で風を送る。北の龍族の子であるこの姉妹には、青い滑らかな翼が生えている。
「なにしに来たの」
「なにしにって・・・図書館に来たら、本を読むに決まってるでしょ」
「・・・・・・」
少なくとも、今のままでは影李を驚かせに、もしくは呆れさせに来たとしか思えなかった。

 朱季は本を読むことが好きだった。毎日外を飛び回っているが、それでも一日一冊を欠かさない。しかも読むのは判で押したように推理小説ばかりなのだ。よくもまあ、この世にはこれだけたくさんのトリックがあるものだと感心させられる読書量である。
「姉さんの読書はストレス解消ね」
と影李は言う。自分自身が事件に出くわさず、推理を組み立てられないことへの腹いせらしいのだ。面と向かって声に出せば姉がむくれるので黙っているが、妹の考えくらい知っていて当然の姉はやはり表情を見るだけで不機嫌になる。
「どうせまた、いつものことを考えてるんでしょ」
推理小説はストレス解消、それはもはや連想に近くて、鳥を見れば梟ではないかと考えるのと同じくらい自然なのであった。
「姉さん」
影李は拗ねる姉の機嫌をとるつもりではなかったが、ふと見えたものをそのまま口にする。口数の少ない影李はその分心が多彩で、感じたものにすぐ気をとられてしまうのである。
「姉さんの瞳に、海が見えるわ」
「海?」
それは鳥と梟、のような比喩ではなかった。大きな青い瞳の中で、実際にさざなみが揺れていた。
 既知の通り、図書館は切り立った崖の上にあった。抉り取られた足元には大海原が広がっており、北東側の窓ならどこからでも臨むことができる。日々寄せては返る荒波は、少しずつ足場を心もとないものに変えようと岩壁を打ち崩していた。その海が、はるかに広がる水平線が、出窓のガラス越しに朱李の瞳に映りこんでいた。
 突然の妹の言葉に、思わず朱李は目をこすった。なんだか、むずかゆくなってしまったのだ。瞬きをすると影李の抱いているぬいぐるみのリュリュがぼやけて二重に見えた。
影李の顔がふと、故郷の幼馴染を連想させた。
「影李」
朱李は言葉を探し、そして。
「本を借りてくるわ。すぐに借りてくるから。そうしたら」
一緒に海を見に行きましょう、と朱季は誘った。影李の返事はにっこりと微笑むことであった。
 推理小説しか読まない朱李の本の借りかたは非常に手早かった。「推理小説」と枠でくくられた本棚の端から順番に借りては読み、読んでは返すという繰り返しだったので選ぶ手間がかからないのだ。

 小さな図書館を出た二人はそれぞれに翼を広げ、崖から飛び降りた。先端に建っている図書館から海は一望できるものの、歩いて行こうとするなら岩を切り崩して作った断崖の細い階段を、手すりもなにもついてないものだから、慎重に下らなければならなかった。それも、砂浜の場所が図書館からは遠いので大分歩く羽目になる。その点翼があれば、砂浜までは障害物を避けて飛ぶだけだった。
「見て、姉さん」
崖の岩肌に沿って飛ぶ姉とは対照的に離れたところを飛んでいた影李が、階段の軌跡を指差した。
「螺旋だわ」
確かにそれは、突き出た大岩を避けるようにぐねぐねとうねるようにして作られている階段は螺旋、ばねの両端を引っ張って伸ばしたように見えなくもなかった。実際にはただゆがんでいるだけなのだが、平面で螺旋を見れば影李が指さしている階段に似ていることだろう。
「知っている?数多の生物は渦巻き貝から生まれたそうよ」
さっきまで影李が読んでいた本の題名を、朱李は知らなかった。小さい頃に読んだかもしれないけれど、最近は推理小説に心奪われているので思い出せなかった。
 朱李が本の題名に気をとられている隙に、影李は一足先に砂浜へ降り立った。瀟洒な靴にざらざらと砂が潜り込む。数歩歩くと白い渦巻き貝を拾った。
「最初に生まれたのは魚ね、きっと」
魚は渦巻き貝から這い出した後、息が出来なくて苦しくて海へ入ったのだ。そして、塩辛い水の中で泳ぎ回る術を身につけたのだろう。一般には魚が生命のはじまりと信じられているが、それはさらに渦巻き貝からはじまったのだ。
「魚が私たちに進化するまでどれくらい時間がかかったのかしら」
「どれだけ時間がかかったって、きっと無理よ」
追いついた朱李が翼を閉じて、影李のほうへ駆け寄って渦巻き貝を取り上げた。そして、思い切り振りかぶると海へ向かって放る。
「私たちは、私たちから生まれたの。北竜族だけは特別」
数多の生物は渦巻き貝から生まれた。けれど、北竜族は北竜族だけでできているのだ。
 渦巻き貝は朱李が力を込めたほどには飛ばず、視界で捉えられるほどの距離で海へぽちゃりと落ちた。そしてしばらくは海面に浮いていたのだけれど、波に揺られるうちに空洞の貝の中へ水が入り、あぶくを立てながら沈んでいってしまった。
「いつまでも波にただよっていたら、貝はどこまで行けたのかしら」
「さあ、どこまで行ったかしら」
姉妹は互いにわからない振りをした。だが、妹のほうがとぼけるのは下手だった。
「北の海まで、行けたかしら」
北の方角には故郷があった。懐かしい家族や友達がいて、みな姉妹と同じ色の髪と目とそして、優しい笑顔を持っている。普段には思い出さないことだがこうして海を見つめ、それぞれの横顔を眺めていると、どうしても寂寥にかられてしまう。
「姉さん、数多の生物は渦巻き貝から生まれたと言うわ」
では渦巻き貝はなにから生まれたと思う?影李は姉に尋ねた。姉を試すような口ぶりではなく、純粋な疑問形であった。
朱李は海を見つめ、その中に生きる数知れぬ生物の姿を頭に思い描き、そして最後に首を横に振った。
「わからない」
いくら推理を生きがいにしている朱李であっても、そこで渦巻き貝は北竜族から生まれたなどという下手な推理を働かせる気にはならなかった。