<東京怪談ノベル(シングル)>


■あの日と同じ青い青い空

 どこでも晴れた日は空を見上げる。そこには砂糖菓子の様に真っ白な雲と、吸い込まれそうに青い青い空が見える。こうして旅をしながらたった1人で見る空も、ず〜っとずっと前に見た空も同じ色をしている。雨の日も曇った日もある。泣きたい日も怒りたくなる日もある。けれど、空はいつも変わらない。だからきっとエルリムの気持ちもあの日‥‥ずっと昔に村で空を見上げた時と多分変わっていないんだと思う。
 エルリムは願う。たった1つのエルリムの願いが叶うことを。その『方法』を探すために、エルリムはもう随分と長い長い旅をしている。

 遠くから声が聞こえた。エルリムの名を‥‥エルリムと呼ぶ懐かしい声が聞こえる。なんとなく結末がわかっていたけれど、エルリムはそっと目を開けた。

 目の前に小さな手が差し出されていた。
「何ぼんやりしてんだよ。行こう」
 エルリムよりも小さくて柔らかそうな手。差し出した人物の背もエルリムより小さい。
「エルリムを誘っているの?」
 エルリムは普段自分の事は名前で呼ぶ。名前はエルリムを表す『言葉』だ。だから、エルリムは名前が好きだ。エルリムがここに居ることを高らかに宣言しているからだ。
「そうに決まってるだろ? ほら、来いよ」
 小さな手がエルリムの手をギュッと握った。暖かい。まるで燃えているかのように熱い手だった。エルリムとは違う『人間』という種族の子供。この種族の子供は皆こんなに熱い手をしているのだろうか。だとしたら、エルリムなんかは到底つとまらないと思う。初夏の暑さにもへばってしまうくらい暑がりなのだ。その子はエルリムの手を握ったまま走り出した。柔らかそうなツルツルの肌をしていてる。身体のほとんどに体毛がない人間をエルリムと同じ種族の大人達はあまり気分の良いものではないと思っている。お隣のおばさんは『毛がないから怪我をするんだよ』って言っていたし、はす向かいのおじさんは『しっかりとした毛がないなんて、想像しただけでもゾッとする。きっと冬は寒すぎるし夏は暑さってモンがわからないんだろうなぁ』って言う。この村には半分よりちょっと多くエルリムの様な種族がいて、半分よりちょっと少ない数だけ『人間』が住んでいる。2つの種族は喧嘩なんかはしないけど、とりたてて仲が良いわけではない。
 けれど、それは大人の問題。子供には関係ない。どちらかというと、家の中や家の廻りに居ることが多かったエルリムをあの子は手を引いて遠くまで連れ出してくれる。エルリムに違う世界を見せてくれた大事な‥‥そう、大事な友達だった。今も村を抜けて小高い丘に登る。
「どうだい? 綺麗だろう?」
「‥‥綺麗だ」
 草原の草が風に吹かれて揺れている。明るい若葉色の草は風が吹くたびに何度も何度も揺られてしなる。太陽の光に反射してピカピカと光っている。
「海……みたいだろう?」
「海? それ何?」
 子供は不思議そうな顔をした。
「エルリムは海を知らないの?」
「知らない。エルリムは村の外の事はあんまり知らないんだ」
「海はでっかい水たまりなんだ」
「‥‥へぇ」
 大きな水たまり。雨上がりに出来る水たまりが大きくなっても、この光景とどう似ていると言うのだろう。見当がつかないし、想像も出来ない。さぞや怪訝そうな顔をしていたのだろう。子供は更に説明をし始めた。波があるとか、しょっぱいとか、魚が棲んでいるのだとか言う。そう言われてもやっぱりわからない。
「それですっごくでっかいんだ。もうこ〜んなに、こ〜んなに大きいんだ。ってエルリム聞いてる? もうぉ〜」
 同じ様な言葉ばかりが出てくるようになり、それでもエルリムが納得しないでいると子供の顔が不機嫌そうになってきた。今までも時々こういう事があった。何かを説明しようとして向こうは言葉不足だし、エルリムは基礎知識が不足している。けど、村には遠出なんてしたことがない大人だって沢山いる。海を知らなくてもエルリムだけが特別に疎いわけではないと思う。
「エルリムってばいっつもこうなんだよな。もういいよ!」
「‥‥あっ」
 するりと熱い手がエルリムの手首から離れていく。追いかけようとしたけれど、何故だか足が動かなかった。これ以上何か言われたら目から涙が湧いてしまいそうでイヤだった。泣き虫になんてなりたくない。エルリムは草原に目をやった。あの子が教えてくれた草原の海をしっかりと目に焼き付けた。

 それから数日、あの子はエルリムの前に姿を現さなかった。忙しいのだろうと思っていた。村では大人の仕事を子供が手伝うのは当たり前の事だ。けれど、3日経っても5日経っても‥‥とうとう10日経ってもあのこは来ない。心配になって少しだけあの子が住む家の方へと向かってみた。その辺りは『人間』が多く住んでいて、エルリムの様な多種族はあまり近寄らない。
「‥‥」
 あの子の姿があった。けれど、声が出てこない。名前を呼べない。あの子は同じ種族の子供達と楽しそうに遊んでいた。歓声が高く響く。
「‥‥おい」
 エルリムに気が付いたのは別の子供だった。あの子をツンツンとつつき、エルリムの事を指さす。
「あのヤギだろ? お前が仲良くしてた奴って」
「‥‥違うよ」
 あの子はそっぽを向く。唇をギュッと噛んで下を向いてしまう。どうしてエルリムが居るのにエルリムの方を見てくれないんだろう。
「あの‥‥」
 小さな声を出して半歩踏み出す。
「来るなよ!」
 あの子が強く叫んだ。それだけで足はもう出ていかない。
「もう一緒には遊ばない! だからあっちへ行けよ!」
「なんで? ねぇ‥‥どうして?」
 あんなに仲良しだったのに、どうしてそんなことを言うんだろう。鼻の奥かツーンとして目の奥が熱くなってくる。そしてそれよりも何よりも胸の奥の方が痛い。
「エルリムってハッキリしないんだもん! つまんないもん! やっぱりヤギはヤギなんだ。人間とは一緒に仲良く出来ないんだ!」

 目が開いた。真っ青な空が飛びこんでくる。昼食を終えていつの間にか眠り込んでしまったのだろう。野原に仰向けに転がっていた。昼下がりの日差しは優しくて、何処か遠くで鳥の鳴き声が聞こえてくる。のどかな午後であった。そっとエルリムは上半身を起こした。あの時よりもずっと大きくたくましくなった自分の手を見る。その手にポタリと滴が零れた。顔に手をやると細かい体毛がしっとりとぬれていた。涙だ。あの時の事を夢に見て泣くのは初めてではない。照れたように笑った後涙を手でぬぐった。結局、あれが村を出て旅に出るきっかけになった。あれから海も見たし『人間』でも『ヤギ』でもない種族も知った。種族が違っても友達になれることもわかった。自分の言いたいことはしっかりハッキリ伝えることも教えられた。だから、あの子ともう一度友達になるために、そのたった1つの方法を探している。言えば誰もが馬鹿にするだろう。止めておけと言うだろう。だから滅多に旅の目的は言わない。
「エルリムはまだ村に帰らない! けど、いつかきっと方法を見つけて変えるよ! 絶対に絶対にね! そうだ、こうしちゃいられない!」
 勢いよく飛び起きるとそのまま立ち上がる。昼寝をしていた場所の左右には見事な草原が広がっていた。風に揺られて海面の様うねって輝いている。これも懐かしい風景だった。だからここで休憩をしたのだが、それがあの夢を見た原因だったのだろうか。エルリムは小さく首を振ってから小さな旅の荷物を布で縛り背負った。そしてもう一度空を見上げた。空の色は変わらない。だから胸の思いも変わらない。
「よし!」
 エルリムは身体についた草を払い歩き始めた。

 旅は終わらない。