<東京怪談ノベル(シングル)>


禍つ声、救う声


―――おまえだ。
そう、影は言った。
掴めない闇が周りを包んで、オーマを指さす。
―――おまえだ。
禍いを連れてきたのは。
底無しの悪意と憎しみが形をとり、こぞってオーマを糾弾した。世界から溢れるほどの闇を伴って、それは確実にオーマの体を侵食してゆく。じわり、じわり、オーマは指先から黒く染まり、周りを取り巻く闇に同化しようとしていた。
それは世界のように運命のように、絶対的な力でオーマを黒く塗りこめてゆく。
逃れられない、闇に。

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はらはらと、雪のように桜が舞う季節。
その薄紅がいちばん映える夜闇の時に、オーマはひとり、しずかに杯を傾けていた。
友人に貰った珍しい酒(ニホンシュ、といったか)を堪能するためである。彼の祖国では、これは夜桜の下で呑むのがいちばん美味いのだという。少し甘いその酒は、なるほど、目の前の静かな景色にこれ以上無いほど合うのであった。
冬から春への季節の変わり目ということで、近頃は風邪やらなにやらを引くものが多く、毎年の事ながら、シュヴァルツ病院はにわかに忙しさを増していた。引っ切り無しの患者にオーマも少々疲れていた折、友人からのこの贈り物はこころに沁みるものがあった。生来賑やかなものを好むオーマだったが、偶にはゆっくり一人酒、と洒落込むのも悪くは無い。
春のゆるやかな風に吹かれて、見事な桜は一枚いちまい、闇にその身を躍らせてゆく。二つの対比で、闇はより昏く、桜はより鮮やかに色を深めていた。オーマは杯を干す。喉を通る熱さと甘さに眼を細めたところで、こんな機会はいつ振りだったろう、と考えた。

―――思えば、ソーンに渡ってから、もう二年が過ぎたのだ。

オーマは二年の間の出来事を思い返す。久遠を生きてきたオーマだったが、この二年間は随分と長く感じた。思い出を追えば追うほど、感慨深さがこみ上げてくる。
オーマ達が持ち込んだ『異』……即ち、具現現象。二年の間数え切れぬほど起こったそれは、悪辣で、滑稽で、救い様など無かったけれど―――どこかもの哀しく、あたたかいものに包まれてもいた。まるで人生のようだ、と思い、オーマはひとり、その諷刺の利き具合に苦笑する。

またひと口酒を呑み、オーマは俯く。視線の先には、無骨な手のひらがふたつ、並んでいた。
二年間、この手のひらには幾つの命が触れたのだろう。総てを守りたいと切望した自分の手からは、しかし、零れ落ちてゆくものも少なくはなかった。
オーマは桜を見上げた。
オーマの願いは、この桜のようだ。
はらはらと舞っている、桜の花びら。眼に映る総てを守ると誓っても、それは実現する筈も無く、あとからあとから零れてゆく。―――当然だ、自分は神では無いのだから。
地面にふりつもる薄紅のように、徐々に徐々に、この世界は異に染まっていっている。具現の力の浸食をうけ、ソーンは明らかに変貌していた。そしてそれが、オーマ達がここで暮らしているその所為だということも解っていた。昨夜見た夢が、それを如実に物語っている。闇という異に喰われてゆく、あの夢。
オーマ達の持つ力がいかに強大であっても、運命というおおきな流れを止めることはできないのだ。
そう思ってから、気付いた。―――運命というものがもしほんとうに在るならば、その奔流はこの世界を、オーマ達を、何処へ連れてゆこうとしているのだろう?
……その問いに、答えが出ないことも、解っていた。

いつの間にか徳利は空になっている。
オーマが最後のひと口を飲み干し、この静かな宴を仕舞いにしようと思ったその時。
闇を裂いて、一羽の鳥が飛来した。
「……何だ?」
見れば、鳥の足には文が括りつけられている。伝書であろうか。薄水青の羽根をばたつかせる鳥から文をはずすと、鳥はすぐにどこかへ飛び去ってしまった。オーマは紙を開く。そこには流麗な女文字で一行だけ、こう書いてあった。

『相談したいことがあります。明日の正午、私の部屋へお出で下さい。お待ち申し上げております。   エルファリア』

それは、王女からの古風な手紙であった。

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「地下の囁き声の噂を、ご存知ですか?」
エルザード城、王女の居室。
金色のうつくしい瞳を瞬かせ、王女はオーマに訊ねた。
「いや、うっすらと聞いた事しか無えな。どんな話だい?」
「そう、二年くらい前からかしら……。この城の地下から、なにかを囁くような声が聞こえることがあるらしいのです。聞こえる者とそうでない者がいて、聞いた者の話によると、それはこの国の言語では無いようなのですね。男女の区別もつかなくて、おまけに、それが聞こえてくるのは本来の地下よりもっと深いところから、らしいんですの。」
なんだか何処にでも有りそうな幽霊譚である。好奇心が旺盛な王女の新たな楽しみだろうかと思ったが、しかし彼女は深刻な顔で話をしている。何が言いたいのだろう。王女の意図が読めず、オーマは首を傾げた。
「その怪談話が、どうかしたのかい? 何の変哲も無えように聞こえるんだが。」
「えぇ、そうでしょうね。今までは稀に酒の肴にされるくらいの、唯すこしばかり有名なだけの怪談話でしたもの。……それが最近、良く解らないことになっているのですよ。」
「良く……解らないこと?」
「……実は、相談したいことというのは、それですの。」
王女は伏し目がちになり、病なのです、と呟いた。
「近頃、その声を聞いたと云っていた者が、おかしな病に罹っているらしいんですのよ。なんでも、原因不明の高熱を出して、ひたすら寝込んでしまうのですって、」
「性質の悪い怪談だな、」
「えぇ、ほんとうに。……今では患者も結構な数になっているので、救護棟で城医に診せているんですが、原因がどうにも解らないそうなのです。」
「成る程ね。」
真意は読めた。つまり王女は、医者でありヴァンサーであるオーマに救援を要請しているのだろう。オーマは往診する意思を告げ、早速道具を取りに家へ戻ろうとした。

「あ、ひとつ、云い忘れていたことが、」

「ん?」
「患者たちには、共通点がありますの。……手のひらに必ず、不思議な痣が浮かぶのです。」
そう云って王女は、オーマの胸を指さした。
「オーマ。あなたの胸にあるタトゥと、同じ形のものが―――」

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城の救護棟のベッドには、十数人の患者が横たわっていた。皆一様に意識が無く、すやすやと眠り込んでいるようだったが、触れてみると高熱を出している。
……そして力なく投げ出された手のひらには、確かに、ソサエティのエンブレムが浮かんでいた。
狭い部屋に所狭しとベッドが並んでいる光景はさながら野戦病院の如しだったが、しかし患者たちはうめき声ひとつ上げず、何もかも忘れたように眠りに取り込まれていた。
唯静かなだけの病室は、却って気味が悪い。人形が並んでいるようだった。

オーマは端からひとりひとり、往診鞄を手に診断してゆくことにした。
診てみれば王女の言ったとおり、患者たちは一人残らず熱を出しているが生命活動に異常は無く、ただ体温が高くなっているだけのようだ。原因は、不明。至る所を調べたけれど、病原体となりそうなものはひとつも見つからなかった。
新種の菌でも入ったのだろうか。けれどそれならどこかが必ず炎症なり何なりを起こしている筈だ。もしウォズの仕業だったとしても、必ずどこかに残滓を感じられるのに、患者たちには、それが無い。新しい病気と考えるほか無いが、しかし、正体の解らない囁き声を聞いたもの達だけが罹る病?……馬鹿な。それにソサエティのエンブレム、あれは何なのだ―――。

そこまで考えた時、
ふと、オーマの耳元でなにかが囁いた。

「―――!?」
背が、ざわりと粟立つのを感じる。今の声は、まさか―――。
次の瞬間、巨大な具現の波動が城を襲った。
「ぐあ、ッ?!」
わあん、と耳鳴りがし、オーマは思わず耳を塞いで片膝をつく。神経を逆撫でするような波動に、びりびりと体が震えた。辛うじて開いた眼に見えたのは、その場にいる人間がばたばたと気を失って倒れてゆく姿であった。
何なんだこりゃ、洒落になんねぇぞ―――!
オーマがそう思った瞬間、耳鳴りはふ、と収まる。がば、と起き上がって最初に理解したのは、この城全体が具現封印されているという事実であった。
訳も解らぬまま立ち尽くしていると、オーマの耳に、再びあの囁きが聞こえた。ぼそぼそと、不明瞭な声で呟くそれに、オーマは確信を持った。耳から流れ込んでくるその言葉を、自分は知っている。
間違い無い、これは―――ヴァラフィスだ。
ソーンでは使うことが出来ないはずのその言霊は、しかし、強烈な意思と力を持って確かにこの城を取り巻いていた。当然オーマのものである筈も無かったが、已まぬ囁き声がどんな意味の言霊を紡いでいるのかは解らない。オーマの知識に無い言霊が、晴天に広がる不吉な暗雲のようにエルザード城を浸食してゆく。

正体のわからぬそのヴァラフィスを辿り、囁き声が聞こえていたという地下へ、オーマは導かれるように走り出していた。その場所への道を聞いたことはなかったが、オーマにはその元が何処に有るのか、確かに感ぜられる。確信を持った足取りで降りた階段の先には、案の定、具現浸食による大きな大きな穴が―――開いていた。
オーマは眼を閉じてヴァラフィスを聴く。近づいてもそれが何を言っているのかは、やはり、解らぬ。けれどヴァラフィスが発せられているのは、確実にこの穴の中からだ。
オーマはひとつ息をつくと、昨夜の夢を連想させるような昏い闇の中へ、躊躇無く身を躍らせた。

+ + + +

穴の底には、無明の闇が広がっていた。
視覚を封ぜられているが如くの闇の中、オーマにはしかし、迷いは無かった。……何処に進めば良いか、解る。延々と流れるヴァラフィスが、こちらへ来いと手招きしているのだ。
「おーぉ、良いぜ、行ってやらァ。どんなもんだ、オバケちゃんとやら。」
 見得を切ってヴァレルを翻し、自分の手のひらすら見えぬ暗闇にオーマが足を踏み入れた瞬間、それまで囁き声だったヴァラフィスが突然大きく聞こえ―――

―――無数のカマイタチが、オーマを襲った。

「―――!」
一瞬遅れて、全身に痛みが走る。あちこちを負傷していた。
如何云うことだ。今のは確かに―――ヴァラフィスによる攻撃だった。通常ソーンにおいて、ヴァラフィスはそれ単体での攻撃など出来ぬ筈なのだ。ソーンにはまだ、具現の力が満ちていないのだから。
今の具現攻撃によってであろう、気付けばオーマのヴァレルが浸食され、その媒体である胸のタトゥが薄れ始めてきていた。
「畜生、訳解らん! 俺のグレイトビューティマッチョビーストな胸筋タトゥが無くなっちまったら、あいつに怒られるどころじゃ済まねえじゃねえかッ、」
ラブ鬼嫁の悪魔(ある意味天使)の微笑を思い出し、ともすれば臆しかねない心を叱咤する。落ち着け焦るな頑張れ俺、あいつに殺されるのは本望だけどもできればもうちょっと先がいいぜ!

オーマは必死で考える。ヴァラフィスによる攻撃はなぜ成し得たのだろう。具現の力に浸食されきっていないソーンで、行使できる訳は無い。訳の解らぬまま思わずあたりを見回す。延々と暗闇が広がるばかりだ。あまりの閉塞感に、オーマは今までの世界から閉め出され、闇の世界へと放り込まれてしまったのではないかと思う。
そこまで考えて、はた、と思い至る。
―――……もしかすると。ここは、異世界なのでは無いだろうか。
否、異世界までは云わずとも、ソーンから少し捩れ、枝分かれしかけているような世界。例えばそれがゼノビアと少しでも繋がっているのであれば―――具現の力はその世界を浸食する。ヴァラフィスが使える理由も、説明がつく。
試しに、オーマは炎の具現を行ってみた。オーマの説が正しいのなら、囁き声の主だけでなく、自分にもヴァラフィスが使えるはずだ。

途端、目の前に火が灯った。
やはりここは異世界なのか―――そう思うより先に、オーマは驚くべきものを眼にする。

何も無い空間に浮かぶウィルオ・ウィスプのようなその灯りは、ひとつの大きな扉を照らしていた。古びた扉は久遠を経たように錆び付き、ぼろぼろと朽ちかけている。そしてその扉には、見紛う事など有る筈も無い、ソサエティのエンブレムが刻まれていた。
「―――良く見るぜ、このマーク。何だ、今日はソサエティの創立記念日かなんかか?」
軽口を叩いてみるが、そんな訳が無いのはオーマが一番良く知っていた。
オーマはヴァラフィスを唱え、体の周りにバリアを張る。歩き出した途端、再びカマイタチが襲いかかったけれど、ヴァラフィスとヴァラフィスは相殺され消えてゆくのみで、オーマの体には届かない。
扉の前まで進み、オーマは覚悟を決める。
「さぁて、と。どんなおっそろしいオバケちゃんが待ってやがるんだ―――?」
手を伸ばして、扉を、開く。
ぎいいぃぃいいぃい、と耳障りな音をあたりに響かせて、扉はゆっくりと向こう側へ開いてゆく。

その向こう、には。
鳥籠を抱えたうつくしい女性がひとり、こちらに微笑みかけていた。

「…………」
オーマは動きを止めた。
全身傷だらけの大男がぽかんとだらしなく口を開けて立っている姿は、それはもう、間抜けだったであろう。暫く思考をやめたオーマを、その女性はうっすらと、菫の花を思わせる可憐な微笑のまま見詰め続けていた。

てん、てん、てん、ちーん。

「―――あんた、誰だ?」
ようやっと思考能力の回復したオーマは、女性に訊ねた。彼女は微笑を崩さぬまま、一歩前に出る。しゃなり、と音が聞こえるかと思うほど、優雅な足取りであった。
「初めまして、オーマ・シュヴァルツ。私は……番人、とでも云っておきましょうか。」
「番人……だと?」
えぇ、と女性は肯く。
「説明になって無えな、お嬢さん。何の番人かは知らねェが―――あんな力を使える理由は何だ、」
 警戒心を解かぬオーマに対し、女性はあくまでのほほんとしている。気を抜けばこちらまでのほほんとしてしまいそうになるが、オーマはじろりと睨み続ける事で何とか気を保っていた。
「そう、いきなり攻撃してしまったことは、謝りますね。ご免なさい、ちょっと試してみたんです。オーマ―――あなたが、この籠を託すに相応しい者であるかを、」
 そう云って彼女は、手に持っていた鳥籠を持ち上げた。中には何か無数の透明なものが、羽虫のようにふわふわと浮遊している。
「これはですね、オーマ。この城に集まった、残留思念です。人やウォズ、霊魂、妖精……あらゆるものが遺していった、思いのかけらたち。」
「それが……何だってんだ?」
「オーマ。ぼんやりと感じてはいるでしょう。あなた方が来てから、この世界は変わりつつあるのです。以前では世界に影響などなかったこんな小さなかけらたちに、今では具現の力が交わるようになってしまった。理性や思いを伴わない純粋な思念たちは、だからこそ、ともすれば世界の悪になりかねないのですよ。例えば、痛い、という思念を遺して死んでいったものが居るとしましょう。その思いがそのまま具現化してしまったら、それは無作為に世界を傷つける刃になってしまうのです。」
 女性はその顔にすこしだけ、憂いを浮かべた。
「今まで私はそれを危惧して、この籠に思念を収めていたのですが……私の力では、もう抑えつける事がかなわなくなりそうなのです。だから、オーマ。この世界で一番つよい心と力を持っている人。あなたに、手伝って貰いたかったのですよ。……少々荒っぽいやり方でしたが、城の者達を病気にし、あなたの心に深く刻まれていたこのエンブレムを掲げれば、あなたはここへやってきてくれると思ったのです。」
漸く、すべての糸が繋がった。
「……回りくどいぜ、お嬢さん。」
オーマは緊張を解き、笑顔をみせる。
具現の力に浸食されかけているソーンを、たったひとりで守ってきたひとりの女性。
その細い手から華奢な鳥籠を受け取ると、オーマは彼女に、深々と、礼をした。

「俺はこの世界が好きだ。―――有難うな。俺達の住む世界を、守ってくれて。」
これからは、俺の役目だ。そう呟いて、オーマは顔を上げる。
彼女は華のように微笑み、有難う、と返した。

それは―――この世界のような、うつくしい笑顔だった。

+   +   +   +

それ以来、エルザード城の地下から不思議な囁き声が聞こえることは無くなった。
王女は城の七不思議がひとつ消えたと残念がっているようだったが(ほら見ろやっぱり楽しんでたんじゃねえか、とオーマは思った)、不気味な怪現象が無くなったので、城の衛兵や召使達はほっと胸を撫で下ろしていたようだ。声を聞いて寝込んでいた患者達は嘘のようにさっぱり回復し、あれだけ熱を出していたにも拘らず、三日と経たない内に元気に走り回れるようになっていた。
そして珍品揃いのシュヴァルツ病院の院長室の棚に、またひとつ、おかしな鳥籠が仲間入りした。何も入っていないように見えるその鳥籠から、偶に、ひそひそと呟くような声が聞こえるのだという。病院にありがちな怪談だが、オカシナモノは枚挙に暇が無いようなシュヴァルツ病院においては特に気にされることも無く、従業員や患者にはそっとしておかれているらしい。

余談だが―――院長室に時折訪れる美しい女性の噂話は、酒の席やら井戸端会議やらで、喋る鳥籠よりもずっと持て囃されているようであった。その女性との関係を噂された院長先生が、細君にボロ雑巾にされたとか、されてないとか。

何れにせよ、ソーンは今日も―――平和なのであった。