<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


皐月闇に酔う




 燦々、燦々と。
「──ならば、どうぞお好きに。褥も共にさせて頂けないとは、ずいぶんと嫌われてしまったものだ」
 窓の外では季節のなま温かな霧雨が降り続いている。
「あなたは私の身体だけが目当てなのだろうか? そうでないならば──同じ布団の中で眠らねばならぬ道理もないだろうに」
 ガラス窓はほんの少しだけ開けている。じめじめとした空気が室内に篭るくらいならいっそ、少しでも外気を通した方が寝苦しくない。
「……あなたは、」
 そう、何かを問い掛けようとした馨の声が途切れる。途切れて、しまった。
 やがてそれは風になる──深い深い溜め息となり、背後で彼が前髪を掻き上げる仕草の気配をさせたから清芳は少しうっとして、目を閉じた。
「──、先に休みます。清芳さんも、あまり夜更かしはなさらないように」
「私はもう子供ではない。自分が床に潜る時間は自分で決める」
 部屋と部屋の仕切りをまたぎ、室内から馨そのものの気配がかき消えてしまうまで、清芳はじっと彼に、背中を向けたまま微動だにしなかった。
 そして、彼が言葉の通りに──自分をこの部屋にひとり置き去ったのだと、確信したとき。
 熱くなったまぶたをそっと開いたら、自分の青い瞳がうるんでほたりと、雫をこぼしたのだった。



 男と女が寄り添い、そこから先の人生を共に歩む。
 言葉にしてしまえばそれほどシンプルで、判りやすい人生はないと思った。
 そう決める前と後では、何も変わるものなどないとも思っていた。夫婦としての誓いを交す前から、自分と彼──馨とは、互いの時間を共有しながら生きてきたのだ。
 彼の手指を眺め、彼の首筋を見上げ、その優しい面立ちと目が合えば微笑み、指先同士をからめあう。彼女とて、自分の感情や挙動に多少うといところがあるとは云え、決してうつけでもないし、女として生まれ持った本能もある。
 馨さんとならば──馨さんとしか。
 そう心に誓った想いが、成り行き任せであったわけでは絶対にない。
「……………」
 1度零してしまった涙は、そう簡単には止まらない。ほた……ほた……。膝の上できゅっと固く握りしめている両手の甲を、それは後から後から零れ落ち、温かく濡らしていく。
 身体だけが目当て?
 ──自分は、何と愚かなことを曰う女になってしまったのだろうか。
 何と、意固地な女になってしまったのだろうか。
 呆然とした清芳の双眸からは、窓の外に降り注ぐ皐月雨のように涙が溢れ、頬を濡らし、膝に滑り落ちていくが、嗚咽はない。ただ背筋を強張らせ、うち捨てられた仔猫のように不安に震えるのみである。
 泣き方すら忘れてしまった、可愛げのない女だ。私は。
 自嘲、自責、良心──否、愛の呵責。
 嗚咽の変わりに大きく息を吐いたら、鼻の奥がツンと痛くなった。首の後ろが痛い。胸も、痛い。
 どうして素直に、己の心のうちを伝え切れぬのだろう。
 どうして自分は、心のうちを伝える言葉を持たぬのだろう。
 馨と出会ってから、自分の中にも『女』があることを知った。
 馨とこれからの人生を共有する誓いを立ててから、その『女』で、馨の側にいたいと願った。
 ──自分は、自分の愛する男に、自分の中の『女』を預ける術を知らぬまま、愛する男を失うことになるのかもしれない──そう思ったら、目の前が真っ暗になるような気がした。絶望と云う名の帳が降りる。どうして『嫌われた』と云った彼の言葉に、その場で否定する言葉を重ねることができなかったのか、自分は。
 もう、遅いのか。
 自分は彼に、見捨てられるだろうか。
 思考は螺旋する。くるくると同じ結論を導き出し続け、同時に少しずつ、悪方へ、悪方へと、堕ちていく。



 畳の上、左腕を枕にゴロリと転がったまま、おそらくは自分が部屋を出たときからずっと背中を固くしたままの清芳の気配を探っていた。
 ──嫌われている? 誰が! その言葉を彼女に投げたときには自分は、確実に我を忘れてしまっていた。馨は鼻頭に忌忌しげな小皺を作り、己に向けて心中、悪態を吐く。平素は決して、他人はおろか、清芳にも見せぬ表情である。
 そんな言葉で1番傷つくのは誰だ。
 他でもない、彼女自身ではないか。
 きっかけはと問われるならば、その全てが些事に他ならない。
 ふと微笑んで見せたとき、怒ったような表情で自分から目を逸らす彼女。
 夫婦の戯れと肩を抱いたとき、するりと腕の中を擦り抜けていく小さな体温。
 以前は、打てば響くようだった言葉のやりとりも、言いかけたことを途中でやめる僻(へき)がついた彼女は言葉を途切れさすことがしばしばになった。
 それでも、最初のころは嬉しかった。己が男として意識されていると云う、それは紛れもない『照れ』の反応である。清芳の性格や、それに伴う言動に関しては、誰よりも理解できていると云う自負が馨にはある。それと同時に、そんな彼女を形作る全てを、自分は愛し、慈しんでいくことを心に誓ったのだ、と。
 だが、しかし。
 擦れ違いの些事も、積もり積もれば不安を掻き立てる。
 自分たちは、互いを拘束しあうために人生を共有することを誓ったのでは、決してない。
 互いが互いを認めあい、支え合うために、共に歩むことを決めたのではなかったか。
 そう思えば、彼女の意固地さも、何かしらの警告じみて馨の心に不安をあおり立てることになる。
 このまま彼女は、自分に対しての接し方を忘れてしまうのではないだろうか。
 ──そんな思いに、自分の胸がこれほどまでに締めつけられようとは、馨自身、思いもしなかった。
 愛情は、飲み水のようなものであると遥か昔に聞いたことがある。無ければ飢えて、咽喉の渇きに苦しむ。有れば有ったで、その貴重さ、素晴らしさをつい忘れがちになってしまう。
 清芳は、目の前にある愛のコップに手を伸ばすことをせず、咽喉の渇きにじっと耐えている頼りない子供のように、馨の目には映った。
 そしてそんな焦りが、却って彼女を傷つける言葉を、自分に吐かせた。
「・‥…──なんてことを」
 呟いてから、はっと我に返る。
 己の言葉は、隣の部屋で押し黙ったままの、彼女の耳に届いてしまっただろうか。



 気怠くて、浅くて、あまり心地よくない類の眠りに、足を引かれていた。
 ふっくらとした臙脂色の座布団の上、正座の形をとったままで、泣き疲れて眠ったものらしい。
 ──これだから。
 ──こういう自分だから、強情な自分だから、馨は愛想を尽かしてしまうのだ。
 現世と夢の狭間にあり、こく、こく、と舟を漕いでしまっていることにすら、清芳は気付いている。たとえ何があろうと、今夜は布団に横にはならないと思っていた。どう云う行き違いや理由があれ、自分の夫たる馨を隣の部屋の畳に寝かせたまま、自分が床にもぐるわけにはいかない。
「・‥…──………を」
 不毛な夢心地の中、馨の声を聞いた気がして、一瞬、す、と背筋が伸びた。
 が、またその背中が次第に弛緩していき、うつむいて行けば白い頬に濡れ羽色の髪がそっとかかる。

 ──自分の声音は、果たして彼女の耳に届いてしまったのだろうかと。畳を擦って音を立てぬように、そっと背後を振り返ったとき、馨は秀眉の間に深い皴を刻み、彼女の背中を凝視した。
 眠っている。
 布団にも入らずに、正座をしたまま、かくり、かくりと、舟を漕いで。
「……、──清芳さん……清芳さん……?」
 何をしているのだろう、この人は。
 今度は、畳擦れの音にも頓着しないで、馨は慌てたように立ち上がった。彼女のすぐ後ろにそっとしゃがみ込み、両肩を大きな掌で支えながら静かに顔を覗き込む。
 睫毛と頬に、涙の伝ったあとが残っていた。
「……………」
 女の涙に強い男など、この世界上に果たして存在するだろうか。動揺した。彼女の細い肩を支える掌が、思わず強張ってしまうほどに。
 そして、それと同時に、悔やんだ。
 女に涙を零させ、平然としていられる男も、またこの世界上には存在しない。
「──、少し、づつで……良いですから──…‥・」
 低く擦れた声が、清芳の耳元で囁く。「少しづつで……だから──」
 言葉を知って下さい、と。
 他の誰に伝わらなくても良い、ただふたりの間でだけ通じる、ふたりの間だけで囁きあう、愛の言葉を。慈しみの、言葉を。
「身体……欲しくないとは云いません。でも、身体だけではない。あなたの、心も、愛情も、親愛も、全てが欲しい。私には──あなたの全てが……必要なんです」
 伏し目が捉えていた、彼女の目尻に、新たな涙が浮かび上がるのを見た。そして、ごくごく浅く──ともすれば見落としてしまうくらいの微かさで、彼女の細い首が、コクンと縦に、振られたのも。
 膝の上で固く握られていた、華奢な両手の力が緩められていく。清芳の右手が、とまどうような速度で宙を彷徨い──自分の肩を抱く馨の、無骨ながらも優しい指先へ、そっと、重ねられていく。
「・‥…──私は」
 それは、吐息のみが紡ぐ声音である。俯いた首筋のまま、静かに自分の膝を見下ろしている清芳の睫毛が、涙に濡れて光っているのが美しくて、刹那、馨が音もなく、息を呑む。
「私は……可愛げがなくて、強情で──あなたとの言葉をまだ知らない、愚鈍な女だ」
「──それは、」
 ──黙って聞いてほしい、とばかり、濡れた睫毛に彩られた清芳の瞳が、傍らの馨の面持ちを捉える。
 やはり、美しい。
 この女の、顔立ちも、身体も、そして何より、彼女と云う人格を形成する魂、そのものが。
「でも──これだけは……信じて欲しい。・‥…──私は、あなたのことを──愛している。……正しい言葉に、あなたに伝わる言葉にはならないかもしれない。それでも……今の、私の心に1番近いと思える言葉が、それなんだ。──馨さん。私は、あなたのことを──」
 最後までは、云わせなかった。
 己の口唇で、彼女の口唇を封じた。
 彼女の紡ごうとした言葉ごと、彼女の全てを己のものにしたいと願った。
 柔らかく、温かな彼女の口唇は、彼女の肉体の中でおそらく最も彼女の魂に近い形骸であるのだろうと、思考の片隅でぼんやりと思う。
「──」
「……」
 そして、どちらからともなく、ただ触れるのみだった口唇を離し合う。手指と手指は、からめあったままだった。清芳が向かい合っていた文机の上で、淡い花の芳香を放っているろうそくがゆらり、炎を揺らがせる。
「・‥…──、風邪を引きます。布団で眠らなくては」
「……あなたも、一緒に眠ってくれるだろうか? 畳の上で眠るのは身体に良くない」
「……畳で眠れ、と云われたって、無理やりにでも布団にもぐりこみますよ」
 一緒に。
 そんな言葉の、何と心地の良いものか。

 時は皐月。
 少しだけ開いたままの窓の隙間から、夜伽のように細やかな雨音が、いつまでもふたりの耳に届いている。

(了)


──登場人物(この物語に登場した人物の一覧)──
【3009/馨(かおる)/男性/25歳(実年齢27歳)/地術師】
【3010/清芳(さやか)/女性/20歳(実年齢21歳)/異界職】