<東京怪談ノベル(シングル)>
尼の細路
手には粘土を張り付けたしゃれこうべがある。血にも見える茶褐色の染みが浮かび上がり、復元に必要な手がかりを残していた。
しゃれこうべがオーマ・シュヴァルツの元に届いたのは仕事が終わり陽気になったその夜。戸口の前に白木の箱がぽつりと置かれ、一歩近寄るごとに藤の香りが漂った。紫の紐で封をされたそれを開けてみれば中身は黄ばんだしゃれこうべ。丸められた写真がしゃれこうべの中に押し込まれ、差出人の名前もなく、ただ濃厚な香りが強まるばかりだった。
写真に写されていたのは藤だった。それは見事な名も知らぬ巨木にしがみつき、枝のそこかしこに蔦を這わせた姿は大蛇にも似ている。垂れ下がる紫の花が鮮やかすぎて、まだ部屋中に香りが残っているから余計にリアルだ。
オーマはしゃれこうべをおいて眺めた。
己のいた元の世界であったならばこのしゃれこうべの持ち主はおろか、もしかしたら前世までもが判明したかも知れない。けれど文明圏の全く違うソーンではそうもいかず、こうして地道な作業を続けている。できる限りの捜査によって復元されたそれは、僅かに人の顔を戻していた。物理的な方法の前に霊視を試みもしたのだが、あっけなく感応拒否されていまに至る。粘土はしゃれこうべを男にしていた。
小綺麗だったのか不細工だったのか、凡庸としたままの粘土でそれははかりかねる。けれども現代の骨格でないことだけは確かだった。
その噂を他人から聞いたのは丁度四日前だった。
眉唾物とも遜色ないほどの作り物めいた話。もちろん噂であるから真実であるという保証はないのだけれども、こうして手元にしゃれこうべと藤の写真が届いた以上、それは認めざるをえないことであった。
とにかく、四日前にオーマはその、眉唾物とも思える話を他人から確かに聞いたのだ。
誰も帰ってこない藤の小路がある。ソーンではない知らぬ世界から足を踏み入れた者が写真を撮ったと、教えてくれた人物はいっていた。帰ってこないというのだからもちろん写真を撮った者の行方はようとして知れない。真実を確かめようと、美しい藤の正体は何なのかと、小道に足を踏み入れた者達はことごとく消えてしまった。
小路は一体何処に現れるのかと聞くと、そのものはわからないと答えた。時間も場所も、現れる条件もわからないという。だからこそ噂の範囲に留まっているわけなのだが。
しゃれこうべは何もいわない。けれどぽっくりと開いた眼玉の穴は深く、届けられた写真は来てほしいと言っているような気がする。粘土を張り付けたしゃれこうべに表情はないけども、頷いたような気がしてならなかった。
霊視は拒否、粘土で復元しようにもこれ以上は限界だ。ソーンでできる捜査は手詰まりだ。そうなると最後の手段を使うしかない。
オーマは立ち上がり部屋の奥から一輪の花を花瓶から引き抜いてきた。エメラルドに輝くそれはルベリアという名である。偏光輝くその時に、込められた思いを力に奇跡を起こすといわれる神秘の花だ。
指の間で茎をくるくると回しながら、オーマは写真を手にする。もう一度写真を覗き込む。見れば見るほど美しい藤は観光名所で撮った写真のようだ。いっそ毒々しいくらいに鮮やかな、生きて脈打ちそうな紫の色。ルベリアの花を近づける。
偏光が輝いた。エメラルドが宝石のように輝き、花を持つ指先が熱くなった。一瞬費が触れたように痛くなった後、じわじわと熱が伝わってくる。頭の方へと移動した熱は途端に弾け、脳裏にいくつかの光景を写した。
細い小路。紫と見上げるほど高い巨木。遠距離法やら平行の線やらがおかしくなった小路は板塀に囲まれている。視界がぐらついた。
次に見たのは地上を見下ろしている場面。なにかがぽとぽと落ちていく。体の奥で沸き上がるようなものがあった。体をエメラルドの偏光が包み込んでいく。足元が崩れるような気がした。とっさに側のしゃれこうべを掴む。風の中にいるようだ。耳の周りで轟音が渦巻いている。濃厚な香りに包まれたオーマは一歩踏み出した。
台風の目に出たように、風が一気に晴れ渡る。見上げた空は霧が深い。高い板塀は、尋常ならぬ身長のオーマでも手が届かないところまでそびえ立っている。風が吹いてもちらとも薄れない香りが漂っている。
目の前の藤だ。
いっそ毒々しいほどの紫。鮮やかさとここに咲いているという存在感。年老いた巨木にからみつく蔓は写真と同じ。大蛇のように幹を締め付け蔓はまだ成長を続けているだろう。巨木の葉が見えないほど生い茂った花が揺れた。目を落とすと根元には手に持っているのと同様のしゃれこうべが転がっている。オーマは枯れたルベリアの花を手放した。
転がるしゃれこうべは小山になっている。土と一体化しようと茶色く汚れたものもあるし、新しく加わって白いままのものもある。その時オーマの肌が粟立った。
勢いよく顔を上げる。いつでも動けるように少し腰を落として、異変のあった藤の花を見つめた。
藤の色が、上から下へと褪せていく。水滴の滴る音がした。藤色の塊がどろどろと、花の中から落ちてくる。地面に落ちるそれはすぐに楕円を作り、赤黒い染みに変わっていく。足元のしゃれこうべに落ちて染みを作った。
「こりゃぁ」
これらの色は血の色らしい。どういうことなのだか見当はつかないが。
「どうなされました」
巨木に巻き付いた蔓がしなる。女の声は頭上から聞こえてくる。見上げると、一人の尼僧が蔓にひしと抱かれていた。オーマは木に登れるところを探しながら尋ねる。
「大丈夫かい」
「お帰りなさいませ。人食いの藤にございますから」
オーマはふと足を止めた。尼の周りにだけ、色の抜けない藤が集まっていたからだ。
毒々しい藤に抱かれるようにして、蔓にからめとられた尼は疲れたような顔をしている。目の下に隈があり、顔に重苦しい影を落としていた。声がかすれている。
「それとも、あなたさまは呼ばれましたか」
「あんたにだな」
「……化け物と、妖とののしってくださいませ」
「それを言わせるために俺を呼んだんじゃねんだろ」
懐から受け取ったしゃれこうべを出す。
「こりゃ誰だい」
尼は暫く黙ってから口を開いた。苦しそうに目を閉じている。
「夫でございます」
「なんだって、俺を呼んだんかね。俺ならここに来ると思ってか」
「それも、理由でございましょう」
きっと、尼には誰でも良かったのだ。たまたまオーマが最近藤の話を聞いて、なおかつ尼の言うようにここへ来るために必要な知識と力を持っていたから。勿論それだけではないはずだが。
尼の顔に自嘲の笑いが浮かんだ。
「己の欲でもございましょう――」
含みを持たせた尼は息を吸い込んで、オーマが静かに見上げているのをほっとしたように見る。
「夫は藤の下にて父の仇を討ち損ねて息絶えて、わたくしはそれを探しに出たのでございます。尼になって夫の悲願を願いましても、見つけたのはしゃれこうべでございました。犬に噛まれ、藤の下に転がっておりました」
尼が巨木を静かに見上げる。漂う声が切ない。
「仇の男が傷を負い、犬に食われそうなところを夫が助け、二人藤に登り逃げたのです。ところが枝だけが折れ、夫は落ちました」
きっと絡め取られた藤が、尼にそれを教えたのだろう。思い出を語るというよりは、夢見心地で話しているに近い。見えない目からはからからと木の鳴る音がする。泣いているのだろうか。
「犬が恨めしかったわけでも、仇の男が憎かったわけでもないのです。ただ、夫の血をすすって咲いたこれが憎かった。旅のお方が藤を見て笑うのが腹立たしかった。人の血を吸い美しい色を見せることがただ、赦せなかったのでございます。尼になろうと、所詮は人であったのでございます」
藤が大きく揺れる。尼の体もそれに合わせて揺れ、静かに目を閉じた。
赦せなかった尼はいったい、藤の前でどれだけの怨念を吐いただろうか。それが悲しいなと、オーマは思った。命を消すことをオーマはよしとしない。不殺主義なのだ。
「尼にもなれぬ、人にも戻れぬ化け物の欲にございます。どうか、このお方々を墓所に葬ってくださいませ」
根本のしゃれこうべをいっているのだ。尼は項垂れ、懇願する。
「わたくしと藤に喰われた魂達を、どうぞ静かなところへ」
お願いいたします、と絞り出すような声が聞こえる。オーマは眉根を寄せた。
「尼さんよ、あんたこの藤でやってきた事を悔い改めるなら、旦那と一緒に墓に入っちゃどうだ。骨まで藤にすすられたってあんたの想いはあったけえのさ。俺は知ってる。なぁ、どうだい」
ルベリアの花が教えてくれた想い。それは尼のいうような悲しいことではなかった。悲壮に満ちてはいるけれど、奥の暖かい想いに、オーマは確かに触れた。
尼が首をふる。
「お優しいことでございます。けれどもどうぞ、お心はしゃれこうべへ」
「だがな」
「あなたをお呼びして、ほんにようございました」
微笑んだ顔に紫の血が落ちていく。オーマは巨木に手を伸ばす。けれども結局届かず薄れ、手は空をかいただけだった。藤の濃厚な香りだけがそこらに漂い、木があったことを証明していた。
たっているのは両側を板塀に囲まれた細い小路だ。立てかけられた工事の看板が、緩い風に揺れている。
「しゃれこうべは、なんとかするぜ」
足元には地中から湧いたようにしゃれこうべが重なっている。その中に割れた一眼レフを見つけた。ストラップがひっかかっていたしゃれこうべを手に取る。
「おまえも、俺を呼んだんだな。尼さんを見てたのかい」
藤にひしと抱かれた尼は、お世辞でもなく美しかった。日本画のように鮮やかに清楚で、どこか暗い裏をもっていた。血の臭いはぞろりと肌を撫でる香りに消され微塵もない。きっとこの場所は工事看板からして一週間で掘り返されるだろう。工事の現場監督は腐りかけの切り株を地中で見つけるはずだ。しっかり枯れたのにまだ地にしがみつく藤を見つけるだろう。
「帰るかね」
腕にしゃれこうべを抱えながら、オーマはまっすぐ歩いていった。
了
登場人物
■1953 オーマ・シュヴァルツ 男 三九歳(九九九歳) 医者兼ヴァンサー
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