<東京怪談ノベル(シングル)>


知らないキモチ

 今日も月の見える廃屋の屋根にのぼりながら、考えた。

 “好き”って、なんだろう?

 月明かりが黒髪の少女を照らし出す。
 千獣は物憂げに空を仰いだ。

 色々な“好き”を考えてみる。
 例えば冒険者仲間。
 大柄な人、いつも難しいことを言っているけれど、どんなものにも分け隔てなく笑顔を向けてくれる人。
 何もかもを大切にする人。人ではないものも大切にする人。
 自分にも、笑顔を向けてくれた人。
 彼のことは、“好き”。
 例えば、銀髪の彼女。いつも答えに迷う自分に、そっと手を差し伸べてくれる人。
 この手を取ってくれる人。
 笑顔で名前を呼んでくれる人。
 彼女のことも、“好き”。
 例えば、樹の精霊。
 自分を傷つけられても、人が救われるならと喜んで自分の樹液を差し出す精霊。
 彼女のことも、“好き”。
 例えば、耳飾をくれた『彼』。
 獣や魔に混じり、喰らい喰らわれるだけの自分に、『人』であることを教えてくれた人。
 撫でてくれた手、抱きしめてくれた腕、優しく、暖かく、好きで、大好きで。
 きっとこれ以上ないと思ったくらい、“大好き”で。
 でも――
 それでは、森で精霊とともに生きる『彼』は?
 彼も触れてくれた。彼も抱きしめてくれた。優しく、暖かく、耳飾りの『彼』と同じはずなのに。
 どうしてだったのだろう。“好き”と、口に出せなかったその理由。
 ただ、心に“好き”と思うだけで、ふりこが揺れ始める。
 心の、ふりこ。
 耳飾りの『彼』とは違うだろう? と『彼』は笑った。
 そう、何かが違う。
 どうしても違う。
 分からない不安。
 分かりたい焦燥。
 ――待っているよと『彼』は言った。

 待っていてくれる、安堵。

 とくん とくん とくん……

 首筋に触れてみる。彼に口づけされた跡。
 じんじんと熱くて、心地よかったから。だからお返しに彼の首筋にも口づけをした。
 彼も自分の口づけを、心地いいと思ってくれるのだろうか?
 思ってくれたらいいなと思った。
 そして――、
 また、口づけされたいと思った。

 ――ああ、まただ。
 とくん とくん と心のふりこが揺れる。
 また、口づけされたい……?
 どうしてだろう。そんなことを思っただけで顔が熱くなる。心が熱くなる。

 耳元に口づけされた。額に口づけされた。そして唇にも。
 どこに口づけされても、いつも熱くて、じんじんと熱くて、心地よくて。
 唇を触れたまま――、
 ずっと離れてほしくない、なんて。
 そんなことを思ってみたこともあった。

 とくん とくん

 心のふりこは揺れたまま。

 これからは、口づけされたらお返しをするかもしれない。
 いつもいつも、お返しをするかもしれない。
 ――口づけをすることが、ほんのちょっとだけ心地よかったから。
 口づけを返すと、心のふりこがますます揺れて、心地よかったから。

 とくん とくん とくん

 名前の知らない感情に乱されたまま。
 名前の知らない感情に……心熱くされたまま。

 どうして彼を“好き”と言えない?
 彼のことを、どう思っているのだろう?
 自分の心のことなのに、分からなくて。
 
 分からない不安。
 分かりたい焦燥。
 ――待っているよと『彼』は言った。

 ――待っててねと、自分は言った。

 きっと彼は、待っていてくれる……
 きっと彼は、裏切らない……
 きっと彼は、

 答えを知った自分を笑顔で迎えてくれる……

 なぜだろう、不思議と信じられない気持ちは浮かばないまま。
 彼のことを信じたまま。

 今度会ったときは、自分から口づけしてみようか。
 そうしたら彼は、喜んでくれるのだろうか。
 それとも、慌てるのだろうか。
 私のように、理由の分からない心のふりこに戸惑ったりするのだろうか。
 それでもきっと……自分を嫌ったりしない。
 そう、彼のことを無条件に信じたまま。

 胸に手を当てて、ふりこを確かめる。
 とくん とくん とくん……
「心地……いい……」
 千獣は微笑んだ。
 そして、つぶやいた。
「待ってて、ね……」

 今日も……
 欠けた月の下、眠りにつく。
 ひとりきり、眠りにつく。
 『彼』に向かって、小さく囁いて。
「おや……すみ……」

 彼が同じ空の下にいることに、不思議な安心感を感じながら……


 ―Fin―