<東京怪談ノベル(シングル)>


narrow path


「――最近は一人で来るな」
 馴染みのジャンク屋の店主が、倉梯葵の左右をちらと確認する。
「ああ」
「なんだ、振られたのか」
「何度もいうようにアイツとはそんな関係じゃない。いい加減その記憶力をなんとかしたらどうだ」
「わかってるよ。ほい、お釣り」
「計算力も要注意。二枚多い」
 銅貨を抛って返し、店を出る。
 ふとそこにあるはずの光の少なさを訝しんで空を仰ぐ。厚い雲が垂れこめて、青はもう遠くに追いやられている。風を読み誤ったな。思う葵の手には、今購入したばかりの部品が入った小さな紙袋があるだけだ。
「傘持ってくか、安くしとくぞ」
「骨組みだけの傘か? いくら取る気だ」
 背中に掛けられた声に振り向くことなく告げて、
「――いい。濡れてく」
 灰色の点ができはじめた道へ駈け出した。


 篠突く雨。容赦なく叩きつけるそれに別段なんの思いも懐かず、石畳を常と変わらぬ速さで歩き去る。今日は猫はいなかった。出掛けに窓辺で睡っていた白猫は、今頃雨音に起きだして部屋をうろついているだろう。
 服のなかにまで染み入った水は温く、ただ重さを伝えてくるのみだった。頬に張りつく前髪だけを煩わしげに掻きあげて後ろに流す。雨は、おそらくすぐに止む。けれど今更雨宿りをする気にもならなかったし、少しはこの熱が冷めるだろうと期待しての濡れ鼠だ。
 熱。
 視界に白い景色を作りだす雨幕を睨む。先ほどの店主との会話が意になく反復された。
 ――最近は一人で――
 いいや、最初から、一人だった。はずだ。
 天から落ちる雫の強さに曳かれるように、重く瞬く。
 最初から、一人だ。誰しもそうであるに違いない。生まれるときも、無論死を迎えるそのときも。
 すぐ隣にあった声が、小さな風音ひとつの後に途切れるのだ。背に感じていた重みが、いつの間にか益しているのだ。振り向けば、額に赤黒い穴が穿たれていて、あるいはその胸が真っ赤に染まっていて。そのときたしかに傍らに自分はいたが、一緒ではない。死んだのは片方だけ。彼らは一人きりで死んだ。自分は一人きりで生きている。
 極論だ。
 ゆっくりと頭を振る。
 考えないようにしている、きっと。歩調を合わせる相手がいないことを。どんなに荷物を抱えていても空けてしまう片方の手を。
 以前は、二人であったことを。
 そして、その事実を他人から指摘されて、不機嫌になっている。
 それはまるで子供のようだと嗤って済ませてしまうには、あまりにも深すぎる感情だった。
「…………」
 空を見上げる。雨を受ける。細く開けた眼差しが、飛びこんでくる雨滴を縋るように捉える。
 そのまま視点を下げて、自分以外に影のない路を見わたした。刹那、ふと過ぎった違和感に戸惑って足を止める。
 この道は、こんなに広かっただろうか。
 雨景色のせいだけではない感覚に、ふたたび払うように首を横に振り、改めて石畳と左右に続く煉瓦造りの住居を視野に据えて歩き出した。真昼だというのに光を奪い去る天気に、家々から洩れる灯りがぼやけて映りこむ。その窓の下、道に沿って設えられた花壇の緑たちは、強すぎる雨に打たれ頭を垂れたままにしていた。
 白い花、赤い花、黄色の花。それらを縁取る緑が存在を強く輝かせる季節だ。濡れてなお濃くしたような強かさが道のあちこちに散っている。雛罌粟や庭石菖の華やかな園から零れて、松葉菊が地を鮮やかに橙や薄紅に染める。花壇を過ぎて角の白丁花の垣を折れれば、紫陽花の庭を持つ家があり、この辺りでひときわ強い芳香を放つ白花の近きを知る。もっとも、今日は雨のせいで、その香りを感じることはない。
 知らず、ひとつひとつの花の名を思い出している。
 特別、花が好きなわけではない。
 ただ、彼女が教えるから。
 嬉しげに、名前を口遊んで、振り向いたから。
 今はひっそりと緑の枝を揺らすのみの樹木の名さえも、その樹が四季のいつ、どのような色形の花をつけるのかも知っている。
 花の名を辿りながら、この道をともに歩いた彼女は今はいない。常に視界にあった優しい花色は、今はない。あの花は、今の季節には咲かない。
 この熱は、なんだ。どう名づければいい感情だ。一向に治まらぬ胸の裡に苛立ちながら、歩を緩めることなく雨の道を進む。雨脚は幾分弱まったようだ。かわりに水を吸った衣服と肌を伝う流れに不快を覚える。
 恋などではない。自分はそういった感情を彼女に対して懐いてはいない。ただその笑顔を見られればよかった。軽やかな足取りが傍に在ればよかった。
 彼女が、幸せであればそれでよかった。
「それだけで、よかったんだろうに」
 おまえは一体、なにをこうも思い悩む。
 今までも、これからも、彼女を見守ってゆくことに変わりはない。
 ――もう彼女は、他の誰かのものではあるけれど。
 白い花。
 昂る感情から目を逸らすように俯いた靴先に、一片を見つけた。次の歩で危うく踏みつけるところだったそれを、立ち止まって、なかば無意識に拾い上げていた。
 しばらく花弁を見つめ、花の主はと視線を彷徨わせた先は、すぐ脇の家々の途切れた場所。低い樹木の緑のなかで、眩しいほどの白が絶えず雫を受けて震えていた。
 雨に隠れた、あるはずの強い香。中心に天衝く淡黄を頂いた白色六弁の花。
 彼女が示したその花の名を、なぞった。
「gardenia」
 梔子。
 当たり、と笑みとともに声が返ることはない。
 思わず指先に力が籠もるのを感じて、握りこんだ拳が違和を伝える。手のなかには、花。一瞬、香りが過ぎったような気がした。ゆるく開いた掌で、頼りない白の一片が雨に押し流されて逃げようとする。
 掴む。
 このまま落としてしまうのが、汚してしまうのが、なぜだか忍びなかった。
 迷った末に、それをポケットに突っこんで、梔子の花を離れる。住処としている修理屋まではもういくらもない。
 ――アオイ。
 顔を上げると、近い天空が青を取り戻していた。
 ――アオイ、梔子の花言葉はね。
 他のすべてを遮断していた音と雫が徐々に消えてゆく。
 ――清楚、清浄、優雅、夢中、沈黙。
 今度から、道を違えようと思った。


 ――私はとても幸せ。


 <了>