<東京怪談ノベル(シングル)>


飛ばない世界

 十歳の誕生日まで、城の外へ出たことがなかった。十二歳になった今でもほとんど城の中で暮らしている。なにしろ北竜族の領土は広く、比例して城内も広大で、一族の民が暮らす街と山が三つそして湖までもが城壁の中にすっぽり収まっていた。
 白い壁によって区切られた籠の中だけで大抵が事足りる日々。北竜族の王族はあえて外へ出る必要もなく、一生を城の中で暮らす者さえ珍しくはなかった。はるか昔、影李の祖先が北を制圧して以来、誰にも侵されたことのない領域であった。
 十歳の頃の影李には世界というものがそれこそ平らで、城壁という境界を持っているのだと信じられていた。だがそれが全てではないことを、文字によって学んだ。
「この本に書かれていることは本当なのでしょうか?」
城の書庫で影李は一冊の本を見つけた。それは北竜族が普段用いているのとは違う文字で書かれており、内容も童話でありながら北竜族に伝わるそれとは異なっていた。なにしろ、誰も空を飛ばないというところから奇妙だった。
「教えてください。この本に書かれているようなことが、本当に起こるのですか?」
「そう言われましても・・・。第一、本に書かれてある内容が私どもにはわかりかねますので」
北竜族の文字なら読み書きに不自由はなかったが、異界の言葉となると城勤めの兵士だろうとも判読は困難であった。ソーンの共通語を習得している北竜族というのは王族と数名の学者、そして異界を直接旅する機会のある行商人くらいしかなかった。
「私、知りたいのです。異界の人間たちはなぜ竜を恐れるのですか?」
童話はこのように語られていた。あるところ、湖の中に竜が住むという伝説があった。しかし実際には竜などおらず、近隣の人々は噂の出所を不思議がっていた。
 実は、遥か昔は本当に竜が暮らしていたのだ。暮らしていたが、人間たちがその存在を怪物と恐れ湖に近づこうとしないので竜は寂しがり心を痛めやがて死んでしまった。人間たちは自分たちが竜を殺したことなど気づかず、不在を知りたがっていた。
「もしかすると今でもどこかで、寂しくて死のうとしている竜がいるのかもしれません」
「そうかもしれませんね」
兵士は頷いた。それだけだった。だから影李は兵士に竜の捜索を頼もうとはせず、自ら異界へ赴こうと静かに決めた。

 影李が旅に出るという話が城壁を伝うようにして北竜族の者たちに広まった。それはまったく光速で、影李が着替えの一枚も用意しないうちから引きとめようとする親戚一堂、おみやげをせがむ子供たち、旅の極意について講釈を述べようとする商人たちで城の正門は膨れ上がった。これでは門から出て行くことはできない、と影李はため息をついた。
「仕方ないですわね」
いざとなれば空から出発すればいいのだと、影李は自分の翼を広げる。北竜族はこの翼のおかげでどこへだって飛んでいけるのだ。今まではただ、世界が広いということを知らなかっただけ。
「お嬢さま」
「乳母や」
荷物を半分準備したところへ、生まれたときから可愛がってくれている乳母が部屋へ入ってきた。彼女がお気に入りの白いソファへいつものように腰掛けるから影李も同じようにその隣へ座る。
「旅立たれるそうですわね」
はいと頷くと、乳母は影李の髪を優しく撫でた。眠るときいつもしてくれるおまじない、恐い夢を見ませんように。
「お嬢さまの旅のお守りに、これを」
そして乳母はソファの後ろに隠していた小さなぬいぐるみを取り出し、影李に手渡した。青い竜のぬいぐるみはお腹を押すとリュリュ、と小さく鳴いた。
「リュリュ」
単純にぬいぐるみの名前は決まった。
 お気をつけてと乳母は何度も繰り返した。影李は元々注意深い性格だがそれでも言わずにはいられないのだ。なぜって異界は恐ろしいところだと聞いているから。童話の中で人間たちが竜を恐れたのと同じように、人間を恐れている竜たちもたくさんいたから。
 心配しなくても大丈夫よと笑って、影李は城の出窓から飛び立っていった。それがちょうど三日前のことであった。

 北竜族の城を出てから三日目の現在、しかし影李は自分の言葉を裏切るかのように不安の真っ只中にあった。今のままではとても城へは戻れない、深刻な事態に陥っていた。
 二日目の夜、少しでも遠くへという欲求で夜中に飛んでいたことが間違いの元であった。暗闇に羽ばたいていたら、冒険者に魔物と間違えられて矢を射られてしまった。
「嫌だ」
慌てて高度を上げなんとか矢は避けたものの、そのときに大切な髪飾りを落としてしまった。
 北竜族は皆小さな羽を髪に挿したり首から下げたりしているのだが、これを手放すと人間の姿を保てなくなってしまう。影李も、飾りをなくしたことで小さな竜に変わってしまった。
 災難はこれ一つでは終わらなかった。竜の姿で旅は続けられないので、今日は朝からなくした髪飾りを探していたのだがそこを再び人間たちに見つけられた。
「珍しい生き物がいる」
と近隣の村人たちは総出で影李の捕獲に乗り出してきた、おかげで影李は髪飾りを探すどころか茂みの中に隠れ、これからどうすべきかを必死で考えていた。
「私のことを皆さんに説明しなくては・・・でも、竜の姿では人間の言葉は喋れませんし、そのためには髪飾りを見つけないと・・・」
「なにか動いたぞ!」
遠くのほうで男の声が聞こえ、影李は身を竦ませる。幸い見当違いのほうへ足音は遠ざかっていったが、動けないのは同じだった。
「どうしましょう」
影李の憂鬱が完全に晴れたわけではなかった。
 そのとき幼い声が、今度こそ影李の間近で聞こえた。とうとう見つかってしまったのかと影李は胸が押し潰されそうな恐怖を感じ、覚悟する。同時にどうしてこんなに恐ろしい人間たちを慕って竜は寂しがったのだろうかと、童話のことを思い出してもいた。
「どうしたの、ぬいぐるみちゃん」
だがしかし、またしても間一髪だった。大人たちの騒ぎにくっついてきたらしい小さな女の子が見つけたのは影李ではなく、影李が隠れるときに落としてしまったぬいぐるみのリュリュだった。
「いけない」
乳母やからもらった大切なお守りなのにあれまで落としてしまうなんて、と影李は悔いる。なんでこう、落し物ばかりするのだろう。落としてはいけないものばかり、失ってしまうのだろう。

「あのね、なくしものをしてしまったの」
「え?」
どこかで聞いたような覚えがあったが思い出せない声がしたので影李は茂みから外を覗いた。なんと、リュリュが少女に向かって喋っていた。
「大切な髪飾りをなくしてしまったの。羽のついた、きれいな飾り。あれがないと、とっても困るの」
「そうなの?それじゃ、あたし探してあげるわよ」
言葉だけでなく女の子はすぐさまその場にしゃがみこんで、リュリュの言った髪飾りを探し始めてくれた。影李がほっとすると、リュリュが今度は
「ありがとう」
と口をきく。どうやらリュリュは影李が心に浮かべた言葉を受けとめて喋ってくれているようだった。
「あった」
やがて、女の子の弾んだ声が響いた。そのときの影李の歓喜をリュリュは
「嬉しい!」
と簡潔に翻訳したのだが、
「髪飾りを、あの茂みに置いてちょうだい」
と頼むことは忘れなかった。
 ここでいいの、と女の子が羽飾りをそっと茂みの青葉へ乗せる。そして大きな目を見開いてじっと待っていると、一瞬小さな爪のついた手が茂みから飛び出し、髪飾りをさらって引っ込んだように見えた。
「今の・・・」
なあに、とリュリュに訊ねようとした女の子。だが竜のぬいぐるみはもううんともすんとも言わなかった。代わりに細い手が女の子の真上から降ってきて、彼女の腕から優しくリュリュを抜き取った。
「ありがとうございます」
「お姉ちゃん、誰?」
影李はにっこり微笑んだ。その微笑みが、リュリュによって言葉に代わる。
「助けてもらったこと、忘れない」
それだけ言い残して空へ昇っていった影李をぽかんと見送った女の子は、やがて信じられないといった思いをぽつりと呟いた。
「・・・天使?」
童話の中で竜は怪物と恐れられていた。今、影李は天使に間違えられた。空を飛ばない人間たちは、竜を様々な幻にたとえる。それではもっともっと広い世界へ行けば、竜は一体なんになるのだろうか。
 影李は故郷を思いながらそれでも遠く遠く、離れるために羽ばたいてゆくのだった。