<東京怪談ノベル(シングル)>
僕の上に降るもの
「あれは石。あれは電柱。あれはベンチ、あれの名前は・・・」
視界に入るものの一つ一つを声に出して呼んでみる。夜中のショーウィンドウに映る自分の顔を見つめて、声に出す。僕の名前は黒妖。
「黒妖」
しかし、その後がなにも続かない。黒妖である自分がどこから来たのか、なんのために生きているのか、なにをするべきなのか。
本当ならどこへ行くのかもわからないのだが、立ち止まっていることは無駄に不安を膨らませるだけなのであてもなく歩きつづけていた。なぜか、どんなに歩いても疲労感はなかった。もしかすると自分は人間ではないのかもしれない。黒妖の心にそんな考えが浮かんで、不思議とそれを受け容れられる自分があった。
「そういえば、僕は確かに人間ではありませんね」
さっきショーウィンドウで眺めた自分の姿、背中からは大きな羽が生えていた。ガラスの向こうに立っているマネキンにはそんなものなかった。そうだ、自分はあのマネキンたちとは違っている。
「マネキンになれないとすれば、僕はなんになれるのでしょう」
答えを探すように前へ一歩踏み出した。と、いきなり爪先が砂地と出会い、思いがけなく柔らかな感触に溺れそうになった。砂の中で足が滑って体が前のめりになり、慌てて突き出した手の平が落ちていた貝を掴む。一瞬、かすかな痛みを感じたのだが真っ暗なので怪我をしているかまではわからなかった。
「いや」
闇に目が慣れてきたのか、黒妖は手に擦り傷を見つけた。同時に、辺りが案外に明るいことも、吹いてくる風もわかるようになってきた。恐怖に痺れていた五感がゆっくりほどけていくような心地である。胸をつくような潮の香は、海へ出たことを黒妖に教えていた。
考えてみれば、明るくないはずはないのだ。空には星が出ているというのに、足元が見えないはずはない。波の音が聞こえるほうへ顔を向ければ、遠くのほうまで光が灯っている。星の光が落ちているのか、いや、漁火か。
「あれが帰る場所は、向こうの浜」
入江に立つ灯台が、漁船に方向を見失わないための光を投げかけている。同じ光が、黒妖にも注がれればよいのに。光は黒という闇に気づかない。
「僕が帰る場所はどこなのでしょう」
どこへ行くかもわからないのに、帰る場所を求めてしまう。それは自分に羽があるせいだろうか。羽を持つ生き物の本能がそうさせるのだ。
「あ」
流れ星が降り、思わず黒妖は声を上げた。空から星が流れる間に三度続けて願いごとを唱えれば叶うと言われているが、黒妖はそのまじないを知らなかった。知っていても恐らく見とれてしまい、一度と言い切れずに流れ落ちてしまっただろう。
黒妖が見つけた星も、黒妖が
「あ」
と呟いている間に軌跡を描いてしまった。
流れ星とは宇宙の塵が地球の大気圏へ突入する際、発光する現象を呼ぶ。本当に星が光っているわけでも、落ちているわけでもない。けれどそのとき黒妖は、星が海に落ちる音を確かに聞いた。空にあったはずの星が海に受け止められる、かすかな音を。目を凝らして海面を見つめれば、光り輝いたままの星がゆっくりと海中に沈んでいくところまで追いかけられそうだった。
海を見るといつの間にか、漁船の漁火が入江へ戻ろうと移動を始めていた。遠くにいる黒妖のほうからは蟻が這うようにしか感じないのだけれど、実際船に乗っている漁師たちは時速何十ノットというスピードで進んでいるのだろう。
みんな自分の場所がある。漁船にも、空の星にも。ならば自分にも自分の場所というものがあってよいはずではないかと黒妖は思った。空へ向かって手を伸ばし、黒妖は願ってみた。
「もう一度、降ってきてください」
次に星が降ってきたすれば、そのときは海の代わりに自分が受け止めるつもりだった。受け止められるような気がしたのだ。
しかし星は二度と降ってこなかった。自分の願いは聞き届けられなかったのか、と黒妖はため息をつく。ついたけれど、一体なにに向かって願ったのだろうかとも考えた。神が仏に祈るような真似をしたって聞いてはくれない。自分にふさわしいものがなんであるかを、黒妖はすっかり忘れ果てていた。
「神が仏に祈るような真似をして」
この言葉を黒妖に向かって言ったのは誰だろう。その人は恐らく、黒妖の中に眠るなにかを称して吐いたのだ。コインの表と裏がまったく違う模様をしているように、黒妖の中には真逆の性質が潜んでいる。
その人を探してみよう、と黒妖は思った。自分に言葉を投げてくれる誰かを見つけることができれば、自分の帰るべき場所だって見つけられるかもしれない。
「だって、僕の上に星は降ってこないのですから」
星は空から海に降るだけで、黒妖の上には振ってこない。自分の上に降ってくるのはきっと別のもの。ならばそれをしっかりと受け止めなければならない。
「そう、僕は僕が守るべき人を見つけなければなりません」
さっき拾った、波打ち際に打ち上げられた貝も二枚貝、それぞれ相棒がいる。拾い上げると、決して離れるまいとばかりにくっつきあっている。しかしこのまま砂浜に打ち上げられたままでは太陽の陽射しにさらされて、干からびてしまう。どんなにふさわしい相手と共にあったところで、ふさわしい場所にいなければ意味はないのだ。
「こんなところにいてはならないですよ」
二枚貝に話しかけた黒妖は、それを海の遠くへ放った。
今や黒妖の目はしっかりと開かれていた。心もとなくさまよい歩いていたときは、あんなにも世界が暗闇に包まれていたというのに。空の色も海の音も、すべてが途方もなく美しく感じられた。水平線がうっすらと白み、空が黒から藍、紺、青、紫に染まっている。二度目の黒妖のため息は途方にくれるものではなく、自然の驚異に感嘆して思わず出てしまったものであった。
星の落ちた海から朝日が昇るのを、黒妖は見た。頭に描いていたものよりも心なしか小さな太陽だった。それはもしかすると、夜中に落ちた星の生まれ変わりだったのかもしれない。
「君はまた、空と出会ったのですね」
ならば自分も出会えるだろう。頷いて黒妖は再び疲れ知らずの体を動かし始めた。元々に倦怠感はなかったが、今は心の憂いもはがれ何の枷も見当たらない。
黒妖が去った朝の砂浜には点々と足跡だけが残っていた。それはきっと、黒妖が出会うべき人に出会うべき場所にまで続いていくのだろう。
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