<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


神は誰にも祈らない

 生れ落ちたそのときに、自我のない赤ん坊である者たちは幸せだ。自分の体の動かし方を、なぜとも思わず学習できる。立ち上がること、駆け出すことを、人体の不思議に首を傾げる間もなくこなしてゆけるのだ。
その点黒妖は、気づいたときには既に人並の思考回路を完成させていた。だから自分の体が時々思うようにいかないことを、戸惑わなければならなかった。
「ええっと・・・あれ?」
記憶のない頃自分は、どうやって狭い隙間を通り抜けていたのだろう。どうしても背中の羽が邪魔をする。
 たとえば陸上で生活する人間にエラ呼吸のやりかたを真似させてみても、できないだろう。もっとわかりやすいたとえを使うなら、人間に尻尾は触れないだろう。生まれつき体にないものの存在を意識しろと迫るほうが無茶なのだ。
 しかしその尻尾がふと気づいてみれば後ろについている。引っ張ってみれば感覚もある、さあこれをどうやって振ってみせればよいのだろうか。黒妖が困っている根本はそこなのである。
 せっかくに尻尾があるのだから、振ってみよう。羽があるなら飛んでみよう。こう考えることは自然の流れだ、黒妖の背中にある羽は体の割に大きく、肩を張るように力を入れればゆっくりと動く。これを利用して、どれくらい動かせば飛べるようになるのかがよくわからない。
「ゆっくり、ゆっくり・・・」
一瞬足が浮くことにはなんとか慣れてきた。しかし文字通り地に足がついていないというのは落ち着かない。飛んでみたくはあるものの、不安は消えない。
結局黒妖は非常にささやかな飛んだりはねたりを繰り返していた。本人はすこぶる真面目にやっているのだけれど、端から見ると一人踊っているようにも見える。背中の羽でリズムをとって、足取りを工夫している踊り子の少年。

ソーンの世界は唐突に作られている。大自然の雨風が長年かけてゆっくりと作り上げてきたなだらかな丘陵を魔物たちが理不尽に荒らすので、道を歩いていてふと気づけば目の前が崖というのも少なくない。落とし穴に落ちるように、数メートルの崖から黒妖は突如転落した。
「あっ・・・・・・!」
なぜかどこかおっとりとした黒妖は、自分が落ちていると理解してからようやくに羽を思い切り動かした。落ちた瞬間は驚きで、全身から力が抜けていたのだ。
 しかし今まで飛べなかったものが、いきなり空を自由自在というわけにはいかなかった。黒妖の懸命はせいぜい速度を緩めることにしか役立たない、転落していることには変わらない。
 このままでは足の一本、いや二本。骨折という言葉が頭に浮かび、医者へ行く恥ずかしさを黒妖は思った。医者は恐らくこう考えるだろう。
「どうして羽があるのに崖から落ちるのか」
仕方がないのだ。使い道を知らないまま、この羽は背中についているのだから。それを言うならこの体すべてが、使い道をわからず黒妖の心についているのだ。
「大丈夫ですか」
地面へ激突する寸前、目を閉じた黒妖は誰かの声を聞いた。それと同時に今までとは比べ物にならないくらいにふわりとした心地よい感覚に触れた。
 目を開けてみた顔の真正面に、青い可愛らしい顔をしたぬいぐるみがあった。
「・・・・・・?」
ぬいぐるみの上へ目をやると、青い髪と銀の目を持った少女の顔があった。そして少女の背中の羽は、ゆっくりと羽ばたいていた。

「空の飛びかたを知らないんです」
助けてくれた少女、影李へ黒妖は素直に告白した。こくりと頷いた影李は、ちょっといいですかと断ってから黒妖の羽に手を伸ばした。付け根のところから骨にそってゆっくり、先端まで形をなぞっていく。
「変化の時期かもしれませんね」
「え?」
「たとえば鳥なんかは、ある一定まで体が大きくなると羽根が抜け変わるんです。私のように翼だけの場合は外皮が剥がれて中からより大きく強いものが現れます」
そうなんですか、と黒妖は感心したように頷いた。
「やっとわかりました、ありがとうございます」
「・・・本当に、わかったのですか?」
影李の説明によって確かに黒妖の戸惑いは晴れた、だが影李はまだ心配そうに黒妖の顔を見上げていた。
「あなたはなにかを探しているのでしょう?」
相手の目を見れば、影李には大体の心が見えてくる。怒りとか悲しみ、不安といった強い感情は特に表れやすい。声だけは穏やかな黒妖だったが目は、確かになにかを求めさまよっていた。本当に知りたいのは空の飛びかたなどではない、とその目は訴えていたのだ。
 しかし探しものがあるのだと気づいても、自分にはなにもできない。影李は不甲斐なさを思って、優しく心を痛める。このところ影李は思うのだ。世界を見たくて旅立ったのはいいけれど、自分は見ていることしかできないということを。困った人がいれば手を差し伸べたいのに、それなのにこの手はあまりに小さすぎる。
「見つかるといいですね。私も、願ってます」
この少年の探し物が見つかるようにと、励ますことしかできない。

ぽつりと、黒妖が答えた。まるで見当はずれの言葉を。
「神が仏に祈るような真似をして」
「え?」
「あ・・・いえ、なんでもありません」
今のはなかったことにしてくださいとばかりに黒妖が首を振ると、影李のほうも深くは追求しなかった。それが一期一会の作法なのである。
「…それじゃ、私はこれで」
縁があったらまたお会いしましょうと影李は自分の羽を広げてゆっくりと飛び上がる。
「さようなら」
たまらなく後ろ髪を引かれたが、黒妖には引きとめられなかった。彼女の言葉に逆らうことができなかったのだ。
青空に一際青い影李が上っていく様はなんにたとえるべきか、目を鮮やかにさせる。鎖骨のあたりで宝石がキラリと揺れているのが見えた。見送る黒妖はなんだか、心の奥深くが切なくなってしまう。
 この光を獲物と間違えた魔物が一匹、背後から影李を狙っていた。飛び立ちながらも未だ黒妖から目が離せない影李は、まだ気づかない。従って先に気づいたのは黒妖、魔物が影李へ向かって飛びかかろうとしたので咄嗟に近くの石を拾って投げつける。さっきの、崖から落ちたときとは比べものにならない俊敏な動作であった。
 飛礫をまともにくらった魔物は、怖気づいて逃げ出してしまった。大丈夫ですかと黒妖は胸の動悸を抑えつつ影李の背中を確かめる。石を、投げてしまった後で影李に当たりはしないものかと恐れたのだ。
 不幸中の幸い、魔物の爪は影李の羽をわずかに傷つけただけで血は出ていない。痛みもないに等しいのだが、しかし羽が痛んでしまったのでしばらく飛べそうにはなかった。その傷を見たとき、黒妖はまるで自分が怪我をさせたような気がしてうなだれてしまった。
「すいません」
「なぜ謝るのですか?あなたは私を助けてくれたんですよ」
「・・・でも」
本当は怪我もさせずに守りたかったんです。

「怪我が治るまで、一緒に行ってもいいですか?」
黒妖は、正直な言葉が出せなかった。不思議そうな顔をして、影李は訊ねる。
「でも、探しものがあるのでしょう?」
「はい」
真面目な顔で頷く黒妖。その探しものと、影李についていくことが、彼の頭の中では一つにつながっていたのだ。それを言葉で説明しようとすれば、難しすぎた。あえて理由を述べるとするなら
「あなたが助けてくれたとき、神さまのように思えたのです」
そう言うしかなかった。それも世間一般でたとえられるところの万能の神などではなく、自分にとってのみ存在する神。野に咲く花の一輪が自分の心を捉えてやまないように、影李が心にひっかかって仕方ないのだった。
 あなたが探している相手なのだ。あなたが僕を助けてくれたその何倍も、僕はあなたのことを守りたい。胸の中に感情は渦巻く、それなのに言葉は羽ばたかない翼の如く、思ったようには機能しない。
 そのもどかしさに胸をかきむしっていた矢先、
「探しものが見つかるといいですね」
まるで探しものが別のところにあるような物言いをされて、だから黒妖は思わず
「神が仏に祈るような」
というセリフを出してしまったのである。願いを叶えてくれるはずの神さまが仏を頼りにするなんて、嫌だったのだ。
「お願いです」
黒妖は影李に請う。
「さっきあなたは、僕の言葉を追及しませんでした。だから今度の言葉も、深くは追求しないでください」
それが一期一会の作法であるなら、と、自ら一期一会を放棄しておきながら黒妖は願って見せたのだった。一人だけが信じる神へ向かって。
 丁寧な口調でわがままなことを言うこの少年が、なぜか影李は不快ではなかった。黒妖の持つ不思議な二面性が、なぜか魅力的に映った。
「わかりました」
結局影李は言葉の追求をしないことだけ承諾して、しかし黒妖がついてくることに関しては嫌とも応とも応えずに歩き出した。そう、羽が傷ついて今は飛べないので歩くしかないのだ。だから、その後をついていくことは黒妖にもできるのだった。
 あなたが僕の探しものなんですよ。影李の華奢な背中を見つめながら、黒妖は口の中で同じ言葉を繰り返す。どうやればこの言葉がうまく言えるのだろう。伝えられるように、なるのだろう。
 言葉が言葉にならないままに、二人の旅は始まった。