<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


セグルル劇団【執事の悩み】




●オープニング
 夜の黒山羊亭に、仮面をつけた長身の男がいた。
 男は強い酒を飲みながら、酔った様子もなく深いため息をついている。表情は仮面に隠れて見えなかったが、曲がった背中からもげんなりと下がった肩からも、重い心労を抱えている事は明らかだった。
「どうかしたの?」
 エスメラルダはその男を放っておけず、思わず声をかけた。
 男は持っていたグラスを机に置くと、大げさな動作で顔に手を当て、後ろに反って叫んだ。渋くも張りのある声で、黒山羊亭の外にもよく聞こえたのではなかろうか。
「どうかしたのだ! このままいけば家無し金も無し!」
「え、えぇ?」
 エスメラルダは後ずさりながら、この男は役者であると直感的に思った。
「我輩の劇場を作ったはいいものの、悪徳建築業者のせいで借金まみれになってしまったのだ! おぉ、何という悲劇!!」
 両手を天に突き上げると同時に、背景に大輪の薔薇が見えた……気がする。
「我輩は借金を返すために劇場で劇を上演しなければならないのだが……ハードな日程に耐えうる役者がいない! そこで! 我輩は経験問わずで役者を募集する事にしたのだ!」
 男は懐から紙を出すと、エスメラルダの目前にばっと突き出す。それには上演予定の劇のあらすじや募集する役が書かれていた。
 紙の最後には、『監督・脚本:セグルル』と書かれている。
「そう、我輩の名前はセグルル! ……どうぞお見知りおきを、レディー」
 突然優しい声になり、エスメラルダの手を取ってキスをした。
 ……と言っても、仮面をしているので実際に唇をつけたわけではないが。
「とりあえず壁に貼っといてあげるけど、こんなありがちなストーリーを演じたいと思う人がいるかしらね?」
 エスメラルダの言葉には遠慮がない。
「そこが役者の腕の見せどころ! 大体あらすじに沿っていればあとはどう落ちようと役者の勝手! 早い話がアドリブの力が要求されるのだ!」
「そ、そうなの……」
 そんなこんなで、セグルル劇団の短期団員が黒山羊亭で募集されることになった。




●公演前
 【執事の悩み】に参加することになったのはオーマ・シュヴァルツ、マーオ、シルフェ。
 ストーリーを覚えた三人は練習なしで舞台に立つことになった。
「うーん、緊張するなぁ」
 マーオは慣れない燕尾服を着ながらのほほんと言った。金髪小柄の彼がそういう服を着ると、まるで人形のように可愛らしかった。
「ま、こういうのは度胸だ。あとは楽しむのが肝心だろうぜ!」
 マーオとそろいの燕尾服を着ながら言うオーマ。
 ただ彼は銀髪赤目の青年姿となっていて、普段の『マッチョ親父』とは違い、少しクールな雰囲気を纏っていた。
 その表情や言動は変わらなかったが。
「演じるのはとっても楽しみなんだけど……多くの人の前に出るのを考えるとやっぱり緊張する〜」
「強い照明があるから客席の方はよく見えねぇさ。……っと、シルフェも支度が終わったみてぇだな」
 控え室の一角にあるカーテンから出てきたのは、紺色のメイド服を着たシルフェだった。エプロンにあしらってあるレースが華やかで、その上を流れる青い髪が滝のようだった。
 ……地味なエプロンのデザインを嘆いたオーマが、手ずからレースをあしらったといういわくがあったりなかったりする。
「うふふ、こういった服装は初めてですからわくわくします」
 くるぶし丈のスカートをつまみ、ちょっとお辞儀をしてみせる。
 普段は『おっとり』と表現するのが的確な彼女の動作だが、そのような仕草をすると『優雅』に見えるのだから不思議なものだ。
 オーマはシルフェの姿を素直に褒めたが、マーオは不思議そうに首をかしげている。
「あれれ? 僕が執事でオーマさんも執事、シルフェさんがメイドなら、ずいぶんと配役がかたよってないかなぁ?」
「俺は執事は執事でも主人公だぜ」
「わたくしは主人公の友人役とのことですが」
「僕も友人役だよ〜。セグルルさん、配役を間違えちゃったのかな?」
 三人揃って首をかしげていると、控え室の扉を軽くノックしたあと、当のセグルルが入ってきた。
「間違いではない! 友人役はマーオ殿とシルフェ殿の二人!」
 あいも変わらず芝居がかった喋り方である。
「それでは末娘と婚約者役は空いたままで?」
「その二人の役者には現在『丘陵の屋敷』という場所から超特急でこちらへ向かってきてもらっているのだ! 少々待ってもらおう!」
 『丘陵の屋敷』という言葉を聞いて、何度かそこへ行ったことのあるオーマが反応した。
 あそこで末娘と婚約者の役者を探すとしたら……。
「末娘役がアスティアさんで、婚約者役はノトールかロッソだな」
「いかにも! ちなみに本人たっての希望で婚約者役はノトール殿だ!」
「ははぁ。……面白くなりそうだな!」
 アスティアとノトールのことを知らないマーオとシルフェは、きょとんとした表情で二人の会話を聞いていた。












●執事の悩み
 とある富豪の屋敷に、主人の末娘に恋焦がれる執事がいた。
 彼の名はオーマ・シュヴァルツ。
 銀髪赤目の青年で、執事よりも格闘家のほうが似合いそうな体格だった。
 そんな身分違いの恋を応援するのは、オーマの同僚である執事のマーオとメイドのシルフェだ。
「アスティアお嬢様もオーマさんのこと好きみたいだし、うまくいきそうだけどな」
 恋未経験のマーオが言う。
「いくら好きあっていてもそう簡単に実らないから、恋というものは面白いんですよ」
 お茶の用意をしながらのほほんと答えるシルフェ。
 そろそろアスティアが日課にしているお茶の時間なのだ。それにはオーマをはじめ、アスティアと仲のいい何人かの召使たちが同席することを許されている。
 茶器を銀のカートに載せ、二人はアスティアが待つ中庭へと向かった。
 その中庭は四方を建物に囲まれているので外からは見えない構造になっている。
 とは言っても建物の間隔はかなり広く、温かい日の光が降り注ぎ優しい風がふいているので、圧迫感はない。
 二人が中庭に着くと、そこにはすでにアスティアとオーマの姿があった。
「今日は特にルベリアがきれいに咲いてますわね」
 ぴんと背筋を伸ばし、ピンク色の髪をきれいに結い上げたアスティアが言う。
 御歳64。その年齢からいうと『お嬢様』ではなく『奥様』と言った方がしっくりとくる。
 アスティアには二人の姉と、一人の腹違いの弟がいる。
 姉たちはとっくに別の家に嫁いでいるものの、三十路前の弟はアスティアと同じく未婚のままである。弟はアスティアの父が再婚した妻との間に生まれた子供なので、アスティアとは母子ほども年齢が違うのだった。
 現当主であるアスティアの父は息子が結婚したら当主の座を預けると言っているのだが、息子はいまだに結婚する気配がなかった。
 そんなこんなで64歳のアスティアはいまだにお嬢様と呼ばれているのだ。
「後ほど、特にきれいに咲いている花をお部屋へお持ちしましょう」
「オーマさん、いつもありがとうございます」
「お嬢様のお役にたつことが俺の喜びです。俺は……お嬢様を愛しています」
 花を贈った者と永久の絆で結ばれるという伝承もあるルベリアの花園で、オーマは思い切って己の想いを口に出した。
 アスティアも自分に好意をもってくれているということを知っていたから言えたということもあるし、今言わねば彼女の父親が決めた婚約者にとられてしまうという危機感もあった。
 アスティアはこれまで、自分の弟が結婚するまで自分は待っていようと思っていた。
 だがこのままでは娘の結婚式を見ることが出来ないと思った当主が、勝手に結婚相手を決めてしまったのだ。
「あなたは本当に、老い先短いこの老婆を愛しているとおっしゃるの?」
「はい。……おこがましくはありますが」
 その言葉を聞いて、アスティアは嬉しそうな、だが悲しみの混じった微笑みを浮かべた。
「いい感じだね」
「ちょっと見るとそうかもしれませんね。……あら?」
 オーマとアスティアに遠慮して廊下で待機していたマーオとシルフェだったが、シルフェが何かに気がついたようで小首をかしげた。
「今日はお客様のご予定があったかしら?」
「なかったと思うけど」
 シルフェとマーオの前を何人かのメイドが急ぎ足で通り過ぎていく。どうやら来客があったようだ。
 オーマとアスティアはまだ話しているし、シルフェは来客の様子を見に行くことにした。


「アスティアさんはいらっしゃいますか?」
 玄関にいたのは、立派な身なりをした銀髪の青年だった。
 すでにその場にいたメイドが、シルフェの到着を知って視線を送った。
「ではわたしくしがご案内いたしますわ。婚約者の……ええと……。――……お名前は別にいいですね」
「……ノトールです」
 ノトールは幾分泣きたい気分になりながら名前を教える。
 この人はきっと天然なのだろう。というよりは、そうであると願いたい。こんなに繊細で美しい人が腹黒いなんて悲しすぎる。
 そんなノトールの気持ちを知ってか知らずか、シルフェはゆっくりと廊下を進んだ。
 扉の影からこそこそとメイドたちが様子を見ているのを知らないのか無視しているのか……もしくは他の重大なことに気をとられているのか、ノトールは気にする様子がない。
 中庭の手前につくと、カートの前にいたマーオが驚いた様子でシルフェとノトールを見た。
 何か言いたげだが、ノトールの手前では言いずらいのだろう。必死に視線で何かを訴えているように見えたが……。
 シルフェは意に介さず、ノトールをそのまま中庭に通してしまった。
「ちょっ、シルフェさん……!」
 慌てて止めようとしたマーオの顔には、『まじですか』と書いてあった。
 案内されたノトールもオーマとアスティアの間に漂っていた甘い雰囲気を感じ取り、ぱっと表情が変わった。
「あ、今お部屋にご案内しては泥沼修羅場でした」
「あぁぁぁ、シルフェさん〜!」
 軽やかに笑うシルフェの隣で、これから起きるであろうことを想像したマーオの顔から血の気が引いた。
「アスティアさん……。何ですか、その男は」
 悲しみと怒りが入り混じったノトールの声。
「見てのとおり、我が家の執事ですわ」
「ずいぶんと仲がよさそうですね?」
「普段からお世話になっていますから、自然と距離も縮まりますわ」
 彼は間違いなく婚約者に裏切られたと思ったのだろう。だが、アスティアもそれを完全に否定することはできまい。
「俺はアスティアさんを信じていたのに……! 俺と結婚の約束をして下さったとき、どれだけ嬉しかったか!」
「そう、あなたと結婚するということは、すでに約束されたことなのです。それなのにノトールさんは私を疑うのですか?」
「いや……それは……」
 自分を疑うのかと問われ、ノトールは答えに詰まった。
 そう聞き返すのは少々卑怯だとも思ったが、確かに、アスティアは約束を破るような人間ではないのだ。それなのに不義を疑ってしまった自分が悪いのか……?
「では……その執事を愛しているわけではないとおっしゃるのなら、その男を解雇してください。例えいますぐアスティアさんと結婚しても、その男がいるだけで俺の心はざわめきそうなのです」
「……」
 アスティアはちらりとオーマを見上げた。
 彼女としては、ひとと約束したことを破るなんて言語道断なのだろう。
 だが……。
 アスティアの気持ちがノトールよりも自分に傾いていると、オーマは確信していた。それはマーオやシルフェに聞いても同じことだろう。
 自分を好いてくれた女性を悲しませることなどできない。オーマはそういう男だった。
「ノトール様。あなたはアスティアお嬢様を欲しいとお考えなのか、それともアスティアお嬢様が幸せになって欲しいとお考えなのか?」
 オーマは静かに問うた。
「それはもちろん、幸せになって欲しいと思っていますよ」
「俺もアスティアお嬢様を愛しています。……そこで。アスティアお嬢様ご本人はどうお考えなのでしょう」
 その場にいた全員の視線がアスティアに集まる。
 アスティアは庭に咲き乱れるルベリアの花を見つめながら、自分自身に確認するようにゆっくりと言った。
「私が本当に愛しているのは、オーマさんですわ。でも……お父様のご意向には逆らえませんし、ノトールさんとはすでに婚約してしまいました」
 悲しそうなアスティアの横顔を見て、オーマは決心した。
 ノトールと自分の主人に、自分とアスティアの関係を認めさせようと。
「ノトール様の『アスティアお嬢様が幸せになって欲しい』というお言葉にうそ偽りがないのであれば、果し愛状を受け取っていただきましょう」
「は、果たし愛状??」
 きらりと輝いたオーマの目を直視して、ノトールは思わず後ずさる。
「つまり、自分のことを認めてもらうために勝負を申し込む、ってことだね」
 マーオが丁寧に補足したので、オーマはにっと笑った。
「そのとおり。勝負内容はノトール様がお決めください。……ノトール様と旦那様に俺のことを認めていただけなかったら、そのときは身を引きましょう」
 本当に好きあっているのなら駆け落ちしたほうが早いのに、オーマはわざわざ自分を認めてもらおうと勝負をもちかけた。
 ノトールはオーマの誠実さを認めないわけにはいかなかった。
「分かりました、受けてたちましょう。アスティアさんもそれでいいのですか?」
「ええ」
 こうして、アスティアの行く末を決める勝負が始まった。


 ノトールが提案した勝負というのは、『アスティアを幸せな気分にさせたほうが勝ち』というものだった。お茶の席をもうけ、そこでどちらがよりアスティアの笑顔を引き出せるか。
 同席するのはオーマ、アスティア、ノトールは当然として、マーオ、シルフェ、そしてアスティアの父親であるセグルルである。
 アスティアの実父なのだから、その年齢は80を越している。とはいっても、アスティアと同じく背筋がぴんと通っていて、髪は全て白くなっているとはいえとても80歳とは思えない若さだった。
 マーオとシルフェは再びお茶の用意をしながら、傍らで同じく支度しているオーマに聞こえないよう小声で話している。
「どうなるんだろう、この勝負。オーマさん勝てるかな?」
「さぁ。こういうものは水物ですからね」
 『水物』という言葉にオーマが反応し、ぎぎぎ、と振り返った。
「水が云々とか言うの、やめてくれねぇか」
「うふふ、オーマ様ったら神経質になりすぎですわ」
 水。
 それは、オーマにとって天敵といえるものだった。
 水に触れてしまうと大変なことが起きるので、彼はいつも防水性に優れた手袋をつけ、水仕事は絶対にしない。
「その体質、アスティアお嬢様は知らないんだよね?」
「あぁ。だが、……こんなことを知られたら、結婚を認めてもらうどころか、このお屋敷にもいられなくなっちまう」
「でも、いつまでも隠し通すのは難しいと思うし……秘密を抱えてるっていうのはとても苦しいと思うよ?」
「いつかは言わなきゃならねぇってのも分かってんだ。でも……」
 オーマの悩みは絶えなかった。
 ノトールの前ではがんと言ってしまったが、こうして親しい人間だけになると、つい本音が、恐れていることばかりが口をついてでてくる。
 そのような心配事を心からどけようと、彼は仕事に集中した。
 甘い物が嫌いなアスティアのために、レーズンとクルミが入ったパンケーキと、さくっと焼いたパイ生地に酸味がきいたマーマレードをはさんだ菓子を作っている。
 クルミの殻を割るのはオーマ、出した実を砕くのはマーオ、生地をこねるのはシルフェだ。
 この屋敷にも料理人がいるが、アスティアの個人的なお茶の時間では彼ら三人が作ったものを好むのだった。
 やがて用意が整い、三人はアスティアやノトールが待つ中庭へ向かった。
 カートを押すオーマの腕を、シルフェがやさしく撫でた。
「ずいぶん緊張してますね」
「そりゃ緊張もするぜ」
「力んでいたら何事もうまくいきませんわ。リラックスリラックス」
「そうだよオーマさん! ケーキでも食べて笑って!」
 そういって、カートの上に載っているかわいらしいショートケーキを指し示した。
 ……ショートケーキ?
「おいおい、ちょっと待て!」
 オーマは嫌な予感がして立ち止まった。
 ケーキは甘いものの代名詞といっても過言ではない代物である。
 前にいったとおり、アスティアは甘い物を嫌う。普通は同席者が嫌いなものを供するようなことはしない。そんなことをすれば、一人だけ浮いてしまうからだ。
 それを承知でケーキが載っているということは……。
「お前ら、このケーキは普通のケーキか?」
「僕からすれば普通だよ」
「わたくしから見ても普通です。どこからどうみても美味しそうですわ」
「……言っちゃ悪ぃが、シルフェが笑って保証してくれるとかなり怖いんだが……」
「うふふ」
 シルフェは楽しそうに微笑んでいる。
「つまり、このケーキは怪しい代物っつーことだな?」
「……そうと言えなくもないかなぁ」
「で、何を入れたんだ?」
 マーオとシルフェは顔を見合わせると、手を取り合って仲よさそうにきゃらきゃらと笑った。
「笑い薬♪」
「これを食べれば大笑い確実です♪」
「ねーっ♪」
「あのなぁ……こういう小細工はするなよ。フェアじゃない」
 思わず床に沈み込みそうになりつつ、そのケーキを通りすがりのメイドに言って、マーオとシルフェの部屋に届けるように言った。
 アスティアたちに食べさせられないことはもちろんだが、捨てるのも言語道断だ。となると、作った本人が食べるべきだろう。
 やっとのことで中庭に着くと、菓子を全員に出した。
 もとよりセグルルはノトールを婚約者と定めているので、二人の会話はかなり弾んでいるようだった。
「こんなに立派な若者を夫とできるなんて! 嬉しいだろうアスティア!」
「えぇ。そうですわね、お父様……」
 だが、アスティアはあまり楽しそうではない。というよりは何かしら考え込んでいると言ったほうがいいだろう。
 ノトールもその様子が気になってはいるようだが、セグルルがひっきりなしに話しかけてくるので声をかけることができなかった。
 そこで、オーマがそっと近づいた。
「アスティアお嬢様。お菓子がお口に合いませんでしたか?」
「いいえ、とても美味しいわ。いつもありがとう」
「とんでもない。料理は俺の喜びの一つですので」
 その受け答えもどこか上の空といった感じだった。
 オーマがアスティアに声をかけているのに気がつき、セグルルは激しい口調で注意した。
「アスティア! そんな平民と付き合うのはやめなさいと言っただろう!」
「お父様も若いころは平民でいらしたのでしょう? それなのに身分がどうのとおっっしゃるの――」
「うるさいッ!!」
 セグルルが大きく腕を振りかぶり、アスティアの頬めがけて振り下ろす――!
 だが、それは当たることはなかった。頬に当たる直前、オーマがはっしと受け止めたからだ。ノトールも驚いて腰を上げていた。
 アスティアは毅然としてセグルルを見つめている。
「お父様は私のことをお金を手に入れる道具としか思っていないことが良くわかっています。私に対しての愛情などひとかけらもないと。お父様が本当に愛しているのはお金と、地位と、甘い賞賛だけですもの」
「金を手に入れるための道具……? ど、どういうことです?」
 ノトールが目を丸くして問うた。
 オーマにきつく腕をつかまれたセグルルは、それを振り払って憤然と席に着く。
「我が家はただの富豪でしかない。一代で成り上がったので、人脈などないに等しいのですわ。数年前、お父様が成り上がるのに大きく貢献してくださったお客様が亡くなり、それからは一気に収入が減って大変なことになっています。そこで、貿易を営んでらっしゃるノトールさんの家に目をつけたのです。だから……私はノトールさんと結婚しても、『お父様の道具に過ぎない』という意識が消えることはないでしょう」
「でも、俺はアスティアさんを心の底から愛しています……!」
「あなたのお気持ちは存じています。それでも、だめなのです。お父様の影があなたから消えることはないでしょう」
「そんな……」
 はっきりとしたアスティアの言葉に、ノトールはひどくショックを受けたようだった。力なく椅子に座ってそれきり黙ってしまった。
 セグルルは怒りで顔を赤くし、がたりと席を立った。
「いいだろう。そんなにその執事と結婚したいなら止めはせん。だが、それ以後この屋敷へ入れると思うな! 勘当だ!」
「分かっていますわ」
 迷いのない返事を聞いてさらに怒りをあおられたのか、セグルルは足音荒く退席した。
 セグルルがいなくなると、中庭は鳥のさえずりや風の音以外はしなくなった。
 それまでの重苦しい重圧は消え去り、マーオは大きく息を吸い込んだ。もう少しあの調子が続いていたら、窒息死したかもしれないと思った。
「申し訳ありません、ノトールさん。約束を破ってしまいましたわ」
 悲しそうにアスティアが言う。
 だが、ノトールは聞いているのかいないのか、力なく椅子に座ったまま動かない。
 そして……。
「あなたも巻き込んでしまいましたわ。もうこのお屋敷にはいられない。申し訳ありません、オーマさん」
 静かに、呟くようにアスティアは言う。
 そして、オーマも静かに答えた。
「俺はアスティアさんと一緒に暮らせるのであれば、どこでも幸せです」
 マーオがにこにこしてこっちを見ているのに気がつき、オーマはすこし恥ずかしそうに頭をかいた。
「では……せっかくですし、このお屋敷で最後のお茶を楽しみましょう」
 そう言って振り返った瞬間。
 のんびりとした悲鳴と、食器がぶつかる音。
 ノトールははっとしてアスティアの腕を取ると、ぐいと引っ張った。
「あらら、どうしましょう」
 しばしの沈黙の後、服に紅茶をこぼしてしまったシルフェがスカートをついと上げ、下を見ている。
 とっさに引っ張られたアスティアにお茶がかかることはなかったが、目を丸くして脇の地面を見つめている。
 マーオは困り果てて視線をさまよわせていた。
 そこで、ノトールが気がついた。
「オーマさんは?」
 今の今までアスティアの横にいたオーマが忽然と消えていた。
 だがその問いに答える者はなく、全員で地面を見つめている。
 ノトールが不審に思い、身を乗り出して地面を覗き込むと、そこには銀色の小さな獅子がいた。大きさは子犬程度だろうか。
「まさか……オーマさん?」
 獅子はうつむいて、頷くでもなく尻尾をゆらゆらと揺らしている。
 アスティアはゆっくりと手を伸ばすと、その獅子をテーブルの上に乗せた。
「オーマさんですのね?」
 アスティアの問いに、獅子はしぶしぶといった感じで頷く。
 オーマのこの体質を知っていたマーオとシルフェは驚いていなかったが、これからどうなるのかと困惑して顔を見合わせている。
「アスティアさん! こんな人と結婚すると……?」
 視線を集めて居心地が悪そうに、そしてそれ以上にこのことが知られてしまって悲しそうに縮こまるオーマ。
 アスティアはそんなオーマをじっと見つめていた。そして、愛おしそうに鬣を撫でた。
「どんな姿でも心は変わりませんわ。私が愛したのはオーマさんの心。……雨の日や水仕事には不便だとは思っても、嫌いになどなるものですか」
 そしてその日の夕方、オーマとアスティアは二人で屋敷から旅立った。


 + + +


「それで、オーマさんとアスティアお嬢様はどうしたの?」
「一緒にお屋敷を出てから、ささやかな結婚式を挙げたそうですよ」
「僕も行きたかったなぁ。きっと素敵な式だったんだろうね」
「今からでも何か贈り物をしましょうか?」
「あ、それもいいかも! 僕はやっぱりお菓子を作ろうと思うよ」
「そうですね。甘くない、でも可愛らしいお菓子をたくさん作って贈りましょう」
「最近考えた新しいお菓子があるんだ! 見た目は可愛いクッキーなんだけど……」
「……なんだけど?」
「えへへ、食べるまでのヒミツ! そうだ、旦那様に試食してもらおうかな〜」
「旦那様はお菓子がお好きですから、少しぐらい体が小さくなってもお気づきになりそうにありませんしね」
「あれれ? 新作のクッキーが『体が小さくなるクッキー』だって、何で知ってるの??」
「うふふ、ヒミツです」
「えぇ〜っ! 気になる〜っ!」
 そしてセグルルに体が小さくなるクッキーを食べさせたマーオとシルフェも屋敷から追い出され、町に小さなお菓子屋さんを作ったとか。




●配役
主人公……オーマ・シュヴァルツ
友人1……シルフェ
友人2……マーオ
末娘……アスティア
婚約者……ノトール
主人公の主人……セグルル












●公演後
「婚約者って言うから……てっきりアスティアさんと結婚できるものかと……」
「ははは……すまん」
 公演後、控え室の隅で激しく落ち込むノトールと、その後ろで謝るオーマの姿があった。
 ノトールとアスティアは祖母と孫ほど年が離れているのだが、ノトールはアスティアに恋愛感情を抱いている節がある。
 役とはいえ、アスティアと結婚できると喜び勇んで劇に参加したのだろう。
「それにしても、オーマさんがずいぶんと若くなっていらして驚きましたわ」
 パンケーキを食べながら、アスティアは微笑んでいる。
 劇中で作ったお菓子が余ってしまったので、もったいないと思ったアスティアが食しているわけだ。
 オーマはアスティアの隣に座ると、マーマレードをはさんだパイに手を伸ばした。銀色の髪が揺れる。
「これは俺の能力の一つというか……普段どおりがよかったですかね?」
「私は普段のオーマさんのほうが素敵だと思いますわ。立派なお体で」
 その言葉を聞いて、ノトールがさらにダメージを受けたようだった。
「ノトール様、こんな端にいないで一緒にお茶しましょう?」
 紅茶ポットを持ったシルフェが言う。
「そうだよ、せっかくなんだから楽しく食べようよ♪」
 マーオはショートケーキを持ってにこにこ笑っている。
 二人はノトールをお茶の席に引きずってくると、手に持っていたショーとケーキと紅茶を勧めた。
「オーマさんには素敵な奥さんがいるのに、アスティアさんとまで結婚しなくたって」
 ふてくされた表情でケーキをつつくノトール。
 そして……そのことを指摘されたオーマはぽとりとパイを落とした。手がわなわな震えている。
「お、おま……っ! せっかく忘れてたってぇのに思い出させるなーーーーーッッ!!!」
 絶叫し頭を抱え、今までノトールがいた部屋の角で縮こまってしまった。……とは言っても巨体の彼である、たいして小さくなれてはいないが。
 その奇行を不思議に思ったマーオが、相変わらず笑顔のシルフェに訊ねる。
「オーマさんどうしたの?」
「オーマ様は恐妻家ですから、役とはいっても誰かと結婚したということが知られたら、その存在を抹殺されかねないんでしょうね」
「なるほど〜。オーマさんでも怖いものがあるんだね!」
 マーオの言葉を聞いてか、ノトールが吹き出した。
「笑うことはねぇだろ!」
「す、すみませ……ふふっ」
 オーマが抗議するものの、ノトールは笑い止む気配を見せない。
 オーマが恐妻家であるというのはわりとよく知られていることだし、そこまで笑えることでもないと思われるのだが……。
「……まさか、マーオ! ショートケーキには本当に笑い薬が!?」
「もちろん! 嘘をつくのはよくないことだもんね、シルフェさん♪」
「そうですよね、マーオ様♪」
「あははは、ははは……はは……」
「このパンケーキ、とてもおいしいですわね」
「アスティアさん……少しはノトールの心配をした方がいいんじゃねぇか?」
 そんな控え室の様子を、部屋の外からそっと見ている者がいた。
 老人の仮面をとったセグルルだった。
 彼は普段つけている白い仮面をつけ、壁に寄りかかってワインの入ったグラスをくるくると回していた。
「劇という中で己を別の自分に作り上げる者もあれば、普段隠している本心をさらけ出す者もある。なんとも不思議な世界……」
 ルビー色のワインを口に含むと、グラスを近くの机に置いた。
「レディー・アンド・ジェントルマン、これで終幕ではありますが楽しんでいただけましたかな? それでは次回の公演まで、御機嫌よう――」
 セグルルが優雅に礼をし、場は暗転する。




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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PC
【1953/オーマ・シュヴァルツ/男性/39歳(実年齢999歳)/医者兼ヴァンサー(ガンナー)腹黒副業有り】
【2679/マーオ/男性/14歳(実年齢30歳)/見習いパティシエ】
【2994/シルフェ/女性/17歳(実年齢17歳)/水操師】


NPC
【セグルル】
【アスティア】
【ノトール】


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■         ライター通信          ■
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こんにちは、糀谷みそです。
この度は『セグルル劇団【執事の悩み】』にご参加いただき、ありがとうございました。
劇中ではPCの設定などを改変して書いていますが、あくまで『劇中』でのことですのでご了承ください。

オーマさん、いつもありがとうございます。
そして毎度のように遅刻で申し訳ありませんでした(沈)。
今回はばりばり敬語を使うオーマさんを書くことができ、とても新鮮でした。
……家に帰った後のオーマさんを想像すると可哀そうですが、それがまた楽しくもあります(笑)。
公演後に笑い薬が入ったケーキを食べさせられたノトールは、ちゃんとオーマさんに治療してもらったようです。ありがとうございました。

ご意見、ご感想がありましたら、ぜひともお寄せください。
これ以後の参考、糧にさせていただきます。
少しでもお楽しみいただけることを願って。