<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


堕つ翼 前編


 ある嵐の夜のことである。
 酷くなる一方の空を不安そうに見上げるルディアが、青い光が地に向かって流れるのを見た。
 しばらくして、前のものよりも明るく輝く光が、同じく地に向かって流れるのを見た。
 夜とは言えど、星はおろか通りの端にある明かりさえよく見えない天候なのだ。
 それら二つの光の筋が流れ星であるという可能性は極めて低かった。
 もう夏も近い季節だというのに、ルディアは小さく身を震わせた。


 その翌朝は、昨晩の荒れようが嘘だったとでもいうように灰色の雲はきれいに退散していた。
 そして、一人の風変わりな客が白山羊亭を訪れた。
 身長は180cmほどだろうか。水の滴る白いマントに身を包んでいる、筋肉質の壮年の男だった。酷い猫背と彼の纏った雰囲気がどうも合わない。
 男は店内をゆっくりと見回すだけで、席につく様子はない。
 ルディアが不思議に思いつつしばらく見ていると、男はカウンターでモンスター退治の依頼をしている女性に目を留め、そのまましばらく考え込んでいた。
「ここは依頼を受け付けてくれるのか?」
「はい。犬の散歩からモンスター退治の依頼まで、ほぼ何でも受け付けています。依頼が達成されるかどうかは冒険者次第ですが……」
 男は一つ頷くと、濡れたマントを脱ぎ、太い声でこう言った。
「私の名はダリアエル。昨晩堕天し聖獣界ソーンの地に降り立ったリズエルという女天使を天界に連れ戻すために説得を試みようと思っている。その際に立ち合って欲しいのだ」
 ダリアエルと名乗った男の背中には、純白に輝く一対の翼があった。
 猫背に見えたのは、大きな翼をマントにしまっていたせいなのだろう。
「天界では『リズエルが堕天したのは、どのような手段を使っても魔界へ行って魔王を倒すためだ』と噂になっているのだ。聖獣界ソーンに下るにあたり神によって力を抑制された私では、リズエルが抵抗した場合、聖獣界を守りきれないかもしれない。危険な依頼であるとは分かっているが、どうか助力を願いたい」
 ダリアエルが沈痛な面持ちで深々と頭を下げたので、ルディアは困った表情で店内を見回した。


 + + +


  キィ……
 入り口の扉が開く音に続いて、はっと息を呑む気配がした。
 ルディアが振り返ると、そこには黒い四枚の翼を背負う女性が立っていた。
「何で……こんなところに天使が?」
 雨上がりの空のような濃い青の髪、漆黒の鎧を着る、堕とされた戦乙女サクリファイス。
 彼女は聖獣界ソーンで、しかも行きつけの店で天使と遭遇するとは夢にも思わなかったようだ。
 ダリアエルは彼女の黒い翼を、鎧を見て目を丸くしている。そして軽く礼をした。
「お初にお目にかかる。私はダリアエルと申す能天使だ」
「私は……サクリファイスだ」
 二人が名乗り、そして重苦しい沈黙が落ちた。
 それを打開すべくルディアは馴染みの冒険者がいまいかと見回す。
「……えーと……。あ! キングさん! それに虎王丸さんと凪さんも」
 キング=オセロットは白山羊亭の端で、軽い朝食をとりながら紙巻をくゆらせている。そしてその後ろの席で、虎王丸はキングに声をかけようとし、蒼柳・凪はそれを呆れながら止めていた。
 白煙をゆっくりと吐き、キングが問う。
「その様子は依頼かな?」
「はい。じつはこのダリアエルさんが――」
 説明を始めたルディアを手で静止するキング。そしてカウンターのほうを視線で示した。
「その前に、あそこの二人も誘ってはどうかな?」
 カウンターに座っているのは、二人の大男だった。
 一人は黒髪に赤目、大胸筋が大きく露出した服を着た、眼鏡の男。オーマ・シュヴァルツ。
 一人は金髪に赤目、黒いロングコートと白いワイシャツを着た、葉巻の男。トゥルース・トゥース。
 オーマは家族愛について、トゥルースは神の愛について熱く語っているようで、それに巻き込まれたマスターは幾分か困惑した表情でそれを聞いている。
 ルディアやキングの視線を感じたのか、マスターが二人の注意をそちらへ促す。
「何かあったんかね?」
「さぁな。ただ、天使二人がそろって深刻な顔をしてんだから、かなり真面目な話なんだろうな」
 二人がキングの向かい側に移動すると、ダリアエルが依頼内容を話し始めた。
「一人で魔王を退治しに行くたぁ、リズエルってヤツは大したタマだなァ」
 一通り話を聞き、虎王丸が感心したように言う。
「それは同感だがな。勝手に降りてきて勝手に暴れまわられちゃあ、ちょいと困る」
 胸のロザリオをまさぐりながら、トゥルース。
「勝手に堕ちてきて、連れ戻されるのが嫌で暴れて、結果、この世界に危機が及ぶ。まったく迷惑の極み。魔王の打倒が目的であったとしても、その過程で自らこの世界の脅威となっては一体何をしているやら。本末転倒、盲目の正義ほど怖いものはない」
 キングは新しい紙巻に火をつけながら静かに口を開いた。
「説得する前にいくつか聞いておきたいんだけど。リズエルが堕天したのは魔王を倒すため、と囁かれているそうだが、何か根拠があってのことなのかな?」
 ダリアエルの目を見据えながら、サクリファイスが問う。
 それはここにいるほとんどの者が疑問に思っていることだった。
「リズエルは昔から悪魔に対する憎悪が強い天使だったが、つい三日前、彼女の姉が魔王に誘惑され堕ちたことも関係しているのではないかと思っている」
「まぁ、まずはそれが原因だろうな」
 関係しているどころの話ではないだろうと、オーマが呆れたように言う。
「しっかし、リズエルの姉さんってぇのは魔王が誘惑せずにいられないほどの美人なのか?」
「虎王丸……お前はそういう考え方しかできないんだな……」
 いまやお約束となった虎王丸の言葉に、凪がいささか疲れたように突っ込む。
「本来天使にも悪魔にも美形が多いが、リズエルの姉を誘惑したのは、美貌ではなくその強大な力ゆえだろう。私やリズエルと同じく能天使だったがその力は段違いで、大天使以上だと言われていた」
「それは凄い。だが……そんなに力のある天使でも、魔王の誘惑には勝てないのか……」
 サクリファイスは思わず身震いをした。
 魔王とは、周知の通り魔界に住む悪魔たちの長である。その手にかかれば、かなりの力をもつ天使までも落とせるのか。
 ならば、姉よりも力の劣るリズエルでは到底魔王を倒すことなど出来まい。姉を堕とされた怒りのあまり、理性を失っているのか。……天使だというのに。
 そして冒険者六人と依頼者の天使は、リズエルを天界に連れ戻す具体的な方法を相談し始める。
「リズエルさんのなすがままにさせておいたら聖獣界に甚大な被害が出るかもしれない。だから彼女を止めるのでしょう?」
「そういうことだ。……天界と魔界間の戦だけで収まるならいいのだ。それが天使と悪魔の宿命だからな」
「宿命……」
 凪とダリアエルの会話に、サクリファイスは唇を噛む。
 聖獣界や天界に害をなすモノと戦うのが能天使、戦乙女の宿命。
 戦い、傷つき、倒れ――そして神の力により起き上がり、幾度もそれを繰り返す。
 リズエルの姉が悪魔の誘惑に負けたのは、そんな天使の宿命に疑問を感じていたからではないだろうか。
「やっぱり、お嬢ちゃん本人からも話を聞かなきゃマズイだろ」
「簡単には話さないと思うから、挑発して怒りに我を忘れさせるのが一番だろう」
「おう、俺も同じことを考えてたぜ」
 と、トゥルースとキング。
「手段を選ばないのなら魔王との一騎打ちにこだわるわけでもないでしょうし、リズエルさんが天界へ帰る条件としてダリアエルさんが他の天使たちに魔王討伐の提案をすると約束してはどうでしょうか。やはりこちらも幾らか譲歩しなければならないと思います」
「その程度で済むのなら安いものだ。……ただ、戦を始めるには準備が必要だ。それを待っていてくれるか心配ではある」
 同僚の天使や神の制止を振り切って、単身堕天したのだ。準備に時間がかかれば、再び一人で魔界に乗り込もうとするかもしれない。
「じゃあ俺は獅子に変身して悪魔のフリをしつつ、ちょいと魔界の様子を探ってくるぜ。実際の様子を見といたほうが何かと便利だろ」
 言うなりオーマは早速獅子に変身して魔界へ向かおうとしたが、それを凪が慌ててとめた。
「オーマさんが獅子に変身すればかなりの速度で魔界へ向かえるでしょうが、やっぱり魔界へつくまでに少しでも消耗しているのはまずいでしょう。……僕の舞術で送りますよ。皆さんも一緒に」
「凪、お前そんなに便利なことが出来るのか?」
「はい。アドバン火山の比較的障害物が少ない場所まででしたら、発動まで少し時間はかかりますが空間転移舞術が使えます。……皆さん、もう少し近くに寄ってもらえますか」
 凪はルディアからエルザード周辺の地図を借り、現在いる白山羊亭とアドバン火山をそれぞれ指で触り、目を閉じてイメージを浮かべる。
 白山羊亭の風景は簡単に浮かぶ。
 白山羊亭からまだ見たことのないアドバン火山へと意識を飛ばし、ふつふつと活動を続ける火の山を思い浮かべた。
 空の薄雲に紛れるように立ち上る白煙、荒涼とした山肌。岩の間に潜む小動物を狙うのは、空高くを旋回する猛禽類だ。
 そのイメージを保ったまま凪は舞い始める。
 発動まで少し時間がかかるとのことだったので、その間に他の者たちは身支度を済ませ、ついでに飲食代の勘定もすませた。
 凪が舞い始めておよそ十分の後、凪やダリアエルの周りを燐光が漂い始める。
「じゃ、行ってくるわ」
 虎王丸がルディアに向かってそういった直後、七人は燐光に包まれそのまま消え去った。


 + + +


 青い光に包まれたと思い、瞬きをしてみると。
 そこは灰色の岩石と凝固した溶岩が広がる荒野だった。
「――驚いた、本当に一瞬なんだな」
 腕を組み、トゥルースが辺りを見回している。
 そこはすでにアドバン火山だった。
 念のため地図を持ったサクリファイスが上空から眺めてみたが、まず間違いないとのことだった。
「俺はちょちょっと魔界へ行ってくる。凪、リズエルがくるまで体を休めとけよ」
「……ありがとうございます。オーマさんも気をつけて」
 凪は空間転移術を使って大分精神力を消耗したらしく、手ごろな岩に腰を下ろしている。その凪に声をかけると、オーマは翼のある銀獅子に変化して火口へ向かった。
「さて……。では私たちも火口へ向かおうか。リズエルより先回りした方がいいだろう」
「では私は先に火口へ向かって偵察してくる」
 サクリファイスはその四枚の翼を駆使して先行した。残された五人は凪を気遣いつつ、出来るだけ早く山を登り始める。
 アドバン火山は山とは言っても楯状火山なので非常になだらかであり、火口まで登るのは比較的楽なのは助かった。
「何でこの山が魔界と繋がってんだ? 他の山は繋がってないんだろ?」
 凪に肩に貸しながら虎王丸が問う。
 確かに一見するだけではこのアドバン火山が他の山と比べて特別であるようには見えない。不思議に思うのも当たり前というものだろう。
「この火山の溶岩は特別で、大量の魔力を含んでいるせいだと聞く。溶岩の成分と魔力が特殊な反応を起こし、空間を捻じ曲げているそうだ。もしかしたら他にもそのような山があるかもしれないが、私は知らないな」
 そう答えたダリアエルも他の者たちとともに地を歩いていた。本当は空を飛んだほうが楽だろうが、そこは他の者たちに気を使っているのだろう。
「空間の歪み、か。実に興味深い事象だ」
「でもよ、溶岩と魔力が反応を起こしてるってこたぁ、火口に飛び込まなきゃ魔界へ行けねぇんだろ? ……随分とスリリングな道のりだな?」
「火口へ飛び込んでも魔界へ通じていると分かっているのであれば、怖いこともないだろう」
「ははっ、冷静だねぇ」
 二人は山にいても煙草を銜えている。空気の薄い高地でも吸うとは、もはや賞賛に値するのではあるまいか。
 山の中腹あたりについた頃、火山の上空であたりを窺っていたサクリファイスが地を歩く五人の所に下降してきた。
「リズエルの姿を遠くに確認した。あと五分もあれば我々と接触することになるぞ」
「それ以外には?」
「え?」
「他になにかあったのだろう?」
 キングに思いがけない斬り返し方をされ、サクリファイスは困惑した。そして……図星を指されたと思った。
「……リズエルが幼い少女だとは知らなかった。それだけだ」
「子供なのか!? ……いや、でも……天使ってぇのは外見と実年齢は違うもんなんだろ?」
「そうとも限らない。現に、私は外見どおりの年齢だからな」
「お、そうなの?」
 サクリファイスの言葉に虎王丸は嬉しそうに反応するが、今はそれどころではないと凪から肘鉄を食らう。
「幼いから実力行使はしがたい?」
 ダリアエルはすぅっと目を細めて問う。……そのような考えを持っていたら仕事の邪魔になる、とでも思ったのか。
「いや、元々実力行使をするつもりなど毛頭ない。私まで刃を抜くと収集がつかなくなる」
「では何か問題が?」
「……まだ幼いリズエルがあなたや神の静止を振り切って一人堕天したとのことだけど、彼女はそれほど力のある天使なのか?」
「不意を突かれたのだ。神とて万能ではない」
「…………」
 薄く空を覆っていた雲が……。
 どんどん重く垂れ込め、遠くの方でゴロゴロと雷を轟かせ始めた。


 + + +


 一方、魔界へと下ったオーマ。
 彼は魔界の赤い空を銀の矢のように駆け抜け、ひときわ大きな波動を感じる方向へ向かっていた。
 大きな力を放っているのが魔王だろうと考えてのことだったが、それが合っているかは自分でも分からない。
 オーマの血は比較的悪魔に近いとはいうものの、自分から積極的に悪魔に対して話しかけるという気にもなれない。なぜなら彼は魔界の常識などを知らないし、おかしな言動をすればたちまち悪魔たちが集まってきてしまうだろうから。
 しばらく進んでいると、その方向に小さな城砦が見えてきた。そこから力を感じるので慎重に侵入を試みようとしたが、すぐ背後に気配を感じて慌てて振り返った。前方に気を取られるあまり背後の警戒を怠ったと後悔するが、もう遅い。
「……ダリアエルの匂いがするわ」
 オーマの背後にいた悪魔は、そう呟いた。
 そこにいたのは女悪魔。
 金髪に白いドレス、そして黒い翼。
 翼が白かったら天使と見紛う外見だった。
「ダリアエルを知っているのか?」
「知ってるも何も、私の恋人だったんだもの」
「じゃあお前がリズエルの……」
「姉のルーエルよ。……リズエルを知っているの? あの子は元気?」
 目の前にいるのが、一連の騒動を引き起こしたともいえる人物である。彼女が悪魔に魅入られて堕天さえしなければ、聖獣界ソーンが脅威に晒されることもなかった。
「たぶん元気が有り余ってるぜ。魔王を倒すと言って神や同僚の天使の制止を振り切り、一人堕天するぐらいだもんな」
「堕天、ですって? リズエルが!?」
 ルーエルが訝しげな顔になる。
「ダリアエルって天使の話だとな。俺が実際に見たわけじゃねぇ」
「……あなた、聖獣界から来たんでしょう?」
「ああ。ダリアエルの依頼で、リズエルを天界に連れ戻すために手がかりを探しに来た」
「私も一緒に聖獣界へ行くわ」
「なんだって? ……大丈夫なのか?」
 オーマはルーエルの背後に控える数人の悪魔に目をやる。魔王の誘惑により堕天したのに、そうやすやすと聖獣界と魔界を行き来させてもらえるのなのか?
「少しの間なら何の問題もないわ。それよりもあの子の誤解を解かなきゃ……!」
 つれていた悪魔たちに何か言うと、彼らは頷いてオーマが目指していた城へ帰っていった。
 そして二人はアドバン火山へと通じる空間のゆがみを目指す。


 + + +


 人間で言えばわずか八歳ほどの少女だろうか。
 白いワンピースからは華奢な手足がのぞいていて、細い金の髪は肩できれいに切りそろえてある。
 灰色がかった小振りな翼を一生懸命はばたかせているが、ダリアエルやサクリファイスのような速さはでていない。
 精一杯の速さでアドバン火山へ向かうリズエルの前に、ダリアエルと五人の冒険者が立ちふさがった。
「リズエル。一人でどこへ行こうというのだ」
「……あたしは……」
 大柄なダリアエルと対峙すると、リズエルの華奢さがひときわ目立った。
 夜通し飛んでいたようで服はまだ濡れており、そのまま地面を歩いたのかサンダルは泥だらけだった。
「お嬢ちゃん。一人で魔王を倒しに行くってぇのは本当なのか?」
「ホントウよ。お姉ちゃんをユーワクするなんて許せないわ」
「その小さなナリで、魔王なんていう大物の相手になると思ってんのか? そりゃあ甘いってモンだろ」
 ぷかりと煙を吐きながらトゥルースが言うと、リズエルはいかにも子供らしく、頬を膨らませて反論する。
「大丈夫だもん! だって魔界にはお姉ちゃんがいるから協力してくれるもん……」
「そんな甘い見通しで魔王に挑もうというのか。相手はあなたが幼いからといって手加減はしてくれるのだと思ってるのなら、笑止千万」
「わ、分かってるわ! じゃああなたたちもあたしに力を貸してよ!」
「今のところ聖獣界に害をなす様子がないのに、こちらから大きなリスクを犯してまで先手を打ちたいとは思わないな。それに、私には眠れる獅子をつついて起こすような趣味もない」
 キングが少し冷たいとも思える言葉を吐いた。
 だが、情に流されておいそれと力を貸せる規模の問題ではないのだ。キングの判断は正しいのだろう。
 とは言っても冷たい言葉ばかりでは説得にはならない。
 今度はダリアエルが口を開く。
「魔王をどうしても倒したいと言うのなら、やはり準備は必要だ。一人で飛び出さずに、他の天使や神にも助力を仰ぐべきだった。……一度天界に帰ることはできないのか?」
「……そんなヨユウはないの! 急ぐから、そこをどいてっ!」
 叫ぶなり、右手に彼女自身の二倍はある光の槍を、左手に黄金の盾を出現させ、火口への道を開けようとダリアエルに襲い掛かった。
「……リズエルッ!」
 リズエルからは先ほどまでの弱々しさが消え、その動きは雷光の如し。ダリアエルは切先をぎりぎりで避けるのが精一杯だった。
 圧倒的にダリアエルが不利と見取り、サクリファイスはダリアエルの帯をぐいと引っ張り背後へ押しやった。
 大剣を抜いていないものの、頑丈な鎧があるので受け流すのは簡単だった。素早く突いてきた槍の柄を叩いて軌道を逸らす。
 武術では敵わないと思ったのか、今度は大きく跳び退って詠唱を始めた。
 前に突き出した両手に直径5mはある青い炎の塊が収束し、サクリファイスへ向けて放たれた。
「――どいてーッ!」
 あたりに人家はないのでスイと避けたが、避けてからしまったと唇を噛む。
 このままでは炎の塊は火口へ当たってしまう。
 運が悪ければ空間の歪みが消え、オーマが聖獣界へ戻ってこれなくなってしまうかもしれない。
 意を決して大剣を抜き放とうとしたとき、眼下で白い光が溢れた。
「ったく、実力行使かよ。そこらの胡散臭い哲人の方が、あんたよりよっぽど理性的だぜ」
 ぶつぶつ言いながら青い炎の塊を粉砕したのは、半霊獣人状態になった虎王丸だった。彼自身が常に白焔で包まれるので、炎に対してはめっぽう強いのだ。
 サクリファイスは目礼を虎王丸に送ると、ぎっとリズエルを睨みつける。
「魔王を倒すためだけに堕天して、こんな騒ぎを起こしたのなら。いくらなんでも怒るぞ! 大義名分があったとしても周囲が被る害を無視して振るう力は、ただの暴力だ!」
 そして――。
 はたと、攻撃の手が止まった。
 トゥルースが空を仰ぐと、黒い雲からばらばらと雨のしずくが落ちてきた。
 それはすぐに勢いを増し、近くで雷の音を轟かせる雷雨へと代わっていった。
 その中で……リズエルは泣いていた。頬を流れる涙は雨と共に消えていったが、確かに泣いていると思った。
「……あたしには……お姉ちゃんしかいないのよ……」
「それは聖獣界に害をなしてもいい理由にならないぞ。……あなたが悪魔たちと争うことになれば、きっとこの聖獣界が戦場になる。悪魔といえど自分たちの世界が壊されることを嫌がるだろうし、あなた一人では悪魔に押されることは必死だろう」
「じゃあ、どうしろっていうのよ!」
 リズエルがそう叫んだ直後、彼女は『何か』を見て驚きに目を丸くした。
 キングが振り返ると、火口から銀の獅子と堕天使が出てくるところだった。
 銀の獅子はむろんオーマである。ならば、一緒にいる堕天使は、もしや……。
「な、なんでお姉ちゃんがこっちにこれるの……?」
 オーマと共に魔界から戻ってきたルーエルを見て、ダリアエルも驚きを隠せずにいる。
「リズエル。あなたは天界へ帰りなさい。あなたが堕天しても私は嬉しくないわ」
 ルーエルはきっぱりとそう宣言すると、リズエルの近くにいるサクリファイスを見、最後にダリアエルに視線を移した。
「ダリアエル、あなたはまだ私の言ったことを信じないのね?」
「当たり前だ。あんな荒唐無稽な話、おいそれと信じるわけにはいかない」
「元恋人の言葉でも?」
「無論だ」
「……一体何の話だ? 私たちにはその『荒唐無稽な話』とやらはしてくれなかったのだな、ダリアエル?」
 キングの指摘に、ダリアエルは居心地が悪そうに身じろぎした。
 だがルーエルは動じず、むしろ一歩踏み出して語り始める。
「私が堕天したのは、今の神が偽りの神だと確信したから。苦しむ魂を助けず、魔界を攻めるための兵力をひたすらに集める今の神。でも……それをダリアエルや大天使たちに言っても、一笑に付されるだけだったわ。『神が偽者のわけないだろう』と言うだけで、誰も私の言うことを信じようとはしてくれなかった。私は今の神を廃位させて、本物の神を頂きたかった。魂を救わぬ神など、神でいる資格がないのだから。……私と魔王の目的が一緒だったから私は堕天の誘惑に応じたの。魔王は今の神は闇に染まって力が衰え面白くないから、本物の神を据えてやると言ったわ」
「……確かに荒唐無稽だなぁ。神が偽者だとは凄ぇことを言うもんだ。だが……それが本当なら、一介の伝道師として捨て置くことはできねぇな」
 トゥルースは胸元のロザリオを握り締めて言った。
「お姉ちゃん、それはホントウなの?」
「少なくとも、私はそうだと確信しているわ」
「じゃああたし、魔王を倒すのやめる」
「そう。ありがとう」
 胸に飛び込んできた妹を愛おしそうに撫で、ルーエルはそっと微笑んだ。
 だがダリアエルは悔しそうな顔をしていた。聖獣界がリズエルによって危険に晒されるということはなくなったが、自分が信じている神を否定され、気持ちよくは終われない。
「くっ……。ルーエル、お前には近いうちに天罰が下るだろう」
「下せるものなら下してほしいものだわ。天罰は『本当の神』しか下せないはずだもの」
 ダリアエルは捨て台詞を吐くと一人天界へと戻っていった。


 + + +


「……これでよかったのかな?」
「いいんじゃねぇの? 聖獣界の安全はひとまず守られたわけだし」
 釈然としない凪の隣で、虎王丸は鳥の手羽を頬張っている。
 冒険者六人は天使姉妹と別れて白山羊亭に戻ってくると、食事をとりながら今日のことを話し合った。
「虎王丸の言うとおりだ。ダリアエルの依頼である『リズエルを天界へ連れ戻す』ということは叶わなかったが、聖獣界を守ることは出来た。それが最終的な目的だったのだから十分だろう」
「俺ぁ例の偽神ってぇヤツが気になるな。……話に聞いたとおりのヤツなら、ルーエルや魔王を潰すべくなにか仕掛けてきそうだぜ」
 吸い終わった煙草を灰皿に押し付けながらキングとトゥルースが言う。彼らの前には料理の皿ではなく、山と盛られた吸殻があった。
「リズエルは本当に堕天しちまったんかね? だとしたら……抱きとめて手を差し伸べてやりてぇなぁ。天使がこの世界に慣れるのは大変なんだろ?」
「天界で戦い続けるよりもはるかに心休まるけどね。聖獣界の必死に生きながらも明るい人たちに、私自身どんなに勇気付けられたことか」
 実際に魔界の現状を見てきたオーマ、そして自身が堕天使のサクリファイスは他の者とは少し視点が違った。
 魔界はオーマが思っていたよりも綺麗で、空の色をのぞけば聖獣界と大して変わらなかった。
 そこに住む悪魔たちは、巷で言われるように悪い者ばかりなのだろうか? 神が魂の救済を後回しにして兵力を集めてまで倒さなければならない対象なのだろうか?
 そのように真面目な話をしている面々の中で、凪は少々居心地が悪そうに座っていた。
 先ほどから彼の視線が気になっていたサクリファイスが聞いてみると、凪はこう答える。
「今さらこう言うのも何ですけど、俺、天使っていまいち分からないんです。元いた世界にはそういう……人種? がなかったもので。……すみません」
「いや、謝ることはないが……。そうか、では少し私の昔話でもするかな」
「美人な姉ちゃんの昔話! 興味あるぜ〜!」
 一仕事終えた冒険者たちがわいわいと話すなか、ルディアは一人白山羊亭の外を眺めていた。
 彼女はダリアエルたちに何があったのかよくは聞いていないが、外の激しい雷雨が止まないことを不安に感じていた。
 ――彼女にはその雷雨が神の言葉を代弁しているように感じたのだった。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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PC
【1070/虎王丸/男性/16歳(実年齢16歳)/火炎剣士】
【1953/オーマ・シュヴァルツ/男性/39歳(実年齢999歳)/医者兼ヴァンサー(ガンナー)腹黒副業有り】
【2303/蒼柳・凪/男性/15歳(実年齢15歳)/舞術師】
【2470/サクリファイス/女性/22歳(実年齢22歳)/狂騎士】
【2872/キング=オセロット/女性/23歳(実年齢23歳)/コマンドー】
【3255/トゥルース・トゥース/男性/38歳(実年齢999歳)/伝道師兼闇狩人】

NPC
【リズエル】
【ダリアエル】
【ルーエル】
【ルディア】


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■         ライター通信          ■
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こんにちは、糀谷みそです。
この度は『堕つ翼 前編』にご参加いただき、ありがとうございました。
そして納品が大変遅くなり誠に申し訳ありません……!

トゥルースさんはダンピールなので何かしらの獣に変身できるとのことですが、何になれるんでしょうか?(わくわく)
葉巻を銜え、黒のロングコートをさばきながら歩く姿を想像してにやにやしながら書かせていただきました(怪)。
いいですねー野性味溢れる素敵親父!
それなのに伝道師というギャップがまた素敵ですっ(ぐっ)。

ご意見、ご感想がありましたら、ぜひともお寄せください。
これ以後の参考、糧にさせていただきます。
少しでもお楽しみいただけることを願って。