<東京怪談ノベル(シングル)>


優しさという強さ望みて

 耳の奥に残るのは、樹の表皮にナイフが突き刺さる音。

 礼をくりかえして帰っていった老人たちの声。

 この無明の闇に、明かりのない闇に、やけに響いて聞こえる様々な声。

「癒し、は、喜び……」

 思い出し、ひとつひとつ口に出してみる。

「痛み、じゃ、ない……」

 ……痛みとは、なんだろう?

 千獣は今日もエルザード聖都郊外にある空き家の屋根に上って、物思いにふけっていた。
 今宵は月がない。雲に隠され、真っ暗な闇だけが空を支配する。

 痛み。

 ――今日、千獣の大切な人が二人……痛みを抱えた。
 大切な大切な樹の精霊が。
 そして大切な大切なその守護者が。

 老人が来た。二人やってきた。目を真っ赤にはらしてやってきた。
 孫が――病気で危ないのだと言う。医者に、見捨てられて。
 彼らも、大切な人を救いたくて、やってきた。
 救いを求めてやってきた。

 けれどそれを叶えるためには、千獣の大切な彼女を傷つけなければいけない。
 大切なものと、大切なものがぶつかりあう。
 うまくかみあわない。どうしてもぶつかって、大きな痛みを伴った。
 痛かった。
 痛かった。
 目の前で、彼女が傷つけられるのを見るのは痛かった。
 痛かったはずだ。
 痛かったはずだ。
 傷つけられて、彼女も痛かったはずだ。

 握っていた手が、震えていたから。

 大切なものと大切なものがぶつかりあう。大きな痛みだけが、そこには残るはずだった。
 けれど――
 彼女と意識を重ねて、千獣は心の底から驚いた。
 そこには痛みはあっても、苦しみがなかった。憎しみがなかった。彼女は――
 笑っていたのだ。笑って、千獣に囁いたのだ。

「私、も……あの、二人……の、お孫、さん、の……回復、願う……?」

 ――できるだろうか?
 彼女には簡単にできること。
 私には、できるだろうか?

「もしも……私が……怪我、を、した……ら……、樹液……喜ん、で、差し、出して、くれる、って、言って、たっけ……」

 彼女の優しさ――
 彼女を前にすると、自分がとても弱く感じる。無力に感じる。
 何もできない。そう思う。
 そして彼女のように優しくなれないと、そう思う。
 彼女には爪も牙もない。けれど、強い。
 優しさという強さ。
 ――自分にはない強さ。
 優しすぎて、ときには痛みを伴うけれど、そんな彼女だから大好きだった。
 そんな彼女だから好きなのだ。

 そしてもうひとり――
 彼女に刃を向けなくてはいけなかった――彼。
 怒っていた。
 彼女を大切に思っているのは、彼も同じだ。
 大切なものに刃を向けねばならない思い。その痛み。
 ここでも大切なものと大切なものがぶつかって。
 そして彼も、痛みを抱えて。
 ――彼がつらくなかったはずはないのに。それなのに、彼に八つ当たり。

 耳に響くのはナイフの音。
 彼が彼女の表皮に、ナイフを突き立てた音。
 それはきっと、彼の心臓の音。
 彼の心臓に、ナイフが突き立った音。

 流れ出た樹液は、彼女の血であるだけでなく。
 きっと彼の血でもあったから。

「……謝ら、なきゃ……」

 八つ当たりしてごめんね。
 痛みを抱えているのは彼のほうなのに。
 八つ当たりをしてごめんね。
 痛みを取り除いてあげられないのに。

「……謝っ、て、それ、から……」

 いつか。
 彼と彼女の痛みが終わるように。
 終わらせてあげたいから。
 難しいことは分からないけれど、だからひとりでは無理だけど、その方法を一緒に考えることはきっとできる。
 否、一緒に考えてみせる。一緒に考えるからと、伝えよう。

 空を見上げると無明の闇。
 終わりが来ないかのような、永遠の闇。
 恐ろしい闇――

「……うう、ん……怖く、ない……」

 終わりが、来ないはずはない。
 きっと大丈夫。
 この暗闇が、いずれ晴れるのと同じように。彼と彼女の痛みも終わる。
 自分の怯えも終わる。彼と彼女の痛みを共有できない怯えも終わる。

 自分の痛みも消える。

 思い至って、苦笑した。

「やっぱ、り、自分の、こと……考えて、る、んだ……」

 いつだって、一番に考えてしまうのは自分のこと。どんなときだって一番は自分のこと。
 自分が苦しくなりたくないから、その方法をさがして。
 でも……
 その方法をさがすことが、彼と彼女の痛みを消すことになるのなら、これ以上の喜びはない。そのことは断言できるから。
 何も、しないことのほうが。
 ――ずっと、ずっと痛いから。
 自己満足と言われようとも。
 自分はきっと諦めない。諦められるはずがない。

「伝え、られる……?」

 彼に、彼女に。
 私の思いを伝えられる? きちんと伝えられる?
 言葉の下手な自分だけれど。八つ当たりもしてしまう自分だけど。
 ――きっと彼らは聞いてくれるだろう。
 自分の言葉を聞いてくれるだろう。

「分かっ、て、くれ、る……?」

 彼が、彼女が。
 自分の切なるこの思いを、理解してくれる?
 言葉の下手な自分だけれど。思いを伝えるのが苦手な自分だけれど。
 ――きっと理解してくれるだろう。
 そしてきっと言うのだろう、二人は。

 ありがとう、と。

「お礼、が、欲しい、んじゃ……ない、から……」

 そうじゃない。そうじゃない。
 お礼を言われたくて伝えるんじゃない。
 そのためには実行しなくては。こうやってひとりで物思いにふけるだけじゃなく。
 大好きな大好きな二人のために。

 ふと見ると、雲間から光が差した。
 月が一瞬見えて、そして隠れた。
 千獣はほんの少しだけ笑った。

「キボウ、って言う、ん、だっけ……?」

 見えたり隠れたり。意地悪なその光の名は“希望”。
 見えた瞬間を逃さずに、つかまえよう。
 なぜならそれが、大切な二人の痛みを消してくれるかもしれないのだから。
 自分も頑張れば、自分もその光をつかまえれば、彼らの痛みを消してくれるかもしれないのだから。

「頑張、る、よ……」

 ひとつだけ、二人に問うてみたいことがある。
 私にも、身につく?
 “優しさ”という名の強さ、身につく?
 もしもそんな日が来るのなら――
 私はそれを、何より二人に贈りたい。
 そうして今日も眠りにつく。いたずらな光が時々差す暗闇の中で。
 囁く言葉。二人に向けて――

「お休み、なさい……」
 どうか痛みのない、安息の眠りを――


 ―Fin―