<東京怪談ノベル(シングル)>


嘘つきの夜

 月の満ち欠けはまばたきに似ている、と思う。夜は誰かに見張られている。新月の夜はきっと、その見張りが目を閉じている瞬間。だから本性が顔を出す。黒妖はしたたかに、あくびをしてみせる。

 うっかり捕らえられた原因は他愛もないことだった。逢魔が時に足元が薄暗く、うっかり村の畑を荒らしてしまったのだ。黒妖は鉄格子のある部屋に閉じ込められて夜を過ごす羽目になった。
「どうしましょう」
扉には大きな錠がはめられており、鍵がなければ開けられない。その鍵は通路を挟んで反対の壁にかかっていて、手を伸ばしても届きそうにはなかった。
 早くも押し寄せてきた退屈を持て余し、ふと右のほうへ目をやると物陰から恥ずかしそうに黒妖を見つめている少女と視線がぶつかった。
「ここの子?」
愛想よく話しかけてみたが、少女は驚いて隠れてしまった。が、黒妖のことが気になるらしくまた恐る恐る顔を出し、手招きすると一歩二歩近づいてくる。餌をまいて鳥のひなをおびき寄せるように、黒妖は辛抱強く少女を手繰り寄せていった。
「・・・ねえお兄ちゃん、お兄ちゃんの羽って、本物?」
どうやら少女は、黒妖の素性よりもその容姿に惹かれたらしい。触ってみたいと言わんばかりに全身がうずうずしている。
「そうですよ。ほら」
自分のものだという証拠に黒妖は羽をゆっくりと動かしてみせた。すると、花が咲くように少女の目が輝き、飛べるのかと続けて訊ねられた。
「・・・・・・」
少し黙った黒妖であったが、なにかよからぬことを考えているときの癖だった、にっこり笑って少女に耳打ちをする。
「飛ぶところを見せてあげてもいいんですが・・・部屋の中では狭すぎますね。扉が開けば、出られるのですが」
「私、開けかた知ってるよ」
黒妖の羽に魅了されている少女は、鍵というものの本来の役割をすっかり忘れ壁にかかった鍵束を背伸びして取り上げた。鍵は閉じ込めるためにかかっているんですよと黒妖は心の中だけで少女に教える。
「はい、これで出られるでしょ」
四本の鍵のうちの一つで錠を外すと、少女は扉を開いて自ら部屋の中へ入ってきた。黒妖の手を握り、早く飛んでみせてとせがむためだった。
「ありがとうございます。お礼に、いいことを教えてあげましょう」
黒妖の長い爪は、少女のうなじにかかっていた。
「実は僕、ひどい嘘つきなんですよ」

 変わり果てた少女を見つけたのは、彼女の兄だった。彼は斧を取り、狩のときに使う犬と仲間たちを連れて、逃亡した黒妖を追った。少女の血の匂いを辿り、犬たちは吠えたてながら黒妖を追い捕らえたのだが、広い草原で男たちが犬を見つけたときその数は三匹から二匹に減っていた。男が一番可愛がっていた犬の代わりに、黒妖が血まみれになった首輪を弄んでいた。
「あの犬、すごくうるさかったですよ」
おどけるように黒妖は犬の首輪を自分に巻いてみせた。
「けれど最後には助けてほしいって、切なそうに情けなさそうに鼻を鳴らしていました」
「・・・っ!」
妹に続いて犬までも手にかけられた男は、激情に任せて斧を振り上げた。だが黒妖の起こしたかまいたちのように鋭い風が全身を切り裂き、血を吹き上げながら数メートルも後ろへ吹き飛ばされる。
「ば・・・化け物!」
蜘蛛の子を散らすように、黒妖の力に怯えた連中が逃げ出した。だが黒妖はその後ろ姿を、人も犬も関係なしに傷つけていく。唇には残忍な笑みが浮かんでいた。
「ほら、逃げないと、避けないと」
男たちを風で追い回す黒妖の姿はまるで、ねずみ花火を楽しむ子供のようであった。走り回って、転げまわって、弾ける様を喜んで眺めている。
 そうした遊戯の絶頂にあった黒妖は油断していた。背後からさっき傷つけた男がゆっくりと近づいてくるのに気づいていなかった。
「い・・・もう・・・との、か・・・たき!」
男は後ろから黒妖を横から突き飛ばすと、仰向けになったところへ馬乗りになって首輪のベルトを締め上げた。苦しさに顔を歪めながら、黒妖はなんとか振りほどこうと男の手を引っかくのだが、男は力を緩めようとしない。むしろますます力がこもり、そこには、愛するものを殺された恨みが宿っていた。
「や・・・めろ・・・」
だんだんと意識が遠のいていく、黒妖は最後の抵抗を示すために腕を振り上げたが、拳を作ることはできずそのままぱたり、と落ちた。それを見届けた男はゆっくりと目を閉じ、息を引き取った。

 翌朝、黒妖が息を吹き返したのは実に奇跡だった。前夜とはまるで人の違ったような顔つきで黒妖は目を開き、新月の晩は終わったのだから当然だ、自分の胸に乗っているなにか重いものを手で払いのける。ごろん、と地面に転がり落ちたところで初めて死体だとわかって息をのんだ。
「な・・・・・・!」
悲鳴を上げようとして、黒妖は喉がひどく苦しいことに気づいた。触ってみると革と鎖の感触、どうやら首輪をはめているらしい。外そうとしたのだが、こびりついた大量の血が固まってしまいどうにもならなかった。
「どうして、血が・・・」
首輪だけではない。自分の手も胸も誰かの血で赤く染まっていた。さらに周囲を見回すと数人、そして数匹の死体。すべて自分がやったらしいと判断するまで、いや受け入れるまでにはかなりの時間が必要だった。
 重い心を抱えながらもどうにか立ち上がった黒妖が一番にしたことといえば、大きな穴を掘ることだった。昨夜の記憶がない黒妖には、ここで死んでいる彼らがどこの誰か覚えていないので、死を告げる相手もわからないのだ。だから、目の前に広がる草原の中へ葬るより仕方なかった。
自分の背丈ほどにも深くした穴の中へ男たちの死体を投じ、さらに犬たちもと一匹を抱えあげたとき、どこかから鐘の音が聞こえたような気がした。それは弔いの時に鳴る鐘のようだったが、耳のせいだと黒妖は思った。丁度その頃、村のほうでは少女の葬儀が始まっていた。
重なり合った死体の上に盛り土まで終えると、黒妖の全身は泥まみれであった。泥と、そして全身に浴びた血を洗い流すため、黒妖は近くの小川まで歩いていった。川は流れが緩く、自分の顔を映してみることもできた。さっきからひりひりとする喉のあたりを見てみると、紫色の痣がベルトの形でくっきりと浮かび上がっている。
「・・・これだけのことを、してしまったのですね」
痣を刻まれるほど、それでもきっと足りないほどひどいことを、あの死体の中の誰かにしてしまったのだ。
 この首輪は外せない、と黒妖は思った。痣が消えるまでのカムフラージュというだけではなく、痣が消えた後こそここに痣が残っていたのだということを、忘れてしまわないように。

 もしも昨夜の出来事を月という監視者が見ていたならば、あの世で月は少女に伝えられただろうか。黒妖の羽は、本当は飛べないのだよと。彼は本当にひどい、ひどい嘘つきなのだよと。