<東京怪談ノベル(シングル)>


A n a m n e s i


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「…はぁ」
 ベッドに寝ころび、きつく枕を抱いたジュディ・マクドガルの唇から、重いため息が漏れた。
 ごろごろと頻繁に寝返りをうちながら見る窓の外、夜空はとても澄んでいて、したたり落ちそうな蜜色の月とさんざめく星たちが輝いているというのに、ジュディの心には重い暗雲が垂れ込めている。
 ベッドの枕元には薄い、だがしかし実の詰まった学術書。先日、自分で自分を強く戒めて、初めて最後まで読むことの出来たそれは、朝まではジュディの誇りの証のように重厚に見えていたのだが…。
 ジュディは横目でその学術書をじっと見つめる。だが次の瞬間、ジュディの愛らしい顔がくしゃりと歪んだ。目には今にも零れそうな大粒の涙が浮かぶ。
(…情けない…な…)
 ぼす、と抱いた枕を顔に押しつけて、涙が零れてしまうのを阻止した。泣き出したいのを堪えているせいか、喉がひくひくと引きつり、つんとした痛みがせり上がってくる。
(せっかく、座学が苦手なのを克服する糸口を見つけたと思ったのに…そのせいで昼の鍛錬で息切れしてしまうなんて…)
 そう。学術書は最後まで読み切った。だが、寝不足のせいか、その達成感による気の弛みか、今日の昼の鍛錬の途中で眩暈を起こしてしまったのだ。やっと眩暈がおさまったのは一眠りした後で、空は既に暗くなっていた。
(新しいことを出来るようになっても、そのせいでその前に出来ていたことが出来なくなるのじゃ意味がないじゃない…)
 ジュディは自分の頭の中がぐるぐると渦を巻くような感覚に襲われる。それは学術書を読了する前にも感じた感覚。自分の頑張りが全て空回りしてしまって、焦り、追いつめられた時の感覚だ。
(あたしは成長なんかしてない!あの本を読み終わる前と何にも変わらない…!)
 ジュディは無力感を感じていた。まるで、世界の全てが遠くにいってしまったかのような、自分だけが取り残されてしまったような気持ちだ。

 コンコン…

 その時、ジュディの部屋の扉をノックする者がいた。ノックの仕方で解る。母だ。ジュディは慌てて起きあがると、目を擦って涙の跡を消す。
「はい、どうぞ!」
 ジュディがそう返事をすると、扉が開いてジュディの母が顔を覗かせる。彼女はベッドから半身を起こすジュディの側に寄ると、その顔を優しくのぞき込んだ。
「具合は良くなったかしら?」
「…あ、はい。眠ったらすっかり!」
 努めて明るく、ジュディはそう言って微笑む。零しそうになった涙のせいでまだ目はちりちりとした痛みと重さが残っていたけれど、外見では解らないはずだ。案の定、母も安心したようにほっと息をついてから、ジュディの頭を撫でる。
「ああ、そうだわ。貴方が寝ている間に、郵便が届いたの」
 母はにこやかにそう言って、胸に手を当てた。その頬はほんのりと薔薇色で、まるで恋する乙女のようだとジュディは思う。ただ郵便が届いただけでこんな顔をするとは思えない。ジュディは大きな瞳を更に大きく見開いて母を見上げた。母はそんなジュディにくすくすと微笑んだ。
「…郵便?…まさか!?」
「ええ、お父様からよ。貴方宛てにも、お手紙があるわ」
 母は今まで後ろ手に隠していたものをジュディの前に差し出した。それは一通の手紙と小さな小箱。母の手からそっと渡されたそれを、ジュディはじっと見つめる。手紙には見慣れた父の流暢な筆跡で「ジュディへ」と書き添えられていた。
 その沈黙をどう取ったものか、母は「しょうがない子ね」というように苦笑する。
「私はそろそろ寝ます。せっかくのお手紙なんですもの。一人でゆっくりと読みなさいな」
 ジュディは返事が出来なかった。じっと手紙を見つめ、瞬きすら出来ないくらいだ。
 母はそのジュディに少しだけ心配そうな顔をするが、気持ちを抑えるように目を閉じて、それからまた微笑む。
「おやすみなさい」
 それだけ言って、ジュディの額に軽いキスをすると、母は部屋を静かに辞した。
 それでも、ジュディはじっと宛名の流暢な筆跡を目で追うだけで、手紙を開くことを躊躇っていた。
(…今のあたしに、これを見る資格はある?)
 ジュディの胸には今日のことが重たい凝りとしてわだかまっていた。きっと、手紙で父はジュディの修行を激励してくれているだろう。だが、それに応えられる自信は、今は…ない。
 ジュディは枕元にその手紙と小箱を置いて眺める。月の光に照らされた白い封筒は蒼く幻想的に浮かび上がり、とても綺麗だ。
(…本当は読みたい。でも…)
 月の光の中で、ジュディの白い指先が手紙に伸びる。その指先が封筒にそっと触れた時、やはり我慢が出来なくなった。急いで─でも出来るだけ丁寧に─その手紙を開いて、かじりつくように目を通した。
 その手紙は「愛するジュディへ」…そんな出だしから始まった。家族が健やかに暮らしているかどうか慮る言葉。そして、自分の近況などが簡素に綴られていた。
 普段のジュディならば、そんな飾り気のない書き出しに、かえって父の実直な性格と、変わりなく無事でいる様を見て、微笑むところ。だが、今のジュディにはそんな余裕はない。父は今、辺境の砂漠の国に逗留しているらしい。それだけを読みとると、大きく見開いた瞳をぎこちなく動かして、続きに目を通す。
 その瞳がゆっくりと紙上を撫で下ろし、最後まで読み終わった頃、ジュディは目の端から大粒の涙をぼたぼたと垂らしていた。
 やはり父はジュディを激励してくれていた。だけどそれは単なる激励ではなくて、ジュディのことをとてもよく分かってくれた上での優しいものだった。
 うまくいかないことがあっても、焦ることはないのだ。つまづくことも、立ち止まって悩むこともあるだろう。だが、つまづいたら起きあがればいい、立ち止まってもまた歩き出せばいい。一流の冒険者たる父ですら、そうやって歩いてきた。これからもそうやって歩き続けるだろう。
 大事なのは挫けないこと。諦めてしまわないこと。そして、彼女が精一杯に頑張っている限り、父とジュディは共の道を歩んでいるのだ。
「…う…うぅぅぅ…お父様ぁ…」
 ジュディはぽろぽろと零れていく涙と一緒に、胸のつかえも融けて流れていくのを感じていた。
(ゆっくりでもいい、また立ち上がろう!)
 強くそう心に決めて、ジュディは手紙をその胸に抱いた。


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 眠っているだろう母を起こさないように、そっと、ジュディは風呂場にやってきていた。
 手紙と共に贈られた小箱には、美しい花々が細かく彫刻された淡い桃色の石鹸が入っていた。小箱をあけただけでふわりと甘く華やかな香りが鼻腔に届く。ジュディはどうしても、これを使ってお風呂に入りたかった。
 今日の重荷は全て洗い流して、ジュディがまた明日から頑張れますように。そういう願いを込めて贈られたもののように思ったからだ。だから、どうしても今、使いたかった。
 足の伸ばせる大きな湯船で充分に暖まってから、洗い場でスポンジに石鹸を塗る。暖かい蒸気に乗って、風呂場に石鹸の芳しい香りが充満した。ジュディは目を瞑って肺一杯にその香りを吸い込む。
 それは南国の果実や花のような香りだと思った。しかし、父は砂漠の国にいるという。では、オアシスに咲く花や、甘い果実の香りなのかも知れない。
 ジュディはその小さな体をスポンジで隅々まで綺麗に洗っていった。そのスポンジがお尻に触れたとき、ぴりっと痛みがした。そっと後ろを振り返って見てみると、ジュディの可愛らしいお尻が赤くなっている。昨日の夜に自らを戒めるために強く叩いたお尻が、まだ少し痛むのだ。
 しかし、ジュディはその痛みにも顔を歪めることはなかった。逆に少しだけ笑って、それから、その赤いお尻を一度だけ、ぱちんと叩いた。
 痛かった。けれど、その痛みは、どこか父を思い出させる痛み。
(お父様。身体遠く離れていても、魂はあたしと一緒にいてくれるんだね…)
 ジュディはうっとりと石鹸の匂いに酔いながら、くすりと悪戯っぽく微笑んだ。
(うん、あたし頑張るよ、お父様!だから、また挫けそうになったときは、お父様を思い出すために、こうして自分でお尻を叩いてもいい…かな?)


<了>