<東京怪談ノベル(シングル)>


最高の姿で

 クルス・クロスエアの大切な森が何者かによって奪われつつある――
「結界を破らないと……」
 黒山羊亭のカウンター席でひとり次の作戦を練っていたクルスの元に、ひとりの少女がつと近づいてきた。
 クルスは振り向いた。
「千獣……」
 長い黒髪に、今は頼りなげな光を見せる赤い瞳。全身に呪符を織り込んだ包帯を巻きつけた異様な雰囲気を持つ少女――
 千獣。そんな名を持つ彼女に、クルスは「どうした?」と隣の席を進めた。
 おずおずと、すすめられるままに席に座った千獣は、体を硬くしてうつむく。
「千獣?」
 クルスが不思議そうに少女の髪に触れ、隠れた顔をあらわそうとする。
「その……」
 思わずクルスの手から逃れながら、千獣はごにょごにょつぶやいた。
「結界、破る……準備……忙、しい、のに……ごめん、ね……」
「何だ。そんなことなら気にすることはないよ」
 クルスはエールを二つ注文し、千獣と自分の前に置いた。
「――キミにも世話をかけてるね」
「そん、な、こと……」
 ――森は千獣にとっても大切な場所。
 それを護るためなら迷惑でもなんでもないのに。
「森、心配……」
 千獣はつぶやいた。「みんな、大丈夫、か、な……」
「――俺はそれよりも、今のキミが心配だけど」
 エールをあおいで、クルスは言った。
 ぴくり、と千獣が反応する。
「エール飲んで。酔っ払った勢いでもいい……心にたまったものは吐き出していいよ」
 クルスはそっと千獣の肩を抱いた。
 千獣は身を硬くして抱かれていた。そのことを、クルスは気にする様子もなく。
「どうしたんだい」
「………」
 千獣は手を動かした。そっと、自分の肩を抱くクルスの手に重ねて。
 そのぬくもりを感じて。
 ――なんだか、泣きたくなった。
「私……獣、の、姿に、変わる……」
 クルスは黙ってきいていた。ただ、肩を抱く手だけは離さずに。
「人、は、みんな……私、を、化け物って……呼んだ……」
 ――物心ついた頃からの事実。
 そのことを気にしたことなど、なかったはずなのに。
「だけど……何て、呼ばれ、て、も、平気、だった、けど、」
 ――化け物とは呼ばない人々に出会った――
「……化け物、って……呼ばれたく、ない……人、が……できて……」
 震える手でもう一度クルスの手の感触をたしかめる。
 変わりなかった。彼は――変わりなく自分に接してくれている。
「獣の、姿、を、見られ、たく、なく、て」
 ――信じられるとつぶやいたのに。
 ――信じられるはずだったのに。
 ――化け物という言葉が頭から離れてくれなくて。
「大、切、な……人たち、の、危機、を、前に、して、も……まとも、に、戦え、なかった……」
「千獣」
 青年の優しい声がする。ああ――
 いつだって自分は、この声の優しさに甘えてしまう。
 ――本当に隠したかったのは化け物の自分か、
 それとも……弱い自分か。
「……ここに、来るの、も……怖、かった、し……」
 ――今も、怖い。
「こんな、自分、を、見られ、たく……ない……でも」
 千獣は初めて顔をあげる。
 青年の緑の瞳と、視線が交差した。
「でも……クルス……だから……自分を、隠して、いたく、ない……」
 青年の瞳は穏やかだ――
 この穏やかさに、甘えてもいい?
「ねぇ……まだ……森、助ける、戦い……終わって、ない……」
「ああ」
 クルスの強い声がする。
 この強い声に、自分は並べる?
「今度は……逃げ、ない……」
 ――そう、今度こそは。
 自分を隠したりしない。
 逃げたりしない。
「もしも、の、ときは……呪符、を、外して、も……戦う……」
 自分の体に巻きつく呪縛の包帯を撫でて、千獣は言う。
 視線をそらさないようにするのに、とても力が要った。
 青年の緑色の視線から、目をそらさないようにするのに。
「その、とき、は……」
 そして目をそらさないまま、
「私を……見て……」
 千獣は言葉を紡ぐ。
「私の、すべて……」
 ――たとえ化け物と呼ばれても。
 見ていてほしい。あなたにだけは。
「お願い……」
 つぶやいた声が、震えていた。
 ああ、自分は何て弱いんだろう――
「千獣」
 こつん
 と、青年の額と千獣の額がぶつかった。
「――約束するよ。キミのすべてを見る……」
 千獣は頬を紅潮させた。こんな目の前に、彼の顔がある。
 クルスは目を閉じていた。
「キミが今、出してくれた勇気にかけて、裏切ったりしない」
 ――彼は今、何を思い描いている?
 思って、千獣は震えた。
 もしも自分の獣の姿だったら。
 もしも自分の弱い姿だったら。
 ――ああ、たった今、
 大丈夫だと決めたばかりなのに。
 しかし、クルスはつぶやいた。
「キミは……精霊だな」
「―――!」
 千獣は顔を離した。紅潮した頬をますます上気させながらふるふると首を振る。
「私、は、精霊、じゃ、ない……! 精霊、みたい、に、綺麗、じゃ、ない……!」
「千獣」
「私、は、化け物……!」
「――化け物じゃないだろう?」
 少女の両肩を両手で持ち、クルスは微笑んだ。
「うちの精霊たちもね……かつては化け物と呼ばれていたそうだよ」
「―――!」
「人ならぬもの。人はそれらを化け物と呼ぶ――」
 それでも――と青年は優しく言葉を紡いだ。
「精霊は精霊だった。キミもよく知っているだろう?」
「でも、私、は、化け物……!」
「だったら」
 唐突に、
 クルスは千獣を抱きしめた。
「俺のために、俺だけの精霊になってくれ、千獣」
「………!」
 精霊になる。それはどういうこと……?
 自分も精霊になれる? そんなはずがないのに――
「誓うから。キミがどんな姿になっても、こうして抱きしめると」
「クル、ス、」
「誓うから。キミが笑顔でいてくれるなら――」
 笑顔?
 それだけ?
 ――たったそれだけでいいの?
「キミがどんな姿かたちになっても、笑顔が……見られるなら」
 それでいい。それでいいから。
「そんな、の……」
 千獣はクルスの腕の中で身じろぎする。
 クルスは腕をほどき、今度は両手で千獣の顔を包み込む。
「笑ってくれないか? 俺のために」
「クルス――」
「キミに笑顔が咲くように、俺も努力するから」
「―――」
 急にこみあげてくるものがあって、千獣の目からそれはぽろぽろとこぼれ落ちた。
 クルスが苦笑して、それを唇でからめとった。
「涙じゃなくて、笑顔がいいんだけどね、本当は」
「ご、ごめん、なさ」
「謝ることじゃない……千獣」
 涙はぽろぽろこぼれ落ちて止まらない。
 けれど、流れるたびに優しく指ですくいとってくれる彼の行為が幸せで、このまま涙が止まらなければいいのに――とさえ思った。
「キミは獣になるかもしれない」
 クルスはそっと千獣の髪をすく。
「でも、それが本当の姿じゃない」
「ほ、本当の、姿、は」
「どれが本当の姿にするかは、千獣、キミが決めることだろう?」
 だから――
「本当の姿で。笑顔で。……キミにとって最高の姿で」
 涙を指ですくって、クルスは優しく千獣の顔を包み込む。
「すべての姿を俺は愛する。それでも……キミにとっての最高の姿が一番だ。たとえそれが獣の姿でもいい。キミが決めたことなら従おう」
「………」
 涙がとまらない。どうしてこんなにも――この人の言葉は胸に響くのだろう。
 クルスはエールを千獣に差し出してきた。
「飲んでごらん。酔うまで飲んでごらん。それで眠ってしまえばいい。嫌なことは全部忘れて……」
「よ、酔えない、私、が、意識、失った、ら、中の、獣、たち、が」
「俺が押さえ込む。押さえ込む系統の魔術は得意だと言ったろう?」
「――酔った、ら、勢い、で、獣、に」
「キミの姿は全部見ると言った。誓った」
 安心して。
 青年の瞳が、そう言っていた。
 安心して。安心して身を任せて。
 千獣の心に優しく響く。
 千獣は――
 差し出されたエールを受け取り、一口飲んだ。
 甘く味付けされたエールは、ほんのりと心を暖めた。
「クルス……」
「ん?」
 ――大好き。
 なぜだろう。そんな言葉を初めて思いついた。
 その一言を、口には出せずに。
 ただ千獣は、クルスに寄り添った。
「クルス。クルス……」
 大好き。大好き。大好き。
 名前を呼ぶだけで溢れてくる想いが。
「ねえ、きっ、と……」
「なんだい?」
「――最高の姿で」
 最高の姿で、あなたの前にいたい。
 どんな姿になっても。すべて一時的にして。
 最高の姿で、あなたの前にいたい。
 笑顔で。笑顔で……

 エールの甘い香りは優しい眠り薬。
 クルスの腕の中で眠りに落ちながら、千獣は思っていた。
 最高の姿、あなたのためにきっと――


 ―Fin―