<東京怪談ノベル(シングル)>


異界の獣

 梟の鳴き声。虫の羽音。木々の間を小さな生き物が走りぬける。
 夜の生き物が満ちる森の中、鼻歌混じりに子供が歩いていた。
 まだ十歳を過ぎたばかりくらいの小柄な少年だ。
 闇を恐れる風もなく、ただ気の向くままに歩いている。
 手元のランプに照らされる相貌は、この空と同じ黒い髪に、新緑の瞳。
 子供が一人で出歩くには遅すぎる時間だったが、辺りに大人の姿はなかった。
 少年、ゾロ・アーは鼻歌を止めると、月を見上げた。
「まいったねぇ。≪聖獣を越える獣≫を退治してくれ、だなんて。普通、そういうのは白山羊さんか黒山羊さんに、お手紙を出すものじゃないのかな」
 白と黒の冒険者の店、そのどちらも冒険者のお仲間がごまんといる。
 そこで兵を求めれば、すぐに人は集まってくるはずだ。
 なのに、今回の依頼は違った。
 ゾロは、エルザード城での出来事を思い浮かべた。


 + + +

「そなたがゾロ・アーか。その方の活躍ぶり、聞き及んでおるぞ」
 そこには白髪の老人……と呼ぶには力の満ちた男が座っていた。
 脇で白いライオンが寝そべり、左右を騎士が整列している。
 頭に抱く王冠と手にした杖には大ぶりの宝石が治まり、窓から差し込む光に輝いた。
 金色の髪と瞳を持つ者――この聖都エルザードを治める聖獣王、その人だ。
「それは光栄ですね。ですが、緊急に、こんな子供を呼びつけるとはどのようなご用件でしょうか」
 少年は丁寧にお辞儀をすると、王を前に臆する様子もなく答えた。
 その所作は、洗練された大人の仕草、その落ち着き様は老獪した魔法使いのようでもあった。
「うむ。本来なら正式な手続きを踏むべきなのだが、いかんせん。"並の人間"では歯が立たぬゆえな」
 ゾロは、目を細めてほくそえんだ。

 ――なるほど、この御仁は俺が何者か察し付いているわけだ。

「失礼ながら申し上げますと、陛下ご自身が出陣なさればよろしいのでは? 陛下の若かりし日の武勇こそ、この地の民は皆が聞き及んでいること。是非、拝見したいものです」
 無礼な、と整列する騎士の一人が声を上げるが、聖獣王はそれを手で制した。
「余もそうしたいのは山々じゃが、何分この件を公にするわけには行かぬのだ。どうだろう、話だけでも聞いて貰えないだろうか」
 聞いたら引き受けることになるであろう事は、ゾロにはわかっていた。
 だが、好奇心もあった。
 この聖都エルザードを建国した王が、何をそんなに恐れているのか。

 + + +


 丸い月を見上げながら、ゾロは彼の王の言葉を繰り返した。
「"聖獣の目を盗み、この世界に紛れこんだ悪夢がいる。偶然ではなく、聖獣以上の力を持つモノかも知れぬ。異界の生き物に――その方、興味はないか?"……とはね。上手く言ったものだ」
 興味はあった。
 創造の神の一人であるこの身なれば、見たこともない獣に逢いたいと思うのは当然のこと。
 そう、ゾロは生き物を生み出す神――と言っても人間は担当外だが――であった。
 外見こそ子供だが、その実七八四歳だとしたら、大抵、ホラ話と笑われることだろう。
 もっとも、その力の大半はこの地に留まるために抑えられていた。
「こんな可愛い子供ひとりで、ヤになっちゃうねぇ」
 何処か楽しんでいる様子で、ゾロは森を見渡した。
 遠くに連なる尾根のふもとには、名も無き小さな湖が星明かりを映し、輝いていた。
 この辺りの小動物が言うには、あの湖の側に大きな生き物が突然現れたらしい。
「ま、行ってみるしかないか」
 熊や豹、はたまたドラゴンのようなモノかと想像しながら、少年が歩き出した時、森が振動した。
 森の生き物が一斉に騒ぎ、逃げ出す。
 地震かと思ったが、すぐに違うと知れた。

 ――先ほどまで見ていた風景に、動く山が一つ増えていたから。

 ソレが余りに大きすぎて、山に見えたのだ。
 口と思しき場所からは、赤い炎がチリチリと燃え。その巨大な瞳が、確かに自分をみた。
 ゾロにはそう感じた。

 城壁すら噛み砕きそうな顎から、光の束が走った。
 それは一瞬、森を白く照らしたあと、爆発した。
 ゾロはランプを放り出して、耳を塞ぐと地面に伏せた。
 遅れてくる熱風と音をやりすごす。
「……ちょ、ちょっと待ってよ。この世界ごと壊す気?」
 顔を上げて、勘弁してよね、と生き物つくりの神はぼやいた。
 なぎ倒された木々は炎を燻り、先ほどまで豊かな水を湛えていた湖が無かった。
 一瞬で焼き尽くされ、蒸発したのだ。
 断続的に続く地面の揺れと、徐々に大きさを増してゆく――その姿を明らかにしてくる小山に、ゾロの顔は真剣なモノに代わっていた。
 こんなモノが世の中に出れば、生態系が狂うどころの騒ぎではない。
「少し、本気にならせて貰うよ」
 そう呟いて、ゾロは立ち上がった。



 折れた樹木を銛代わりに突き立てたところで、巨大な獣の厚い皮膚には通じなかった。
 辛うじて片目を奪ったが、結果、獣は目測の誤ったままがむしゃらに腕や尾を振りまわしている。
 その度に、大地が抉れ、岩が砕けた。
 どうも、最初の熱線はこの辺りをならし、視界を良くするため――俺を見つけ易くするために吐いただけのようだ。
 異界の獣の思考までは読めない、がその頭にある感情がみえた。
 強い力を求める《飢餓》。
 俺を喰らいたいという、強い思い。
 それだけを抱えて、巨大な獣はその圧倒的な暴力を奮っていた。
 少年は小さく微笑むと、観念した風に言った。
「なら、食べても良いよ。ただし、コイツをね――魔狼パウ=フォウ!」
 少年が名を呼ぶ、と闇が生まれた。

 それは黒き狼。
 神界より、さらに高位の世界に生息する魔狼。

 しかし、召喚するために立ち止まったことで、大きな隙を生んだ。
 少年が顔色を変えたとき、すでに屋根のような口が覆い被さるところだった。
 まして、今傍らに呼ばれたばかりの魔狼が、主を置いて逃げるとは。
 誤算、と少年が思う間もなく、大地ごとその巨大な口が抉りとる。
 異界の獣は喉をならして、飲み込んだ。

 そして巨大な獣は、片目の傷の事も忘れ、雷鳴と間違えそうな勝利の雄たけびを上げた。



 が、それはすぐに苦悶の声に代わった。
 尾根を、変わり果てた森を、獣の叫びが木霊する。
「言ったよね? 食べても良いのは、魔狼の方だって」
 主を置いて逃げた黒き狼が、主の声で言った。
 いや、それは瞬く間に元の少年の姿に戻った。
 ミラーイメージ、魔法で生み出した幻影だ。
 あの一瞬、ゾロは魔狼の姿に、魔狼はゾロの姿に化けていたのだ。
「パウ=フォウ。本当の魔術を見せてごらん」
 巨大な獣の喉からは、もう一つ別の生き物の遠吠えが、主人の声に呼応した。

 それは駄犬。
 それは畜生。
 それは大いなる野人王ググニンの下僕。
 その獰猛さから人神によって捕えられ、また魔術の神に噛みついた魔狼。

 神を喰らいし魔狼は召喚兵器となりながらも、新たな力を得た。
 それは、世界理性を崩し、再構築する強大な魔術。

「この世界の理性に、あなたのような生き物は記されていない。元々在った場所に還るか、"こちら"にあわせて頂きたい」
 ゾロはゆっくりと語りかけるように言う。
 山の様だった獣は見る間に小さくなり、そして――。



 黒い髪の少年は尾根から差し込む光に目を細めると、急に思い立ったように懐から赤い木の実を取り出した。
 自分の肩を見下ろして、
「ほら、お腹空いてたんだろ? ……でも、ちょっと、勿体なかったかなぁ」


 小さな火吹きトカゲがそこにいた。





 END