<東京怪談ノベル(シングル)>


眼鏡の怪



 その日、天護疾風(あもり・はやて)は顔を洗った事を後悔した。
 いつものように早朝に目覚め、いつものように顔を洗って、己の近くに置いたタオルで顔を拭こうと手を伸ばした瞬間。
 その疑問は突如として疾風の頭上に降ってきた。
 何故そんなことに気付いてしまったのか疾風自身分からなかった。洗った顔を拭くこともせずにその場でフリーズしていると、濡れた頬から水滴がぽたりと落ちて、疾風の白い手を濡らして行く。
 暫くの間固まっていた疾風だったが、手に落ちる水滴の感触で我に返り、顔を上げて傍らに備え付けられている鏡を覗き込むと、

「顔を洗っている時は眼鏡を外しているのに……何故私は獣型にならないのでしょうか」

 愕然とした表情で、ポツリと一言呟いた。
 それもそのはず。本来自分の意思で眼鏡を外せば、疾風は人型から獣型へと変化するはずなのだ。にも拘らず、何気なく眼鏡を外して顔を洗っても、疾風は依然人型を保ち続けている。

――これは……矛盾しているのではなでしょうか?

 複雑なようでいて単純な疑問に、七千年近くもの長きを生きる自分が全く気づかなかった事も衝撃だった。
 疾風は往々にその疑問を心の中で反復する。
 こういう事を「天の啓示」とでも言うのだろうか――些か趣向は違うように思われるが――そんな事を考えながら疾風は鏡に映った己の顔をまじまじと眺めると、漸く自分が顔を洗ったままである事に気が付いて、とりあえず落ち着こうと、タオルを手に取りその場を離れた。


*


 窓辺から空を見上げれば、早朝の穏やかな青空が広がっていた。
 自宅に植えられている木々から、小鳥のさえずりが風に乗って周囲に響き渡る。瞳を閉じれば、どこかで朝市でも開かれているのだろうか? 鳥の声に紛れて微かに人の喧騒が疾風の耳を掠めて行った。
 普段であれば、そんな何気ない穏やかな空気に身を委ねながら、和やかに朝食を取っているはずの時刻だ。けれど今、疾風の心中は悶々として灰色一色。
 部屋の中で立ち尽くしたまま無意識に己の鼻筋へ手をやれば、いつもと同様に硬質な感触が伝わってくる。それは疾風が常に身に付けているもの――眼鏡である。
 長い透き通るような白銀の髪をまとめている金環。その金環に繋がれた銀鎖付の眼鏡。それは疾風が物心ついた時から当然のように其処に存在していた。
「己の意思で眼鏡を外す事で、私達の一族はもう一つの本性である獣型に変化出来る……」
 真面目腐った顔で独り言を呟きながら、疾風は己の真紅の瞳を被っていた眼鏡へと手を伸ばし、おもむろにそれを外した。

 一瞬。
 さわりと疾風の持つ白銀の髪が揺れ、それに併せて部屋にある静謐な空気も僅かに揺らいだかのように見えた。
 眼鏡を外すと同時に疾風は瞳を閉じる。その暗闇の中で、疾風は己の姿が自ら併せ持つもう一つの姿に変化して行くのを感じていた。
 揺らいでいたのは己を取り巻く空気か、それとも己自身か。
 閉じていた瞳を開けば、己の視界が先ほどまでと違い、低い。
 苦しみも違和感を抱く事も無く、疾風の体は眼鏡を外す事で、いとも容易にその肢体を獣型へ入れ替えた。

 だが。
 獣型へ肢体を変化させた後も、やはり疾風はその場で身じろぎもせずに思考の迷路を彷徨っていた。

 そもそも天護一族は、生まれる際には皆獣型であり、そのまま約一年で成人となる。
 これは他の獣の性質と同様だが、やがて成人した後は人型も併せ持つようになる。その成長速度は個人により異なるが、この時点で皆、既に眼鏡を身に付けている。それは天護一族として生を受けた自分が一番良く知っているはずの事実。
 しかし、一度抱いた疑問が自分の中の常識を真っ向から否定する。

――大体にして、何故「眼鏡」が肢体を切り替える楔でなければならないのでしょう?

 獣型である現在、疾風の顔にも手にも眼鏡の存在は無い。
 人型の時は常に眼鏡を掛けているのに、獣型に変化した後、眼鏡は忽然と姿を消すのである。
 今朝。眩い日差しに目が覚めて顔を洗うその瞬間まで、疾風の中で当然の如く受け止められていた「眼鏡」の存在が、今ではまるで得体の知れない「謎の物体A」のように感じらた。

 微かに首を傾げて考えながら、疾風は無意識に白狼の姿を人型へと戻す。
 ふわりと身に纏う衣が揺らぎ、その場に白銀の髪を抱く男が現れる。しばし立ち尽くした後、疾風が再び己の鼻筋に手をやれば、案の定そこにはきちんと眼鏡が鎮座していた。

――何故? 眼鏡はいつの間に、どこから出て来てどこへ消える!?

 さっぱり分からない。
 傍から見れば、何故そんな些細な疑問にいつまでも頭を悩ませているんだと馬鹿にされてしまいそうだが、疾風にとってそれは己の存在証明に関わる重大事件のように感じられた。
 まるで「鶏と卵」の不思議を解き明かそうとしているかの如く、むむむと眉間にしわを寄せて思い悩んでも一向に答えは出ない。出せるわけが無い。
 けれど生じた疑問は疾風の頭に深く根付いて一向に離れてはくれず。挙句、芋づる式に次から次へと疑問を生み、思考のループは深まるばかりだ。

 考えすぎの所為か、俄かに貧血を起こして立ちくらみ、疾風は近くにあった柱で己の体を支えた。
「か……顔を洗わなければ良かった……」
 顔面蒼白――。
 疾風はよろめきながらも居住まいを正すと、
「いっそ外に出た方が気が紛れるでしょうか。もしかしたら図書館で調べれば、少しでも謎が解明できるかもしれません……」
 ブツブツと独り言を呟きながら、疾風は気晴らしを兼ねてガルガンドの館へ向かうために外へ出る。

「肢体を変化させる楔が眼鏡であるなら……極論を言ってしまえば、天護一族はある意味「眼鏡一族」ではないのでしょうか?」
 誰かに聞こうにも誰に聞いたら良いのかわからない。取り付く島もないとはこの事を指すのだろうか。
 最後には誇大妄想にまで陥りかけて、そんな事まで考え出す始末。
「……自分で自分が分かりません」
 生真面目な青年は己の謎を解くために、何よりこの疑問を自分の頭から引き剥がすために、やがて早朝の街へと姿を消した。



end.