<東京怪談ノベル(シングル)>
■薄紅と氷■
酒を呑む者達が程良く酒に呑まれ始める頃合には喧騒が場の中央を満たす。
そうなれば隅に蟠る薄闇のように沈黙は多くが押しやられて、胸の裡を見詰めるような者はそちらを選ぶことになるわけだ。
そしてキング=オセロットは例に洩れず店内の端を選んで時間を過ごしている。
まず絡まれることのない場所――とはいえ彼女のまとう空気はアルコールに後押しされても軽々しく関わることを躊躇わせるのだけれど――を選んで腰を下ろし、今もグラスの氷を眺めていた。
薄紅の、咽喉を焼く程の強さの酒。
それは一つの依頼を請けた後日にこの黒山羊亭でエスメラルダから奢られたものだ。
赤い赤い雫を溶かし込んで広げたような薄紅の。
じりじりと熱にさらされて氷がそのまま傾いて鳴る。からん、と響く微かな音にもオセロットはただ見詰めるだけである。
灯りの下で彼女の金髪はひどく映えるものだったが誰一人、軍服の女性の背中に声をかけることはなかった。小さな舞台の楽が切り替わるまでは。
「珍しいわね。なんだか思案顔」
するりと優雅な足取りで黒山羊亭の踊り子が傍らに立つ。
直前までしなやかな四肢を伸ばし曲げ揺らして踊っていたというのに、オセロットの様子を見咎めていたらしい。流石に依頼を請けては誰かに頼むような真似をするだけのことはあるというものだ。そういった事柄は人をきちんと観察出来なければ難しい。
「……ふむ。貴方にはそう見えるか」
「違ったかしら」
「いや、そうでもないのだろう」
そこかしこからしきりにかかる声を慣れた風にあしらっていたエスメラルダは、気配で察していたのかまるで変化なく座るオセロットの返答におやと髪を揺らした。
この一人静かに座る女性は幾度となく依頼を請けて貰った関係であるが、こういった曖昧な返答はまずしない印象を抱いていたのだ。
それはキング=オセロットという人物が異世界からの来訪者、そして生身ではないという事からではなく、彼女自身が己の思うところをはっきりとさせる性質であると。常に自らの内側をきちんと見据えて過ごす、そういった人物だとエスメラルダは付き合いの中で判じていたのだが。
本当に珍しいわ、と言って踊り子は並んだ椅子に腰を下ろすとカウンタの向こう側に「頂戴な」と声をかけておく。心得たもので店員にはそれで充分なのだ。
「……」
無言のままのオセロットは、エスメラルダがそのまま自分へ顔を向ける動きに苦笑すると紙巻煙草を懐から取り出した。
「踊りは休憩かな――吸っても?」
先程から吸ってはいたのだが、傍には不思議と人が寄らなかったのである。気遣うことは必要ないままだったのだ。問うオセロットに笑顔を乗せたままで踊り子は頷く。
「どうぞ吸って。だって踊り続けるなんて、どこかの世界の物語でもないものね。無理よ」
そういえばそんな話もあったか。
子供達に聞かせる話というのはどの時代どの世界でも存外と残酷なものは多い。
思い返す話に瞳を僅かばかり眇めながら火を点ける。
「踊り、といえばそれでもお世話になったわね」
「そうだったかな」
「ええ。とても助かったわ。あのままじゃ廃業だったもの」
「貴方が踊れるのなら、それが何よりと皆思うだろう」
あら上手、とさも愉快げに笑う踊り子に笑み返しながら同様にエスメラルダから聞き請けた依頼の一つを記憶から拾い上げた。いや、このときはとうに拾い上げていて。
「……いつも、本当に助かっているのよ?」
やはりエスメラルダの知るオセロットらしからぬ様子でいっとき目を閉じたのを見、踊り子が繰り返す。化粧がなくとも充分に美しいだろうその顔が緩く笑みを湛えながらオセロットを捕らえている、その肘近くに店員がことりと控えめにグラスを置いた。
ありがとう、と声をかける踊り子を見るともなくオセロットが燻る紙巻を口元に運び寄せる前では氷がまた一度、からりと動く。
その音を聞きながらけれど胸の内。
――助けであれた事柄のいかに少ない事か。
請けた依頼をしくじるなぞついぞ見当たらない、周囲は確かにそう認識しているのにオセロットは思うのだ。
目の前の薄紅の酒。
それとは異なる赤い赤い出来事は事件――歓楽街という場所柄を思えばたいした不思議もない類のものであったが――を引き起こすものだった。エスメラルダの知る娘もまたそれに引き摺られて好いた客を手に掛けて。
数人で事を収めはしたものの、全てを救えたわけでもなかった。
ともすれば溜息さえ零しそうになるオセロットの隣では、踊り子が酒を少量口に含み、転がして飲み下す。
それだけの動作にさえ特有の艶を刷くエスメラルダは喧騒に溢れる店内の一角で一人の客を見ている。金髪の元軍人だというこの女性の空気は幾許かの記憶と重なるものだ。
氷が溶けるばかりのそれと、気に入ったというにはそぐわない顔付きの客と。
覚えのある酒と合わせて考えれば黒山羊亭の踊り子には繋がってくる事件がある。
――箱。赤。
確かに全てを救えた件ではなかっただろう。
事実エスメラルダの知人は罪を犯してしまった――それが依頼の始まりだったのだけれど。
「……ままならぬものだ……」
記憶の糸を手繰り寄せるエスメラルダの耳にオセロットの声。
自嘲する声音とその言葉は端的に発言者の心情を表している様子だった。
ああそうかと世慣れた、多くの人間を見て生きるエスメラルダは彼女を窺いつつ僅かに苦笑するとカウンタに肘を乗せた。つんと顎を出す風にして組んだ手に乗せると多少の芝居を含む笑みの眼差しでオセロットに呼びかける。
「憂い顔も素敵だけど、しっくりこないわ」
横目に踊り子の笑顔を見るオセロット。
ゆるく顔を傾けてエスメラルダは朱唇を震わせてやった。
「ねえ……ここは酔って勝手に話して去るお客も多いの。私と仲の良い人にもそういうお客は居て――いい加減愚痴や独り言なんて聞いているフリばかり上手になっちゃった」
これは良い事なのかしら、と口中で笑った踊り子にオセロットも声は出さずに口元だけで笑う。どうだろうな、と言いながら目の前のグラスの薄紅を一度見てから瞼を閉じた。
思考は、巡り続ける。
先日の依頼のことを軸に。
** *** *
たとえば、発端の事件の原因だとか。
たとえば、想いが過ぎて過ちを犯した者だとか。
「それぞれが相手に向ける想いが、そう、一致せずとも近しければ問題はないのだろうが」
好意。相手を裏切るなぞ考えない感情。親しくしたいと望むそれ。
「人の想いを弄ぶ者。想いの果てに凶行に及ぶ者」
ええ、と相槌を打つ声。
踊り子は確かに聞いている素振りで聞き流す、そんな態度を取っているのだろう。そしてそれもまた素振りなのだろうとちらと思うのはオセロットの勝手な感覚だけど。
「この世の想い」
グラスの中で氷は半ば以上溶けて奇妙な水面を作り上げつつある。
その完全に混ぜるには手を加えなければならない状態を見詰めつつ低く、紙巻を一度咥えてから更に。
「存在する全てが成就するわけはないことぐらいわかっているし、想いを逆手に己の欲得を満たす者がいることもわかっている」
相対する感情の種類を持つ者が対面することも当たり前のように起きるのだ。
両者の望み、想いを叶える事が出来るはずもなく。己の欲するところを叶える為に誰かの想いを弄ぶ者は相手の真摯な感情を削ぎ落とす。それのいかに多いことか。
「それに対して私に出来る事などたかが知れている。いや、何も出来ないのかな」
「そうかしら」
「……そうなのだろうさ。この世界には今この時にもそれぞれの想いがあり、それに満ちている。だが溢れ返っているだろうその想いの中で私が触れている部分はどれ程のものだ」
紙巻を挟んだ指とは別の手でグラスを取る。
ゆったりと持ち上げたそれを揺らせば小さくなった氷はぐるぐると薄紅の中で巡り、奇妙な水面を混ぜ合わせて――こんな風に、触れて更に何かが出来る事などどれ程あるというのか。
「触れたかと思えば、すでに事の後であったり。そう、事に働きかけが出来るわけでもなく」
自らはただの傍観者でしかあれぬ関わりの多さよ。
店に備えられている灰皿の淵で紙巻を一度当てて灰を落とす。
エスメラルダが酒をまた少しだけ呷る気配――まだ店を閉めるのは先だろうに、この程度では踊りに支障はないということか――思考の輪に時折差し込んでは引く別の思考。
対話、独白。
声に出す事は確かに自分の思考を確認する為には有効だ。
だが確認したところで。
(繰り返している)
己に出来る事の限界を考えて、人の想いの釣り合わぬ関わりの多さを思って、オセロットの思考は一定の範囲をぐるぐると巡り迷走している。自覚はある。
「――わかっている。わかってはいるのだ」
全てを最良の結末に導く事など、と。
自らが関わる範囲なぞ知れているとオセロットの言葉の内を、踊り子は察しているだろう。多くの人と関わり、経験を無駄にしない聡い女性であるから。
そう、と小さな声。
ただそれだけであったエスメラルダの反応にオセロットは何も返さず、短くなった紙巻煙草を丁寧に揉み消してからまた取り出して火を点ける。ややあってから深い息のように煙を吐いた。
沈黙が横たわる。
背後からの喧騒は壁一枚隔てた場所の事のようだ。
ざわざわと好き勝手に話しては笑い怒る声。それらの主にどれだけの気持ちがあるのだろうか。それにさえ触れて回る事は出来ない――。
「……話し過ぎたようだ」
「あまり聞いてなかったわ。ごめんなさい」
「いや」
とん、と紙巻をいささか強く灰皿の縁に打つ。
その動作を合図のようにオセロットが苦笑する隣でエスメラルダはこちらも申し訳無さそうに笑って謝罪した。無論白々しいばかりのことであるけれど、それでいい。
「そろそろ踊ろうかしら」
「そうだな。私ばかりが貴方を独占しているのも許されまい」
吐息を細く落としつつ立ち上がりかけた踊り子が、その言葉に瞳をしばたたかせる。ふと笑う唇の艶は酒場の中で特に鮮やかに映った。
「なんていうか……本当に上手ね」
くらくらきそうよ、なんて冗談めかして言ってから。
カウンタについた手もそのままに「ふむ」と己の言動を思い返してみるオセロットを改めて見た。金の髪色も豪奢な元軍人の女性。いつも冷静で無駄がない、けれど多分本人が考える以上に人に優しい。
知人の事件から今も考えている姿は嬉しくもあり、同時に心苦しくもあり。
けれど自分が伝えることはない。
オセロットは思考を果てぬ巡りに放り込んで今酒を見ているが、じきになんらかの形で収めるだろう。答えがあろうとなかろうと、何か一つに囚われ続けてしまう人ではない。
でも。でも、そう。
「関わりは無駄ではないとも言うわね」
お客さんの中でもそういう話をする人がいるのよ。
他者の言葉として黒山羊亭の踊り子はそれを残してから今度こそ舞台へと戻った。
けして大きくはなく、酒場に相応しい慎ましやかなその舞台。舞台というのも難しい適当に場所を開けた程度の。
それでもエスメラルダにとって価値のある場所。
背の白さを晒す踊り子の後姿を見送ってからオセロットは紙巻を咥えると深く、深くその味を染み渡らせるように息を流した。
「成程。一理ある」
揺らしたグラスの中では更に溶けた氷がまた水面を変えている。
掴んで動かせばまた揺れて薄紅の酒と混ざり合い、小さな小さな氷はグラスに当たってかつんと鳴った。
それでもやはり今この胸の内にある遣る瀬無い何某かの思考はまだ巡る。
今暫くは、己の定まらぬ思考に付き合おうか。
オセロットの背後から届く賑やかな声。
それを覆うようにして弦の奏でる楽が耳に響いた。
end.
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