<東京怪談ノベル(シングル)>


S o r r i s o


 ざわざわざわ…。
 あちこちでする夕食前の買い物をする奥様方に狙いを定めた景気のいい呼び込み文句。それ目掛けて豊かなヒップを振って集まるご婦人方。それを横目に仲間同士のお喋りに華を咲かせるセレブ風の美しい若妻達。暗くなる前に家路を急ぐ雇われ人。それと同じにそろそろ帰らなくてはいけないのに、友達と別れづらくてついついごまかして一緒にいる子供達。所々に混じる異国風の人は旅人だろうか。広場では漆黒の髪に浅黒い肌をした異国の美しい青年が、やはり異国の楽器を奏でながら異国の詩を詠っていて、人垣を作っている。背が低くてがっしりとしたイメージの極東の剣士は颯爽と歩き去った。
 そんな人々を見つめながら何をするわけでもなく街をぶらついていると、心地よい街の猥雑さに、先ほどまでのイガついた心が揉みほぐされていくのが解る。
(ここにいる人たちはみんなあたしのことを知らない。あたしが誰だかなんて気にしない。あたしがどんな人間かも気にしない)
 街の一部として溶け込んだ感覚が心地よい。何もかも街と一体になってしまって、自分個人の小さな悩みなんてどうでもよくなってしまいそうだった。彼女はつんと顎をあげて目を閉じた。そうすると、さっと乾いた風に頬を撫でられて、そのまま意識を高く持って行かれそうな気がする。そしてそのまま大気に融けてしまうのだ。でもそれはとても心地いいことで…。
「ジュディ!!」
 はっとして彼女は目を開いた。辺りを見回すと、人混みの中で一人の少女が涙目になりながら、少し先で立ち止まって振り返っている母親らしき女性に向かって一目散に駆け寄っていた。迷子になりかけたのだろう。女性は少女を抱き留める。
「ままー!」
「全く、よそ見してるからこうなるんですよ!」
 女性は少女の頭を軽くはたくと、きつーいお小言を言う。少女はぼろぼろと涙をこぼしつつも、こくこくと母のいうことを聞いては頷いていた。
「ね、もう人がいっぱいいるところでよそ見しないわね?」
「はぁーい…」
 聞き分けよく返事をした少女を見て女性はにっこり笑うと、さっきはたいた頭を今度は優しく撫でた。すると、泣いていた少女も途端に泣きやんでにこりと笑うと、スカート越しの母の足にぎゅっと縋り付く。
「こらこら、歩きにくいわよ」
 少女の甲高い笑い声と共に二人は仲良くその場を離れていった。
(あたしのことじゃなかったのね…)
 彼女、ジュディ・マクドガルはふうとため息をついて、その母娘の睦まじい後ろ姿を羨ましげに見送った。それには訳があった。ジュディも先ほど、母にきつく叱られた後だったのだ。
 叱られた理由は、ジュディが日課にしていた早朝訓練をサボってしまったからだった。昨夜はどうにも寝付きが悪くて、今朝の起床時間に一度起きたはいいものの、眠気に負けて二度寝してしまったのだ。
 それに関してはジュディは自分の非を認めている。冒険者を目指している以上、睡眠は的確に摂らなくてはならないものだし、一度やると決めたことを反故にしてしまうのも、だらしのないことだと解っていた。母は正しい。反省もしている。
 だけど、叱られた後に母と顔を合わせているのが気まずくて、夕暮れの街に飛び出してきてしまった。おまけにさっきまでは消えていた心の重さが、見知らぬ母娘のやりとりを見ているうちに戻ってきてしまった。そのトゲトゲとした重さが心をちくちくと苛む。同じ母娘でも、さっきの母娘はまるで何もなかったかのように笑い合えていたのに。
(どうして…あんな風にすぐに仲良く戻れないのかなぁ?)
 母との仲が悪いわけじゃない。留守がちな父のおかげで、母娘のコミュニケーションとコンビネーションはよくとれているし、何よりも母はジュディを叱る時は厳しいけれども普段はとても優しいし、何よりとても誠実な女性だからジュディが母を嫌う要素は一つもない。母にしたって、一人娘のジュディをとても可愛く思ってくれているに違いないのだ。
(…どうして…)
 ぐるぐると考えながら歩いていると、いつの間にか港までやってきてしまっていた。
 この街の港はかなり立派なもので、数多くの帆船が桟橋に接舷している。この地方の特産品をたくさん積んで出ていって、かわりによその国々から珍しい品をたくさん運んでくる商船や、旅人を快適に遠くへ送り届ける客船、中には危険を惜しまない冒険者たちが乗り込む冒険船もあって…大小三十隻はあるだろうか。
 ジュディは桟橋の袂の手すりに手を添えて、その上にちょんとその少女らしい丸みを帯びた顎を乗せる。目の前には夕日に赤く染まる海。水平線の向こうに太陽が沈んでいこうとしている。
(ああ、早く帰らないと、お母様を心配させてしまう…)
 何も告げずに出てきたから、真っ暗になってもジュディが帰らなければ、母は心配するだろう。そして、また叱られてしまう。そうしたらまた…。
(……………………)
 どうしたらいいのか解らなくなって、ジュディは腕の中に顔を埋めた。思考は絡み合って縺れ、動きを止める。ぐるぐるぐるぐる。世界が自分を乱暴に振り回している気がする。強すぎる眩暈。手すりに体重をかけて頽れてしまいそうなのを堪えた。
 真っ白な頭。何も考えられない脳裏に、ふいに、さっきの母娘が写り込む。その二人はとても楽しそうに笑っていた。
 笑っていた。
 …笑って…。
(あ…れ…?)
 そういえば、母は…ジュディを叱った後に、笑っただろうか。小さな微笑みでもいい。笑ったのだろうか。もしかして叱られた後、ジュディはずっと下を向いてしまってはいなかっただろうか。叱られて落ち込んで、母を見ていなかったのではなかっただろうか。
 ジュディははっと顔を上げた。浮かんだ涙で滲んだ夕日が、半分水平線に呑み込まれている。まだ、完全が日が沈んでしまうまでには時間がある。
 ジュディはぱちぱちと大きな目を幾度が瞬きさせて、手の甲で涙を拭った。そして、鼻をすんと鳴らしながら、きびすを返して街へと走る。今までやってきた道をタンタンと子鹿が跳ねるように走り帰った。
(お母様、あの時笑ってたの?笑って下さってたの?私、そんなことも見てなかったの。だから、また見せて下さい。家に帰った私をお母様が笑って迎えて下さるのを見たら、きっと私も笑えるはず!)
 階段を二段飛ばしで駆け上がり、見慣れた通りを走り抜け、そしてジュディが生まれ育った屋敷が見える。そして、その扉まであと…3、2、1…!
「お母様ーっ!」


<了>