<東京怪談ノベル(シングル)>


貴方に捧げる……

 誓った。あんなに強く誓った。
 彼が選んだ道を護ろうと、何度も誓った。
 でも……
「千獣」
 彼の声が聞こえる。自分のことを呼んでいる。
 千獣はそっと、クルス・クロスエアの傍に近づいた。
 彼は、森の木々を仰いでいた。
「ここが、キミの好きな森なんだね」
 クルスの問いに、千獣はうなずく。
「ここ、の、空気……精霊、の、森、に、似てる……だから、好き」
「本当だ」
 『精霊の森』と呼ばれる森の守護者たるクルスは、風を感じるように目を閉じた。
 その横顔を、千獣は見つめる。
 ――彼を護ろうと誓った。彼の選ぶ道を護ろうと誓った。
 たとえ彼の選ぶ道ゆえに、彼が自分のことを忘れてしまったとしても。
 求められるものが自分の命だったとしても。
 クルスがゆっくりと瞼をあげる。
 緑色の瞳が、森によく似たおおらかな瞳が、そこにはある。
「千獣」
 彼は再度自分を呼んだ。
「木に登ろうか」
「え……?」
「あそこの木の枝なんか、二人でも座れそうじゃないかな」
 クルスの指差す先、たしかに太く長い一本の枝がある。
「どうやって登るかな。僕が先のほうがいいのかな?」
「待っ、て。私……が、先、に、登る……」
 言って、千獣はその木の幹に足をかける。
 ――本当は、背中に隠し持っている獣の翼を使えば枝へなど一瞬なのだけれど。
 彼の前では、獣になりたくなかった。
 翼など使わなくても、木登りくらいお茶の子さいさいだ。千獣はあっという間に目的地につく。
 千獣が枝にたどりつくのを見てから、クルスも木の幹に手をかけた。
 するすると青年も軽く木を登ってくる。
 千獣は胸の奥がちくりとするのを感じる。
 ――なぜ彼は木登りが達者なのだろう。
 また知らない彼を見つけてしまった。
 知らない彼を見つけるたびに、胸にわき起こる感情は、きっと“不安”と呼ばれるもの。
 二人は木の枝に並んで座る。幹のほうにクルスが、それにもたれるように千獣が。
「ああ、いい眺めだね」
 クルスが目を細める。
 千獣は景色を見つめる。――森の中央の中央にあるような木に座っていれば、見えるのは木々ばかりだ。
 けれど、彼がいい眺めだと言う理由が、分かる気がする。
 優しい木々。母なる大地に強く根づいて生きる木々。
 一見生き物ではないものに、命を見出すということ。
「ここの木々も、強いな……」
 つぶやいた彼の独り言が、なぜか遠く聞こえた。
 千獣は思わず、彼の腕に取りすがった。
 クルスが驚いたように千獣を見る。
「どうしたんだい?」
「……ううん……」
 ――貴方がどこかへ行ってしまうかと思った。
 そう思った千獣は、自分が誓いを守れていないことに気づいた。
 ――彼が望むなら、自分のことを忘れられてもいいと、そう誓ったはずではなかったか?
 それなのに、彼がいなくなるのは嫌なのか。
「………」
 千獣はゆっくりとクルスの腕を解放する。
「クルス、は、クルス……だか、ら」
「何のことだい?」
「………」
 千獣はうつむいて、黙りこんだ。
 こんなにもこんなにも傍にいたい人なのに。
 彼はいつか行ってしまうかもしれない――

 彼の、失われた過去に、帰ってしまうかもしれない。

(それでもいいって、誓った……)
 千獣は思う。(彼が過去に戻ることを選ぶなら、その道を護るって誓った……)
 命を投げ出してでも。
 彼女は彼を護りたいと思ったから。
 たとえ彼の失われた記憶が戻ってきて、代償に自分のことを忘れられても、それでもいいと誓った。
 ――あんなに強く誓ったのに。
 胸の奥がこんなにひりひりと焼けるように痛いのはなぜ?
「千獣」
 クルスは千獣の顔をあげさせる。視線を合わせて穏やかに微笑んだ。
「千獣。……泣くんじゃない」
「泣、く……泣い、て」
 言われるまで気づかなかった。自分が涙をこぼしていることに。
 青年の指が優しく千獣の涙をすくう。
「何か、悲しいことでもあったかい……?」
 穏やかな声がする。
 千獣は目を伏せた。
「クルス、は……過去、を、取り、戻す……?」
「………」
「過去、取り、戻し、たい、と、思う……?」
 ――不老不死になる代償に、過去を捨てた彼。
 その過去を刺激する存在が現れた。
 もし過去を思い出したら――
 彼は自分たちのことを覚えているのだろうか?
 ――クルスは――
 こつん、と千獣の額に自分の額を合わせた。
「心配するな」
「―――」
「俺は過去に未練などない。……未練があったら精霊の森に住んでいない」
「でも」
「大丈夫だ」
 優しく千獣の頬を撫でて、言い聞かせるように囁く。
「大丈夫だから……泣くな」
 木の枝が揺れる。千獣の体がクルスの腕の中に抱かれる。
 とくん、とくんと青年の鼓動が聞こえる。
 心の底から安心できる場所が、そこにあった。
「過去と向き合うのはいずれやらなければならなかったこと……」
 千獣を抱きしめたまま、青年はつぶやいた。
「覚悟はしていたさ。痛みがともなうことは……」
 それでも。
 それでも彼は。
「今の俺は……クルス・クロスエアだ」
「―――」
 千獣は彼の背に腕を回した。
 彼の鼓動をもっと聞いていたかった。彼の体温をもっと感じていたかった。
 彼の選ぶ道を自分は護る。
 彼が精霊たちを、そして自分を忘れない道ならば、これ以上の幸福はあるだろうか。

 自分は護るだろう。
 自分の命を投げ出してでも。

 そう、思ったときに――

「だから千獣」

 クルスは千獣の背にまわした手に力をこめて、つぶやいた。
「……俺の前からいなくならないでくれ」
「―――!」
 千獣は顔をあげる。
 はかなげな青年の笑顔が、そこにあった。
「俺の傍にいてくれ。俺がどんな道を選んでも、生きて俺の横にいてくれ……」
 俺のわがままを聞いてくれと彼は言った。
「―――」
 千獣の目から、再び涙がこぼれ落ちる。
 ――自分は何て勝手だったのだろう。
 彼の気持ちを考えもせずに……

 自分がやるべきことはもうひとつあったのだ。
 命をかけて護ることじゃなく。彼の傍らにいて、彼を支えること。
 そんな大切なことを忘れていたなんて――

「う、ん。――うん」
 強く抱きしめて。
 千獣はうなずいた。何度もうなずいた。
 クルスが微笑むのが分かった。
「ありがとう……」
 そしてふたりは口づけを交わす。誓いの口づけを。
 ――離れないから。永遠に離れないから。
 それはきっと、命を投げ出すことより難しいこと。それでも、
(できる……きっとできる)
 彼の腕の中で、千獣は何度も何度もその言葉を繰り返した。
 大好きな彼のために。
 彼の傍に、いること。
 それはきっと、自分のためでもあって。
 きっと、自分の幸福にもなって。
 なんて贅沢な――幸せを、彼はくれるのだろうか。

 木の枝がかしいだ。

「うわっ……っ」
 体勢を崩したらしい、クルスがすべり落ちた。
 思わず背の翼を生やして、千獣はクルスの腕を取った。
「………」
 二人でふわりと空中に浮かび、千獣はそっと地面に降り立つ。
 ――翼持つ自分。異形の自分。見られたくなかった自分。
 それが今、彼の目の前にいる。
「クルス……」
 千獣は呼吸困難になりそうなほど不安に鼓動を高鳴らせながら、青年の様子をうかがう。
 青年は――
「ははっ。木からすべり落ちるなんてまぬけだな――運動不足かもしれない」
 軽く笑っていた。
 爽やかな風に乗って、軽く。
「………っ」
 千獣は思い切り彼に抱きついた。彼が足をすべらせて地面に転がり、千獣の下敷きになっても構わずに。

 ――ねえ、貴方は知っている?
 ――私が一番、貴方に捧げたいものを――

 とくん、とくんと自分の鼓動が跳ねる。
 彼にもきっと届く。この鼓動が。

 木々がさざめいて、二人を包み込む。
 優しくあたたかく穏やかな木々は、いつまでも二人を見下ろしてくれていた。


 ―Fin―